第253話 冥王の来訪!
厩舎ではアルストリア領を治める伯爵ジルベールと、ジルベールを乗せることを承諾したバヤールが何やら話をしていたが、クレイたちが入ってくると二人は同時に入口の方へ視線を向け、軽いあいさつ代わりに手を挙げていた。
「待っていましたよクレイ君。それに司祭様」
「ほほう、聞いてはいたが、本当に小さくなったようだなエルザよ」
「正式に会うのはお久しぶりですわねアルストリア伯、バヤール」
そしてエルザを見たバヤールは、いかめしい顔を即座に和らげてニタァと笑うと、エルザの方へ近づいてやや腰をかがめる。
「ふふふ、しかしなかなか可愛くなったではないかエルザ。どれこのバヤールが頭を撫でてやろう」
「あらあら、なんだか照れますわね」
まるで仲の良い親戚同士が久しぶりに会ったような会話である。
だがその現場を実際に見ると、筋肉ゴリゴリの大男が女装しているように見える――というかそういう風にしか見えないバヤールが、少女であるエルザの頭を撫でている姿はちょっとした犯行現場であった。
そんな光景を見たジルベールは、冷や汗をたらりと流した後に視線を逸らし、同じような仕草をしているクレイに声をかける。
「さて、それでは出発……と言いたい所だが、人数が多くないかいクレイ君?」
「はい」
そしてジルベールにそう問われたクレイは、不安げな目でティナを見た。
「大丈夫なのか? ティナ」
「は、はい。クレイ様」
「あらあら、どうしたのですかティナ。さっきから顔が真っ青ですよ」
「あ、いえ……あの……申し訳ありません」
先ほどエルザを見てより、なぜか不安と恐怖に包まれているように見えるティナに、エルザはやや寂し気に微笑む。
「貴女の働きは耳にさせていただきました。クレイに……クレイお兄様にとても良い影響を与えているようですね。今後ともよろしくお願いしますわ」
エルザはティナにぺこりと頭を下げた後、飛行術を発動させて宙にふわりと浮くが、それを見たクレイはたちまち渋面となった。
「エルザ、今回は調略だから俺たちの行動はなるべく秘密にしたい。今はまだ城内だからいいが、外に出たら飛行術の使用は慎んでくれないか」
「心配ありませんわ。飛行術もそれほど速度を出さなければ周囲に力場は広がりません。それに天使が移動する影響は、聖霊の偏在を修正する方がよほど目立ちますからね」
「そうなのか」
「ええ。それに……今の聖霊は以前とは随分と変質していますから、魔族に見つかる可能性はほぼ無いに等しいでしょう」
顔を歪めたエルザを見たクレイは、何かを言おうとしてすぐに思いとどまる。
「行こう。ムスペルヘイムへ……と言いたいんだが……」
そして厩舎の中に入ろうともせず、ずっと入り口の所に立っていたガビーの顔を見たクレイは、手を挙げて他の者たちをその場に押しとどめると、ガビーの方へと歩いて行った。
「ガビー」
「何よ」
「……今回の調略、と言うかムスペルヘイムとの交渉には、魔族からアスタロトも来ることになってる。お前アスタロトのことを毛嫌いしてたが、大丈夫か」
「だから行くんじゃないの」
ガビーは青ざめた表情で、吐き捨てるように言う。
「お前がそこまで言うなら、俺は止めないけどさ……我慢できなくなったらいつでも言えよ。愚痴を聞くくらいなら俺にも出来るし」
そのただごとではないガビーの表情を見たクレイは、とりあえずというように慰めの言葉をかけ、エルザたちの所へ戻ろうとする。
「……ん?」
しかし服の背中を掴まれ、その場から動けなくなったクレイは後ろを向いた。
「だって! ガビーは好き嫌いが多すぎるから、この際ガマンを覚えなさいってエルザ様が言うんだもの! もうポム・ダムールを詰め込まれるのはいやぁ!」
「なるほど理解したじゃあ出発だ」
「あ、ちょっとクレイ! アンタ本当に愚痴を聞くしかしないってどういうことよ!」
「それが処世術だとメタトロンも言ってる!」
そう言って即座にガビーの手を振り切ったクレイの視線の先で、バヤールが神馬の姿へと戻り、ジルベールやフィーナをその背に乗せる。
その姿を見たクレイは、背後で喚き散らすガビーの顔面に手を押し付けて遠ざけると、先ほどから気になっていた一つの疑問を口にした。
「そう言えばフィーナを乗せるのはいいのバヤールさん」
≪ククク、私を御する者の資格を見ることはしても、その同伴者の資格までは問わぬ≫
神馬の姿に戻ったため、バヤールは法術による念話でそう答えると、機嫌が良さそうにだく足で厩舎の外へ移動し、日の光を浴びて満足そうにいなないた。
≪いつでも良いぞクレイ≫
「それじゃムスペルヘイムに向けて出発!」
クレイもまた飛行術を発動させて宙に浮くと、号令を出して城外へ……
「なんでサリムまで飛行術を使ってんの?」
