第286話 人間の被検体!
[ジョーカーか]
[お呼びと聞き、急ぎ参内いたしましたルシフェル様]
封印術の開発成功より三日後の謁見の間。
一向にCfo=tyhau=thuの中から動こうとしない旧神の指導者、バアル=ゼブルに業を煮やしたアスタロトによってコタツは撤去され、名残を残すものは謁見の間の片隅に置かれたミカンと、金網が置かれた火鉢のみとなっていた。
[貴様に重要な任務を与える]
[は? ……ハハッ]
ルシフェルの言葉にジョーカーは生返事を返してしまい、慌てて平伏する。
だがルシフェルは玉座に肘をついたまま、鷹揚に手を挙げるだけに留め、ジョーカーの不作法を咎めることもなく話を続けた。
[その前に聞いておくことがある。俺が新しく作り出した術のことは聞いたか?]
[ハッ、何でも対象のモチベーションを下げ、すべての行動に対して思考が鈍り、緩慢な動きしか出来なくなるものとか]
[うむ、魔族に有効なことは確認できた。そこでお前には、人間にもこの封印術が有効か確かめてもらいたいのだ]
[人間にも……でございますか?]
[むしろ小うるさい人間どもを封じる、それこそがこの術の開発目的だ]
懐疑的な態度をとるジョーカーをルシフェルは鼻で笑うと、即座に目を細めて圧を強める。
[使う対象は貴様に一任する]
[承知しました]
ジョーカーはルシフェルに一礼をすると、謁見の間を出ていった。
(さて、どうしたものか)
謁見の間を出たジョーカーは、ルシフェルの指示の鷹揚さに溜息をつく。
まだ性能を十分に知りえていない術の効果を、対象者も定めずに確かめてこいとは、さすがのジョーカーもその難解さに頭を抱えるばかりであった。
(術自体の性能は問題ないようだ。なにせエレオノールはおろか、あのバアル=ゼブルやヤム=ナハルまで捕らえてしまうほどだからな)
レースのカーテンから廊下へ降り注ぐ陽光を、堕天使であるジョーカーは忌々し気な目で見ると、床に落ちた光を踏みにじるように歩き出す。
そして忙しい日々だったヴェイラーグでの暗躍を終え、戻ってきた昨日のことを思い出していた。
[別にお前に迷惑をかけてるわけじゃねえんだからいいじゃねえか!]
[やることは沢山あるのに、キミが寝転がってばかりいるから怒ってるの!]
昨日は珍しくアスタロトとバアル=ゼブルが争っており、脇でその成り行きを見守っていたヤム=ナハルとエレオノールに、戻ってきたジョーカーは説明を求める。
仔細を聞いた後にジョーカーが再びバアル=ゼブルを見ると、そこにはとうとうアスタロトに打ち負かされて正座になった青い髪の旧神が、アスタロトがガミガミと発する説教に打ちのめされているばかり。
ジョーカーはそれを情けない心持ちで見ていたが、すぐにその真実に気づいて心胆を寒からしめたのだった。
(私がいくら言っても王城に留まろうとせず、フラフラと出歩いていたバアル=ゼブルを謁見の間に縛り付ける封印術……その性能は折り紙付きであろう)
王城の扉を守る魔神の挨拶に軽く手をあげ、開いた扉から差し込む日の光に全身を照らされたジョーカーは、仮面の奥に潜む邪悪な眼光を鋭くさせて歩き出す。
(だが魂の自主的な活力を失わせる封印術という性格上、強制的に術をかけるのは望ましい結果が得られぬか……?)
そしてその結論に至ったジョーカーは、ある知り合いの家へと足を向けた。
「……で、私ですか」
[別にお前を術の被検体にするわけではない。手続き上、自警団の許可が必要だと考えただけだ]
その知り合い、エリザベートの家から出てきた一人の男、自警団団長のブライアンをジョーカーは仮面越しに見つめる。
存在感が薄いわりには何かと表舞台に立ち、今では自警団のトップになったこの男に対し、ジョーカーは心の奥底でボンヤリとした警戒感を抱いていた。
「もちろん不許可です」
ニコリと笑みを浮かべ、予想通りの回答をしてきたブライアンの顔を、ジョーカーはジッと見つめる。
だがその真意は読めず、また深奥の存在も印象と同じようにボンヤリとしたものであり、ジョーカーの興味をあまり注がないものだった。
疑り深いジョーカーですら違和感を覚えない程度に。
[お前がそう言うのであれば仕方あるまい。王都を支配する側として、強制的に術の検体を探すとしよう]
「そうなるでしょうね」
そしてジョーカーが発した予想通りの回答に、ブライアンは儀礼的な笑みを浮かべると困ったように眉根を寄せる。
[どうするブライアン]
「自警団を再結成したのはモート様です」
[あ奴が本来の自分の立場を捻じ曲げてまでお前たちに味方すると?]
