第255話 あの翅妖精の正体は!
「お久しぶりですわアスタロトお姉さま!」
[やーやー久しぶりだねフィーナ、それにクレイたん。元気してた?]
「うん元気。と言うか俺より他の人に挨拶してアスタロトさん」
そう言うとクレイは抱き着いてきたアスタロトを手で押しのけ、後ろに控えている仲間たちの方を手のひらで指し示した。
ここは領境の森でも王都にほど近い場所。
そこでアスタロトと待ち合わせていたクレイは、再会するなり即座に抱き着いてきたアスタロトを遠ざけつつ、即座に襲い掛かろうとするガビーを必死に押さえつけていた。
「お久しぶりですわねアスタロト」
[……え? キミ……エルザかい……?]
そんな中、クレイの後ろに控えていた一人の少女が一歩を踏み出で、優雅な仕草でドレスの裾をつまんで一礼をする。
「聖テイレシア王国の第二王女、エルザですわ。堕天使の長アスタロトよ、どうぞお見知りおきを」
[……怖いんだけど。何か企んでるの?]
以前に会った時は敵対心を丸出しにしていたエルザが、見た目だけとは言っても礼儀正しく挨拶をしてくるという、まるで正反対の態度にアスタロトは底知れぬ恐怖を覚える。
「嫌ですわ。交渉をする相手に対して最大限の敬意を払い、誠意を見せると言うのは、天使にとって常識でございましょう?」
「その敬意と誠意を拳の暴力で見せつけてきたのが今までのキミだったんだけど……まだガビーの方が分かりやすくていいよ」
先ほどから何かの魔術を発動させようとしては、クレイやエルザに霧散させられているガビーをアスタロトは見る。
あまりの怒りに我を忘れているのか、ガビーの口からはすでに人語は発せられず、まるで獣が威嚇する時の唸り声のような呻きが発せられていた。
[う~ん、この先の旅に支障が出ても困るし、ここでガビーにガス抜きさせちゃってもいいかい?]
「いいのか?」
[結界を張るには贅沢すぎる顔が揃ってるし、大丈夫じゃないかな。それに初対面の子たちもいるし……」
アスタロトはその場にいる全員の顔を見渡す途中、ティナの所でほんの一瞬だけ視線を止めると、すぐに移動させる。
[と言うわけで、ボクを知ってもらうには戦うのが一番手っ取り早いと思うよ]
「分かった。ガビーはどうする……アレ?」
と、クレイは先ほどからガビーが押さえつけていた腕に、抵抗を感じなくなったことに気づく。
「何ビビってんだよお前」
「むむむむむ、無理だってば!」
一瞬にして二メートルほど遠のくと顔を青ざめさせ、全身をガタガタと震わせているガビーにクレイは冷たい視線を向ける。
「無理って何が」
「だってアスタロトって、アタシが十分に力を取り戻してさえ、勝てるかどうか分かんないのよ! 今のアタシじゃ勝てっこないわ!」
「じゃあ最初から大人しくしとけよ」
「アンタやエルザ様の影に隠れてる時にだけ得られるイキり力があるのよ!」
「お前もう死ねよ。はい開始ー」
「いやああああああああああああああああッ!?」
ガビーは散った。
[う~ん……見殺しはさすがのボクも引くんだけど]
「見殺しにすることでしか得られない教訓があるんだよ。さっきのガビーの発言から俺はそう学んだ」
[そ、そうかい?]
アスタロトは黒の泥にまみれて地面に倒れ、白目をむいて口から泡……ではなく、そこからも黒い泥を吐き出しながらピクリとも動かないガビーを見る。
手加減はしたはずなのに、と不思議に思いながら小首を傾げてアスタロトが見ていると、大型の狼の姿になったマルトゥがガビーに近づいて鼻を当て、クンクンと嗅いだ後に近くの地面をおもむろにガシガシと掘り始めていた。
「ダメだぞマルトゥ、ガビーはあたしの親友なんだから保存しても食べさせないからな」
「クーン」
そのマルトゥの意図をすぐに汲み取ったのか、アルテミスがテクテクと歩いてマルトゥに近づき。
「まったくしょうがない奴だなーっと足と手が滑った!」
足がもつれたかと思いきや、次の瞬間には何も握っていなかったはずの両手に弓が現れ、矢がアスタロト目掛けて放たれていた。
[うわ危なっ]
「何やってんだよアルテミス!」
すぐにクレイが怒声と共に二人の間に割って入るも、アルテミスの殺気は溢れんばかりであった。
「クレイは黙っててもらおうか」
「なんだと」
「お姉さまの裸を覗き見たバアル=ゼブルの身内。その全身をムスペルヘイムに沈めて死蝋に変え、お姉さまの墓標の灯とする」
「オイ勝手にエステルさんやエレーヌ姉を殺すな」
「堕天使アスタロト! 辞世の句を読む時間すら与えない!」
[産褥からの救いの矢か。ボクのような神々の母と呼ばれるものにとって、狩猟の女神アルテミスは天敵と言ってもいいね]
アスタロトが妖艶に、そして不敵に微笑んだ直後、アルテミスは飛び掛かるべくやや腰をかがめて膝を沈ませる。
だがその瞬間、背後から噴き出た黒い怒気に包まれ身を凍らせた彼女は、恐る恐る背後のクレイへと振り返った。
「……」
そこにあったのは、まるで秋の空のようにどこまでも突き抜けて見える、クレイの透き通った笑顔だった。
「怒った?」
