第273話 お前のやり方が気に食わない!
「そこで何をしている」
静かな、だが一切の反論を許さぬ詰問に、周囲の森の気配が一斉に遠ざかる。
確かに目の前にある木々や草むらが、姿だけを残して気配のみが遠ざかるという異常事態に、マルトゥは目を見張った。
(な……これはあの天使……クレイ、が発しているのか……?)
あまりの威に、思わず四肢を屈して地面に伏せたマルトゥは、いつの間にか現れた一人の天使――クレイ=トール=フォルセールの到着を待つ。
遠目に見た姿形は、確かに先ほどまで一緒に旅をしてきた天使。
だがその内から噴き出している、燃え上がる竜巻のような圧は、マルトゥが今までに見てきたどの存在よりも近づきがたいものに見えた。
近づき、見つめられ、その圧に耐え切れなくなったマルトゥが目を閉じた時。
「プルミエソワン」
天使が一つの法術を成立させ、マルトゥの体から傷と痛みが消えた。
「あ、ありがとうございますクレイ……様」
知らず知らずのうちに口をついて出たのは、クレイへの敬意。
そしてあまりの予想外の展開に忘れていた一人の子供と、一人の老犬の存在だった。
「そうだエリラク……それにシリウス!」
エリラクとシリウスの名前を思い出し、慌てて周囲を見渡したマルトゥが見たのは、鬼気迫る魔剣を従え、傍に膝をついている従者の姿だった。
「できるだけのことはしました。ですが……」
その従者、サリムは口淀むと、ここでは満足な治療が出来ないとクレイに答える。
「心配いらない、ガビーが戻ったら治療を頼もう」
サリムの答えを聞いたクレイはそう答えると、オティウスとゴーシュ、そしてもう一人の魔神の姿を確認した。
「アスタロトの面目もある。今のうちなら見逃してやるぞ魔神たちよ。王都に帰って、事の顛末をルシフェルに報告するんだな」
[クク、見逃してやろうとは面白いことを言う。人狼が口にしていた名前から察するに、お前が天使クレイだな。そしてあっちで俺を睨んでいるのがサリムか]
「俺だけじゃなくサリムの名前まで知っているとは、なかなかの努力家だな」
[フ、ここに来ている者たちで注意する者の名を口にした、ジョーカーというお節介な堕天使がいただけの話。お前は力を持つ者として、そしてあの小僧は想定外の力を持つ者としてな]
サリムをあごで指し示すオティウスに、クレイはなぜか満足げにうなづき、オティウスはそんなクレイを訝しげに見るも、些事と切り捨て現状を探る。
[しかしお前たちがここに来ているということは、アスタロトは裏切ったと見て間違いなさそうだな]
「そう考えるなら、アスタロト本人に直接聞いてみればどうだい?」
[クク、カマかけには引っ掛からぬか]
腰に手を当てて下を向き、残念がるオティウスにクレイは肩をすくめる。
「そちらもアスタロトに直接確認せずに俺に聞くということは、エルザのことには気づいているみたいだな」
[当たり前だ。アスタロトがそちらと共に行動すると聞いた際に、随員の構成は耳にしている]
「ま、そういうことだ。アスタロトはエルザが抑えてくれている。そちらも滅ぼされたくないのなら王都に退くことだ。そうすれば俺も無駄な戦いをせずに済む」
[良かろう、今の傲岸な態度は、今度会った時に思い知らせてやるとしよう]
話がついたと見たクレイとオティウスは互いに背を向ける。
だがそれを許さないものがいた。
「待てオティウス!」
マルトゥの制止を予想していたのか、オティウスはすぐに立ち去る足を止めて振り返った。
[どうした人狼。まさか助けが来たことで、気が大きくなったのではあるまいな]
「……ッ!」
だがオティウスに痛い所を突かれたマルトゥは黙り込んでしまい、ただならぬ雰囲気を感じ取ったクレイはマルトゥの背中に手を置いた。
「どうしたマルトゥ、あの魔神との戦いが途中なのは分かるが、もしもお前が再戦を望むならまた今度にした方がいい。分かっているだろう、今のお前では奴には勝てないと」
「グ……ゥ……」
明らかになった父の死因、部族が滅んだ原因、力なき者たちをいたぶる醜悪。
オティウスにまつわる様々なものが頭の中でないまぜになり、更には自らの力不足によって仇を討つことも出来ない、とクレイに指摘されたマルトゥは、無念のほぞを噛む。
[クク、そうだ。何も出来ぬ弱者は強者に媚びを売って生きておれば良い]
[オティウス様の言う通り。さらばだ人狼]
[一族の仇を討ちたくば、いつでも王都に乗り込んでくるがいい。いつでも後を追わせてやるぞ]
[クク、無理なことを言うなディストレ。弱者は我らのような強者の視線を恐れ、地に這いつくばって生きるのみよ]
だが先ほどから何も喋っていなかった魔神、ディストレと呼ばれた魔神が余裕たっぷりに言うと、オティウスもまた愉快そうに笑い声を上げた。
[クク……クハハハハハハ! おおそう言えば丁度先ほどから、地虫のように地面に這いつくばったままの人狼がおったな!]