「ジョーカー様と仲もよろしいようですしね」
[……]
ブライアンの発言は、聞いたジョーカーにとって否定は論外、かと言ってどんな反論をしようとしても逆効果になるとの判断を下すものだった。
その原因は、ルシフェルが東方から呼び寄せるようになった隊商たちにある。
その隊商たちによってもたらされたのは商品だけではなく、東方の文化――特にその国特有の言葉――もであり、その影響たるやジョーカーも顔色を失わせるほどのものであった。
(おのれ……何がツンデレだ馬鹿馬鹿しい! このジョーカーの意を無視し、勝手に微笑ましい印象に変えおって! 何とおぞましいことか!)
そのうちの一つであるツンデレ、などと言った概念を伝染させた東方の人間たちに、頭の中で呪詛の言葉を投げかける。
そんなジョーカーの心中を知ってか知らずか、ブライアンは裏のない笑みを浮かべると溜息をついた。
「仕方ありません、やはりここは私がその封印術とやらの試験体に……」
何とかジョーカーをやり込めたブライアンが、落としどころとして持ち出した条件を言い終わる直前。
「まあまあ、ジョーカーさんじゃありませんか。お食事時でもないのに訪ねて下さるなんて嬉しいですわ」
リビングから出てきた老婆が、ブライアンの言葉を遮るようにジョーカーへ歓迎の挨拶を述べた。
[今は別件の用があっただけの話だ。またすぐに出る]
「そうなのですか、せっかくいいお茶が手に入るようになったのに残念ですわ」
ジョーカーは目の前の老婆、エリザベートを一歩引いた視線で見つめる。
品のいい、という言葉がこれほど似合う人間も珍しいであろう。
控えめで奥ゆかしく、甲斐甲斐しく、だがその芯は強く、自分の信念を曲げようとしない。
(一言で言えば、早死にするタイプだ)
ジョーカーはそんな感想を抱き、微笑みを浮かべて自分を見つめてくるエリザベートへ、少なからず嫌悪に似た感情を抱きながら見つめ返す。
しかしその時にはすでにエリザベートの視線はジョーカーから離れており、深刻な顔をしたブライアンへと向けられていた。
「まあ、そんな怖い術を?」
「はい、ですが町の人が犠牲になるよりは……」
どうやらジョーカーが物思いにふけっている間に、ブライアンから今日の訪問の目的を聞いたらしい。
[私の許可も得ずに機密事項を話したのか、自警団団長ブライアン]
「ははは、申し訳ありませんジョーカー様。すぐ近くに奥方がいらっしゃったもので、我々の話をすでに聞いたものと思い込んでしまいまして」
ジョーカーの詰問を聞いても、まるで悪気のない笑顔で答えるブライアン。
[……]
誘導している。
ジョーカーはそう判断を下すも、ブライアンの誘いは今日の目的と合致しており、さらには利害関係も損なうことはないものである。
[仕方あるまい、気は進まぬが、今の失態はお前を術の被検体とすることで不問としよう]
「分かりました」
そして二人のやり取りを聞いたエリザベートは、その誘導にまんまと引っ掛かってしまう。
「まあ……そんな怖い術をまだお若いブライアンさんに?」
[仕方あるまい、こやつが望んだことだ]
「ははは、まあ封印術と言うことは、命に別状は無いでしょうからね」
「まあ、そうなんですのね。命に別条が無いのなら、私がブライアンさんの代わりになりますわ」
予想通りのエリザベートの提案。
(やはりこうなるか)
ジョーカーは溜息をつくと、世間体を慮ったいくつかのやりとり、つまりは説得をブライアンと共に行ってエリザベートの意志が固いことを再確認する。
[……礼は言わぬぞ]
「まあまあ、少しは期待していましたけれど、今日も残念な結果になりましたね」
そして魔族にとってはもはや形骸となった謝意を発すると、やや拗ねたような雰囲気を発しながら術の準備に取り掛かった。
[Cfo=tyhau=tkhu]
「まあ」
目の前にいきなり現れたコタツを見たエリザベートは、少女のように目をキラキラさせながら胸の前で手をパチンと合わせる。
「入ってみてもよろしいですの?」
[……うむ]
予想と違うエリザベートの反応に、ジョーカーはやや気圧されながら許可を出してしまう。
「あら、ただの布団と思っていたら随分と暑い……いえ、温かいのですね」
「これでは封印どころの話ではありませんよ、ジョーカー様」
ちゃっかりエリザベートの対面を確保しているブライアンを、ジョーカーは軽蔑を込めた眼差しで見つめると、法術による念話(ダークマターが混在しているため、やや雑音が混ざり気味)で王城にいるヤム=ナハルへ連絡を取る。
