第274話 命の尊さ!
剣を持つ黒い肌の腕が、椿の花のようにポトリと地に落ち、辺りを泥のような朱に染める。
一瞬遅れてそれに気づいたオティウスは、目を見開いても見ても受け入れがたい事実を、怒りの声とともに外へ追い出そうとした。
[キ、キサマ、キサマアアアアアアア!]
「何を驚いている。精神体を斬られたことは無いのか?」
当然そんなことが出来る訳もなく、オティウスはクレイの侮蔑によって更なる怒りと屈辱を味わうこととなっていた。
[この物質界に対して別次元にある精神体を斬るだと……そんなことが出来るわけがない]
「お前が出来ないことが俺には出来る。ただそれだけの話だ……と言いたい所だけどな」
クレイは軽く肩をすくめ、マルトゥを見た。
「実際にはマルトゥがつけた傷によって、お前の物質体に精神体が引きずられた所を斬ったまでの話だ」
[なん……だと……]
「侮っていた相手からの傷だとして、深く解析をしなかったのがお前の敗因だ、オティウス」
冷ややかな視線を向けてくるクレイに、オティウスは歯が砕けんばかりに硬く口を食いしばる。
(それだけで俺の精神体を斬ることが出来るものか! ルシフェル様はもちろんのこと、精神体を斬ることが出来るような存在のどれもが旧き存在……人間風情から天使に転生したような、物質界出身の若造に出来ることではない!)
オティウスはそう考え、だがその推測に反する結果、つまりは負傷した自分の右肩を憎々し気に見た後で、暗黒魔術によって治療しようとする。
だが流れ出る血は止まらず、痛みもない。
(なるほどな……つまりは幻術か!)
勘付いたオティウスはそう断じると、幻術を破るべく集中する。
(……何だ?)
だが斬られた腕はそのままであり、更には気が付けば相対するクレイの姿は横倒しになっていた。
――いや――
(体が……動かん……)
地面に倒れこみ、呆然とするオティウスに、冷や水のようなクレイの指摘が浴びせられる。
「お前が斬られた腕に気を取られている隙に、法術によって傷を少し癒させてもらった。法術と暗黒魔術の相克の関係、まさか知らないはずはないだろう」
傷ついた体を癒すために使われる法術と暗黒魔術。
二つの術にはまるで双子のように似た点がいくつも見受けられ、だが絶対に相容れないものである。
その最たるものが、一方の術によって回復した者は、もう一方の術の効果が無くなり、それどころか全身に激痛が走るというものであった。
[ハッタリを抜かしおって……お前が本当に法術を俺にかけることが出来たとしよう。だがそれなら俺が暗黒魔術を使った瞬間に全身に激痛が走るはず]
「知っているか。天使の自己治癒能力は、痛みまで消すことは無い」
[……逆に言えば、痛みを消すことも出来る、か]
「そういうことだ、激痛のあまりお前が話を出来なくなっては面倒だからな。ではさらばだ魔神オティウス、このまま放置されるのはお前にとってもつらいだろう」
剣を振り上げるクレイの姿が視界に入り、オティウスを喪失感が襲う。
力が、血が、それらに伴って気力すら抜けていく。
(フ……だが俺はまだ終わってはおらん……)
オティウスはニヤリと口角を吊り上げると、もう一人の魔神の名を呼んだ。
[ディストレ! 子供と犬を人質にとれ!]
瀕死と思っていたオティウスの口から飛んだ卑怯な指示に、クレイが慌てることは無い。
何故なら近くにはサリムがおり、先ほど迂闊な行動を取ろうとした魔神を、一瞬にして封印したところを見ていたからである。
だが、魔族の中でも魔を凝縮した存在である魔神が、強敵と認識した相手に真正面からぶつかることは無い。
「うわッ⁉」
「しまった!」
[まだまだ魔術には精通していないようだな、稀人よ]
いきなり虚空から姿を現した魔神に、エリラクとシリウスは囚われの身となっていた。
[よくやったディストレ]
[こんなこともあろうかと、先ほどから気配を殺していた甲斐がありました]
[クク、相変わらずの慎重者よの]
安全になったと見たか、オティウスは上半身を起こすとディストレに満足そうに頷き、そして残る左手の剣に魔力を注ぎ込むと右肩の傷を焼く。
[ぬ……ぅ……]
多少の体液は滴るものの、出血を止めることが出来たことを確認したオティウスは立ち上がり、人質を取られて動けないクレイへ余裕の笑みを浮かべた。
[かのメタトロンを宿していると聞き、内心でヒヤヒヤしていたが、どうやら人質は通用したようで安心したぞ天使クレイ]
「俺は油断していたよ、魔神は敵を侮るのが常識だと思っていた」
[ゴーシュを一撃で屠ったのが仇となったな。このままお前をなぶり殺しにしてやりたい所だが……]
オティウスは地面に転がる自分の右腕を見た後、左腕に持っていた剣でバラバラに切り刻み、血走る目でクレイを睨みつけた。
[今日受けたこの恥辱! 全力のお前を叩き潰さねば俺の気が収まらん!]