オティウスの嘲笑を聞いたマルトゥの体が小さく震えだす。
その源は先ほど手ひどくやられた恐怖か、それとも。
「一族の仇とはどういうことだマルトゥ」
「貴方……いや、お前には関係の無いことだ」
怒りに震えるマルトゥの口から怨嗟の声が漏れる。
自らの力不足に、そしてこの先いくら鍛え上げようとも、魔神たちの強さには遠く届かぬ人狼の身の上に。
「ではあの魔神に聞くとしよう」
マルトゥの頑なな態度から何かを察したクレイはオティウスを見つめ、オティウスもまたクレイの挑戦的な眼差しを真っ向から受けて立った。
[なに簡単なこと。そ奴に自分の父親が死んだ理由と、部族が滅んだ原因が存在すると教えてやっただけだ]
「何……?」
そしてオティウスの口から過去に関する情報を聞いたクレイは、その真意を問うべく地に伏せたままのマルトゥの背中を見る。
「黙れ魔神! それ以上のことを口にすることは、そちらの不利益にもなろう!」
「そちらの不利益にも……と言うことは、オティウスが話そうとした内容に、お前にも不利益になる情報があるってことだなマルトゥ」
「……」
クレイの指摘にマルトゥは黙り込む。
だからマルトゥと天狼族に関する過去は、別の人物から語られることとなった。
「天使様! その魔神は言ったのです! マルトゥ様の父上と部族を滅ぼしたのは自分だと!」
サリムの治療を受け、見た目上の傷が癒えたエリラクが叫ぶと、クレイは合点がいったというようにオティウスを見た。
「魔族の中でも殊更に魔を凝縮した存在ゆえに、過ぎ去った過去にまでその性を詰問することは止めておこう。だがこのマルトゥには貴様を糾弾する権利がある」
[クク、おかしな奴だ。魔神が生まれ持った気質を悪と断じ、見た途端に襲い掛かってくる天使が殆どだと言うに。さて]
オティウスは半目になると、マルトゥを見下した。
[せっかくの助けが来たことだ。その助力の下に俺に何かを言いたいというのであれば、その恥知らずの口上を聞くだけ聞いてやろうではないか]
「ぐぬ……」
マルトゥは怒りを目に浮かべ、だが自らの矜持によってそれを抑え込む。
自らの力不足を、力持つ他者によって補うことを忌み嫌う。
それは群れによって狩りを行い、得た獲物は皆で分かち合うはずの人狼族にとって、非常に珍しい考えであった。
――いや――
(力を持つ者が助力に来たからといって増長し、自分より強大な他者に挑む……それは相手に対する侮辱ではないのか? そんな卑怯な者が族長として一族を引っ張っていけるのか?)
それは族長という、一握りの選ばれた者に付きまとう憂鬱であった。
一族の中で誰よりも強くあるべきであり、誰よりも優れているべきであり、誰よりも正しくあるべき者、族長。
周囲の期待という幻想、それに応えなければならないと焦りを生じさせ、ついには周囲との隔絶を産み、誰よりも孤独な存在に指導者を押し込める危険な思考。
「俺は……」
自分にオティウスを糾弾する資格はない、そうマルトゥが答えようとした時。
「手助けを得て、争う相手へ物申す。それの何が恥知らずだと言うんだ?」
クレイの重々しい口調がマルトゥの口を閉じさせた。
[クク、自らの力不足、努力不足を棚に上げ、それらを積み重ねてきた代理の者に責任を押し付けようというのだ。これを恥知らずと言わずして何という、天使よ]
「なるほど」
オティウスの説明を聞いたクレイは目を細めると、オティウスへ侮蔑の表情を向ける。
「代理の者を味方につけるための努力は都合よく見逃すとは、さすがに魔神は恥を恥とも思わぬ劣悪な精神をしている」
[む……]
「そもそも力不足だから代理の者を立てるんじゃないか。そんな当たり前のことにも気づかないとは……」
そして目を見開き、オティウスを威圧した。
「どうやら魔神とやらは、魔族の中でも劣等種のようだな」
[何だと?]
さすがに実力の近い者からの侮蔑は無視しがたいのか、オティウスはピクリと右眉を上げ、クレイはさらに舌鋒を突き付けた。
「周囲を味方につけ、戦力を拡大し、相手を圧倒する。これは戦術と戦略において常套手段だ。それを恥知らずとの価値観を押し付けるのは、それを恐れて止めさせようとしているだけだろう」
[ぬッ]
オティウスが言葉に詰まった瞬間、遠巻きに様子を伺っていたゴーシュが一歩を踏み出して大地を揺らす。
[黙れ天使! オティウス様への数々の侮辱、このゴーシュが許さんぞ!]
だがゴーシュがクレイに切りかかろうとした瞬間、その肉体は土くれと変わって宙に四散した。
「クレイ様の邪魔をする不敬、見逃すわけにはいきませんでしたので」
マルトゥの稚拙な竜語魔術とは比較にならない練度。
魔神を一瞬にして封印したサリムをクレイは満足げに見ると、オティウスに最終通告を叩きつける。
「力なき者が力を合わせる。合わせるための努力をする。それを見守ることは我ら天使にとって当然のことだ。それとも力なき者は、力ある者に無条件で従い、永遠に搾取され続ける生き方をしろとでも言うのか?」
[フ、さすがに天使は綺麗ごとと詭弁には長けている]
「では言い直そう。お前のやり方が気に食わない」
[……クク、そう来られては反論のしようがないな]
クレイの率直な言いようにオティウスは負け惜しみを返すと息を吸い、吐き出す。
[所詮我らは水と油。意見の相違を確認せずとも戦う運命よ]
そして剣を一振りすると、肩に軽く担いだ。
[見れば貴様も剣を使うようだな。抜くがいい]
「いいのか? そんな不自由な体勢で」
[クク、多少剣を覚えた程度の天使が俺と戦うのだ。これくらいのハンデはあってしかるべきだろう]
オティウスがそう言うと、クレイは溜息をついて左手を剣の鞘に持っていく。
[どうした? かかってこないのか?]
そして鞘に手を当てたクレイが動かないのを見たオティウスがそう言うと。
「もう斬った」
[何をバカな……⁉]
剣を持ったオティウスの右腕がボトリと地に落ち、漆黒の血しぶきが辺りを染めたのだった。