するとすぐにヤム=ナハルは到着し、ジョーカーは王城に近い一等地に建っているこの物件の利便性に、先代の自警団団長を思い出して感傷にひたった。
(馬鹿げている。このジョーカーともあろうものが、ただ一人の人間などに……)
そして玄関へと出迎えたジョーカーは、ヤム=ナハルの後ろにいる青い髪の旧神をも視界の中に入れ、軽いめまいを起こしてよろけてしまう。
[なぜ貴様まで来ている、バアル=ゼブル]
[つれねえことを言うなよジョーカー。お前さんは術の効果を確かめるための監視人、ってことはCfo=tyhau=tkhuの定員には二人足りないってことだ。こいつぁ術の効果を無駄にしねえための俺の思いやりってやつだぜ]
[もうよい。二人とも早く中に入れ]
眉間を押さえ、ジョーカーは二人を中に呼び入れた。
[まあまあ、今日はお客様が多くて嬉しいですわ]
「おや、今日はヤム=ナハル様もお越しとは珍しい」
[封印術にはワシの手助けが必要じゃからの]
家主のエリザベートは、唐突に姿を現した旧神の二人を見ても驚くことなく、もてなすための準備をしようとコタツから出ようとする。
しかし家の奥から若い男性の声が響き、それを押しとどめた。
「もてなしなら俺がする。エリザベート様は座っててくれ」
「頼むよエドガー」
我慢強くコタツの中に入ったままのブライアンをエドガーは睨みつけると、キッチンの方へと姿を消した。
[相変わらず不愛想な奴だな]
「事あるごとにバアル=ゼブル様がからかうからですよ」
エドガーをかばうブライアンを見たバアル=ゼブルは、ニヤリと笑みを浮かべてキッチンの方を見る。
[そうやって子供から大人になっていくのさ。他人からの干渉をあしらえるようになってこそ一人前ってやつだ]
「仕方がないお方ですね。それでその籠の中の物は? 随分と爽やかな香りがするようですが」
[おう、こいつぁミカンって果実でな。甘酸っぱくてなかなかに美味い。そんでこっちの白い塊はモチとかいう奴らしくてな。こっちは……まあ食ってみてからのお楽しみって奴だ]
[はあ]
バアル=ゼブルが持っている籠の中を、不審物を見る目で覗くブライアン。
[ま、細工は流々仕上げを御覧じろってな。そんじゃヤム=ナハル爺、頼むぜ]
[おう]
そしてエリザベートの家であり、自警団の本部でもある一軒家は、魔術による寒さに包まれた。
当然何も知らないエドガーは、いきなり襲ってきた超常現象に目を白黒させ、慌ててキッチンから飛び出してくる。
「ちょちょちょっと! いきなり寒くなったんだがどうなってるんだブライアン!」
「ああ、何やら封印術の一環らしい。耐えられなかったら外に出ていていいよ、エドガー」
「せっかくぬるめに入れたお茶が台無しだ……この件は借りだからな」
慌てて外に出ていくエドガーを見送った面々は、心まで温かくするコタツの効果にほっこりした笑顔を浮かべ、コタツに入っていないジョーカーは何やら疎外感を感じつつエリザベートに感想を聞く。
[どうだ、Cfo=tyhau=tkhuの効果は]
「確かに冬にこれがあったら抜け出せなくなりそうですわ」
[ふむ、ブライアンはどう考える]
「エリザベート様と意見を同じくします」
どうやら人間にも効果はありそうである。
だがエリザベートの方は、早くもコタツの外に出て客人である旧神の二人のもてなしをしており、効果には個人差がありそうであった。
[では私はルシフェル様に報告してくるとしよう。お前たちも頃合いを見て戻ってくるがいい]
ジョーカーはそう言い残すと、バアル=ゼブルとヤム=ナハルを置いて王城へと戻っていった。
[固い意志を持つ人間に対してはやや効果が薄い、と言うのが今回の実験の結果になりました]
[なるほど、奥方には効きが薄いか。それでモチの方はどうだった]
[きな粉とか申す調味料が散らばるのを気にしていたようですが、それ以外はおおむね好評のようでございました]
[ふむ……小さく切り分けたのが功を奏したようだな]
[は?]
ルシフェルの返答の後半がよく聞き取れないものだったため、無礼を承知でジョーカーは聞き直すも、ルシフェルは片手を軽く振るのみであった。
[改良の余地ありと言うことだ。下がって良いぞジョーカー]
[ははっ]
ルシフェルの返答に、ジョーカーはあまり納得していない声音で応え、静かに謁見の間を出ていった。
[フ……人間の知り合いがいない故に奥方の所へ向かったか。どうやらヤツの行動は、まだ俺の手の内に収まるようだな]
残ったルシフェルはそう独り言ちると、今度は背面の角度が変更可能な座椅子を作り出す作業に取り掛かったのだった。