「再び会えるかどうかも分からないのにか?」
[この場から去るためだけではなく、お前をおびき出すための人質でもある。退くぞディストレ、力は小さいが、ドラゴンを連れた人間がここに近づいてくる]
[はっ]
とりあえずの安全を確保した以上、長居は無用と見たか、
オティウスとディストレは、エリラクとシリウスを人質にとって退こうとする。
[暴れるな小僧。ゴーシュにやられた時のように切られたいか]
だがエリラクは大人しくならなかった。
「ぼくに構わずこいつらを倒してください天使様! 用済みになれば、どうせぼくは殺されてしまう! なら今死んでも問題はありません!」
[ええい! お前もあの人狼も人の話を聞かん奴らだ! お前たちは単なる人質ではなく、きちんと他にも使い道が……]
「嘘だ! お前たちは先ほどマルトゥさんも切り捨てようとした! 妹がいるからと! それならぼくのことも、他のオルドに子がいるからと言って切り捨てるに違いない!」
叫ぶエリラクを見た魔神は、目を二、三度しばたかせた後、舌をベロリと出して牙をむき出しにする。
[バレたかぁ~……だがな小僧よ、それでも今のお前たちが助かる道は、我々に大人しくついてくるのみだ。ここで苦しんで死にたくなければ……動くな]
「ヒッ」
あまりの恐怖にエリラクは表情と体を強張らせ、これから自分の身の上に訪れる運命を見ないように目を閉じる。
[犬も今度ばかりは動けぬようだな。だが念のために縛らせてもらうぞ]
グッタリとしたままのシリウスも魔術の鎖によって縛られ、成すすべなくエリラクたちが連れ去られようとした時。
「オオオオオオオオッ!!」
物陰に伏せ、じっと機会を待っていたマルトゥがディストレへ襲い掛かった。
「さすがですマルトゥ! ドゥ=セレモント!」
サリムが竜語魔術を発動し、魔神ゴーシュのようにディストレを封印する。
「シリウスが……教えてくれたことだ……」
だがすべての力を使い果たしたのか、マルトゥは一言だけ呟くと倒れこみ、気絶してしまっていた。
「マルトゥさん! しっかりして!」
[クッ! ディストレめ肝心な時に油断しおって!]
エリラクとシリウスが解放されたのを見たオティウスは、慌てて逃亡しようとするが、それは叶わなかった。
「最後に言い残すことがあれば聞いておこう、最上位魔神オティウス」
気が付けば周囲は燃え盛る炎の竜巻に囲まれており、そこから無数の枝のような炎が体に伸ばされていたのだ。
[我らは滅びぬ。我らの仲間は無数にいる。最後などと思いあがった口を叩いたことを、その時になって後悔しないようにな]
さすがに観念したか。
オティウスはそう言うと、左手に持っていた剣を地面について杖代わりとし、地面に座り込もうとする。
だが次の瞬間。
[死ねい天使!]