「ラファエラ司祭……いえ侍祭様から教えていただきました」
「あ、そう」
行こうとした瞬間、あっさりと飛行術を使いこなしているサリムへ恨みがましい目を向けた後、城外へと飛んでいったのであった。
数十分ほど経った後、クレイたちの姿は領境の森の中にある村にあった。
「遅いぞクレイ! マルトゥなんか待ちくたびれてそこら中に穴掘っちゃって、そのせいであたしがすげー怒られたんだからな!」
「いや待ち合わせの時間には間に合っただろ……どう考えてもアルテミスのしつけ不足じゃないか?」
待ち合わせ場所に着くなり、ギャーギャーと噛みついてきたアルテミスに辟易したクレイが、シッシッと右手で追い払う仕草をしながら抗議すると、狩猟の女神はふいっと横を向く。
「あたしはしつけてないから関係ない」
「じゃあなんでマルトゥはお前に従ってるんだ?」
「……ごめん実はあたしが教育係してたギャフン⁉」
「余計な手間をかけさせるんじゃない。それじゃ行こうか……アレ?」
アルテミスの脳天に拳骨を直撃させた後、見送りに来たアポローン、ディオニューソスに手を振ったクレイは、二人の陰に隠れるように一人の旧神が立っていることに気づく。
漆黒のローブを着たその旧神は深めにフードを被っており、衆目からも姿を隠そうとしているようであった。
「ハーデースさんじゃん久しぶり。地上にいるなんて珍しいね」
「うんうん、久しぶり、だねクレイ。ちょ、ちょっとヘルメースにね、用事があったから……それに春だし、ね」
「あー、そういえば春だからペルセポネーさんは地上に来てるんだっけ……」
「うん、そう、そう。だからね、ちょっと心配だから、様子を……ね」
ハーデースの配偶者ペルセポネーは、豊穣神デーメーテールとゼウスの間に生まれた女神である。
しかし婚姻を交わしはしたのだが、それは当人と周囲の同意をまったく得ないままのものだった。
つまりは冥府にペルセポネーを誘拐し、騙す形で婚姻を交わしたため、ひと悶着どころかかなりの揉め事となり、天空の神々どころか地上の人々も含めた大騒動となってしまう。
しかしハーデース自身はゼウスやポセイドーンと違い、純情で心優しい性根をしていると言われ、ペルセポネーの誘拐もアプロディーテーの策略とされている。
「あれ、でもさっきヘルメースにも用事があるって言ったよね」
「うんうん。あのね、彼にね、姿隠しの兜をね、貸しっぱなしにしてたのよね。それでね、それをね、返してもらったのね」
「いつから?」
「う、う~ん……う~ん……うん。地上だとね、今から半年ほど前、ね」
「あー、そういえば丁度その頃からヘルメースが留守がちになってたかも」
つまり盗賊の神であるヘルメースほどの力を持つ旧神でさえ、姿隠しの兜を用いらなければならないほどの相手の所で、隠密行動をする必要があったということである。
姿隠しの兜が使われたのは、オリュンポス十二神の前に覇を唱えた巨神族ティーターン、あのゼウスさえ追い詰めた巨人族ギガース。
その二種族と同等、あるいはそれを上回る実力の持ち主たちと言えば……
(当然ルシフェルやバアル=ゼブルたちが居る王都テイレシアか)
クレイはそう考え、そして即座に修正を加える。
(いや、一つと断定するのは早すぎる。力を持つ者たちが集うという点に関してはテイレシアも同様。それにオリュンポス十二神は、あくまで協力してくれるだけで同盟者じゃない。例え近い将来に同盟してくれたとしても……)
(未来永劫、敵対しないという可能性は無い、かね)
(そういうことだな。味方のフリをしておけば情報収集もしやすいし、警戒もされにくい。ちょうど今攻め込んできているヴェイラーグが、アルストリア領に協力していた時のように)
オリュンポス十二神の前ではさすがに口にしたくないクレイの予想を引き継いだメタトロンに、クレイは同意する。
「な、何か気になる、ことでも、あった?」
「あ、いや何でもないよハーデースさん。ヘルメースともここで落ち合う予定だったけど、どこにいるのかなって」
気が付けば自分をハーデースが心配そうに見ており、クレイは慌てて両手を振ると考えていたこととはまったく違う答えを口にし、それを見たハーデースはホッと安堵の表情を浮かべた。
「さ、さっきね、ムスペルヘイムに、先に向かうって、言ってね、村を出て行っちゃったのね。つい、さっきだから、今から急げば、追いつけるかも、ね」
「分かった。ありがとうハーデースさん」
「う、うん、またね、クレイ。今度はね、冥界に遊びに来ても、いいから、ね」
「そうだね、時間ができるようになったらそうするよ」
先ほど考えていたことへの後ろめたさもあり、クレイは愛想笑いを顔に浮かべると、逃げるように村を出発したのだった。