「ハハハ、怒るかどうかはヘルメースに会ってから決めるよ」
いや、透き通らせるまでも無く、その笑顔の向こうに噴き出ている憤怒の炎にアルテミスはたじろぎ、クレイに伺いを立てる。
「なにゆえのヘルメース?」
「アルテミスを滅ぼすための許可をゼウスに貰うために、使いに出てもらおうと思ってさ。結果次第では滅んだ方がマシだと思う程度にお前を殴るけど」
「スンマセンマジ謝るんで許してくださいクレイさんアスタロトさん」
アルテミスはしこたま殴られた。
[……さすがに身内にここまで仕置きをするのはボクでもドン引きなんだけど]
「俺も未だにこんなことをしでかすような女神がいることにドン引きだよ」
クレイは怒っていた。
騒ぎを起こすなよ、絶対に起こすなよ、と何度も何度も口を酸っぱくして言ったのに、それを前振りにしか受け取っていないかのようなアルテミスの行動に。
とは言え、さすがにやりすぎたかなと思ったクレイは、地面に転がっているアルテミスをチラと見ると、死体と勘違いして噛り付きそうなコンラーズと、それを必死に止めているフィーナに冷や汗を流しながら、こっそり法術で治療を始める。
「まあまあ、アルテミスもそれほど悪気があったわけでもないようですし、許してあげてはいかがですかクレイ」
「……俺はお前も疑ってるんだが」
「あらあら、クレイお兄様ったらひどいですわ。私が何をしたと言うのです?」
治療を始めたクレイに、恐れげもなく近づいてきたのはエルザだった。
「アルテミスが随員に決まったのって急だったんだよな」
「そうなんですか。私宮廷のことにはとんと疎いもので」
「疎くてもお前自身が推薦したのなら話は別だろ?」
「私以外の者にもとんと関心が疎くて」
「関心が薄いの間違いだろ。以前誰かに聞いたけど、お前が昔アルテミスに頼んで……頼んで……?」
怒りを押し殺すかのように眉間にしわを寄せて話していたクレイは、突然目をパチパチとまばたきさせ、動きを止める。
以前彼がアバドンの災厄について話そうとした時のように、またはヘルメースがアルバトールにダークマターを流し込んだ相手について話そうとした時のように、クレイは口をポカンと開けたまま、ほんの数瞬だけ動きを止めてしまっていた。
「どうなされたのですかクレイお兄様」
そんなクレイを見たエルザは声をかけ、その直後に何かに気づいてハッとすると、地面に転がった背後のガビーへと慌てて視線を向ける。
「……つーかお前が他人の騒ぎに首を突っ込むタイプで、騒ぎが無ければ自分で引き起こす面倒な性格をしてる、ってラファエラ侍祭に聞いてるからな」
「あらあら、そうでしたか」
しかし振り返る途中でクレイがそう答えるとエルザは動きを止め。
「ガビーをこのまま放置しておくには忍びないですわね」
そう言ってガビーへと近づき、手のひらを向けて法術の解析を始めた。
[その必要は無いよエルザ]
だがエルザが施術をする前にガビーから黒い泥は一掃され、代わりに体を心地よく冷やす朝もやのような薄い水煙が覆った。
「あらあら、どういう風の吹き回しですの」
[交換条件さ。キミとちょっとした内緒話をしたくなってね]
そしてアスタロトがそう言うと、エルザはうんざりしたような溜息を吐く。
「仕方ありませんわね。クレイお兄様、ちょっとアスタロトと話をしてきてもよろしいですか?」
「ああ。でも長話にはしないでくれよ。女のちょっとはアテにならないからな」
「もちろんですわ、あまり長話をしたい相手でもありませんからご心配なく」
エルザはそう告げると、アスタロトと近くにある茂みへと姿を消した。
先ほどまでクレイには隠していた緊張の顔を、微笑みへと変えた後にクレイに見せ、手を振った後に。
「それで? 話とはなんですのアスタロト」
[分かってるくせに、相変わらずキミは人が悪いね]
「話す相手に合わせているだけですわ」
エルザの言いようにアスタロトは両手を上げて溜息をつくと、周囲に障壁を巡らせる。
[内緒話だって言うのに障壁も張らないなんてね]
「言い出したのは貴女の方でしょうに。それで内容は?」
[あの翅妖精の正体について]
アスタロトの質問を聞いたエルザは、その真意について見通すかのように目を細める。
[どうしたんだいエルザ。まさかとは思うけど、キミほどの天使がおいそれと口に出来ないほどの秘密が、あの翅妖精に隠されてでもいるのかい?]
「相変わらず嫌な詮索をしてきますわね貴女は。昔とちっとも変りませんわ」
[ボクたちのような永劫とも言える時を生きる存在が、過去という過ぎ去ったちっぽけな要素を語るほど愚かしいことは無いと思うけどね。今はそんなに時間がある訳じゃなし、誤魔化さないでさっさと答えた方がいいんじゃないかい?]
アスタロトの挑発にエルザは鋭い眼光をもって答える、と思いきや。
「永劫と言う言葉を発すること自体が、貴女が時に縛られていることを証明しているのですけどね。それで、逆に貴女はどう思ってらっしゃいますの?」
興味津々といった表情で、逆にアスタロトへ質問を投げかけたのだった。