オティウスは地面に突き刺していた剣を勢いよく巻き上げ、クレイへの目潰しとして襲い掛かっていた。
「フラム=ブランシュ」
[ぐぬおおおおおぉぉぉ……オオ……]
それすら及ばず、オティウスは無数の炎の枝に貫かれて身を四散させた。
「目潰しとするのなら同時に魔力を放つべきだが、その力すら残っていなかったか魔神オティウス」
ほぼ何もできずに散っていった魔神に、クレイは憐みの視線を向け、そして終わったとばかりに背を向けた。
「助けに来たわよクレイ……ってあら? 何もいないじゃない」
「遅いぞフィーナ、何してたんだよ」
「ベルフェゴールに怠け者にされちゃってたのよ! コンラーズもドラゴンだから何もしないことを何も不思議に思わなくて、二人して二度寝しちゃったの!」
「ふーん……あ、それじゃマルトゥを治療して遅れた分を取り戻してくれるか?」
そして遅れてきたフィーナを見たクレイは、疲労困憊と言った感じのマルトゥを治療するように頼み、それを聞いたフィーナは急いでマルトゥに近づくと、首筋に手を当てて癒しの泉を湧き出でさせる。
「それ、あそこで倒れている犬にもお願いできるか?」
「……無理よ。貴方にも分かってるんでしょクレイ」
そして苦し気にしていたマルトゥの息が落ち着くと、クレイは先ほどから目を背けていた事実を真っ向から見据えた。
「シリウス……目を開けておくれよシリウス……」
「クレイ様、申し訳ありませんが、手の施しようがありません。一刻も早くガビー侍祭の法術を」
「天使様、ぼくカリストア教に入信します。朝も夜も欠かさず祈りを捧げます。だからシリウスを……助けて……」
それは体中を泥と血にまみれさせ、死の淵にいる老犬シリウスだった。
「すまないエリラク。俺の術でも、フィーナの術でも、そしておそらくガビーの術をもってしても、シリウスはもう助からない」
「そんな!」
「シリウスは元々寿命が近かった。だから無理をして君やマルトゥを助けたんだ。そして法術は……天寿をまっとうして安らかな眠りにつこうとしている者に……効果は無い」
顔を歪め、苦しげな声で答えるクレイを見たエリラクは、目に涙を浮かべ。
「シリウスが……どんどん冷たく……なっ……て……」
そして涙にこもる熱をシリウスに与えんとばかりに、シリウスにしがみついたまま涙を次々とその上にこぼしていった。
「……子供が生まれたら、犬を飼いなさい、か」
「それ、ヘプルクロシアのことわざよね」
「ああ、俺たちが小さい頃にも……孤児院で犬を飼ってたことがあった……」
クレイはフィーナにそう言い残すとエリラクとシリウスの方へ近づき、一向に泣き止もうとしないエリラクの背中をそっと撫でる。
その姿に近づきがたいものを感じたフィーナは、隣にいるサリムの横顔もまた寂し気なものであることに気づき、申し訳なさを感じて距離を取ろうとした。
「私とクレイ様が小さい頃、孤児院で一頭の犬を飼っていました」
「あ……そうね、二人とも……一緒の孤児院だったのよね」
だがサリムが口を開いたため、語りたいことがあるのだと察したフィーナは去ろうとした足を止め、その場に留まった。
「ある時、クレイ様が突然城の外に出るのだと言って孤児院を抜け出したことがありました。それを止めようと犬と共に後を追った我々は、ある最上位魔神に襲われることとなったのです」
「前に聞いたことがあるわ……その件でクレイは恐れられるようになったのよね」
「はい」
サリムは後悔の念を顔に浮かべ、だが口を閉じることはなく昔語りを続けた。
「クレイ様により、最上位魔神は倒されました。ですが力を扱いかねたクレイ様はそのまま暴走し、私たちに襲い掛かろうとしたのです」
「それで、貴方たちもクレイの犠牲になったのね」
「いえ」
話すサリムの頬には、一筋の涙が伝っていた。
「その時、クレイ様の前に立ちはだかったものがいました。先ほど話した、孤児院で飼っていた犬です。クレイ様に何度も吹き飛ばされ、その度に立ち上がり、犬の気迫にとうとう根負けしたクレイ様は、自らを手刀で貫いて力尽きた犬を追うようにその場に倒れました」
「そう……だったの……」
「正気に戻ったクレイ様は嘆き悲しみました。しかし私たち孤児院の者たちは、悔いるクレイ様を見て、そもそも犬を殺したのはクレイ様ではないか。何を悲しむふりをしているのかと。あの時の恐怖も含めてクレイ様につらく当たるように……なったのです」
「……誤解が解けて、良かったわね」
「はい」
サリムはそれ以上何も言わず、昔話を聞いたフィーナもエリラクの背中を撫で続けるクレイを、黙って見続けたのだった。
子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時。
子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼少期の時。
子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時。
子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時。
「シリウス……ねえ、いつもみたいに返事をしてよシリウス……シリウスウウウウウゥゥゥウ!!」
自らの死をもって――子供に命の尊さを教えるでしょう。