第250話 ダークマターを流し込んだのは誰だ!
「俺の変化のヒント?」
ヘルメースに会うべくルルドの泉に来たクレイ。
泉の管理者であるガビーと、ガビーと仲の良いアルテミスを引き連れたままそう質問すると、視線の先にいるヘルメースはクレイを見ようともせず答えた。
「そうだ。あのアナトをすら一蹴するほどの得体の知れない力。その力の源は何なのかを探れとな」
「へー……」
どうやら目的の人物は泉による治療を求めてはいないようで、膝をついて周辺の地面に時々手を当てては、その感触に注意を払っている。
しかしクレイから返ってきた生返事に気を害したのか、ヘルメースはやや口を尖らせながら立ち上がり、眉根を寄せた。
「なんだその気のない返事は。君もずっと気にかけていたではないか」
「まあそうなんだけど……ここに俺の力の源のヒントがあるのか?」
「君はあの時、龍脈を引き寄せた。そしてここには大量の龍脈が、かつて聖母と呼ばれた婦人の慈愛に引き寄せられている」
「なるほどね」
エルザが口にしたクレイの正体、隠された第十のセフィラ、知識を司るダアト。
物質界に取り込まれ、思考と行動を束縛されてしまった聖霊が、一瞬とはいえ再び覚醒したことと何か関係があるのだろうか。
クレイはそう考えるも、憶測にしか過ぎないことを加味してヘルメースに伝えることをやめ、厳かな雰囲気に包まれているルルドの泉を見渡した。
「信者の姿が見えないけど、どこにいるんだろ」
「こっちは神域だから人は入れないわ。そっちの壁板の向こうで沐浴をしているはずよ」
ガビーの指さした壁板には簡易的な障壁が張っており、超常的存在であるクレイたちには気づかない程度ではあったが、人間たちにとっては畏怖を感じて通れないようになっていた。
「なるほどね。これならアルバ候もゆっくり療養できたか」
「まあね」
ガビーはそう言っただけで会話を止める。
なんでもかんでも自慢をし、とにかく目の前の相手より上の立場に立とうとするガビーには珍しいことであり、気になったクレイは背をかがめてガビーの目を覗き込んだ。
「珍しく謙虚だな」
「忙しいのよ。それなのにヘルメースが急に押しかけてきて、ここに集う龍脈について調査をしたいだなんて言い出すんだから、もう」
そう答えるガビーの目はあらぬ方向へと泳いでおり、何かを隠していることは明白であった。
「というわけであたしは信者たちの沐浴を手伝ってくるから」
「……まあお前が言いたくないならそれでもいいけど」
壁板の向こうに歩いていくガビーを見送りながらクレイはそう言うと、龍脈を追って少し離れた所へ移動したヘルメースの元へと向かって話を振る。
「アルバ候ってここで何の療養をしてたんだろ」
「ガビーなら知っているだろう」
「ガビーは忙しいって言って話してくれなかった」
ニュアンスは微妙に違うのだが、忙しいと言って相手にしてくれなかったことは事実である。
よってクレイはわざと不満気にそう口にすると、それを聞いたヘルメースはやれやれと言いながら腰を伸ばし、壁板の向こうを恨めし気に見つめた後に口を開く。
「君はなにも聞いていないのか?」
「療養していたってことは……ん? なんで天使になったアルバ候が、病人や怪我人たちが集まるルルドの泉で療養をする必要があったんだ?」
アルバトールは法術にも長けた(昔は苦手だったようだが)最高位の天使、セラフの中でも、さらに特別な存在のはずである。
そのアルバトールすら及ばぬ、身体を害するものと言えば……
「そうか、アルバ候はここにダークマターの治癒に来ていたのか」
「本当に知らなかったのか」
「王都で……堕天する寸前まで行ったことは聞いていたけど、いつどこでダークマターに汚染されたのかまでは聞いてなかったんだ」
頭痛でもするのか、クレイはやや青ざめた表情で頭を押さえる。
「ヘルメースは知ってるのか? アルバ候がダークマターに汚染された理由を」
「あれは……」
ヘルメースは溜息をつき、クレイを見つめる。
だが雄弁の神でもあるヘルメースが、それ以上を語ることが出来なかった。
「いや、僕もよくは知らないのだ」
「へ? お前が?」
「いくら僕でも聞いて良いことと悪いことがあるくらい知っている」
「そうか」
それでも聞きだそうとするのがヘルメースではないのか。
そうクレイは言いそうになったが、ヘルメースが本当に敬意を払っている人物には、礼儀をわきまえていることも知っている。
だが、先ほど聞いた時には、答えようとしていた雰囲気も匂わせていたような。
(つまり俺に教えたくない……いや、あるいは……)
そのことから、クレイは一つの推論を導き出す。
(何者かの妨害が……入っている?)
ヘルメースは嘘をつく天才、というより盗賊の神である彼は、嘘をつくことが仕事と言っていい。
その彼が、一目で見破られるほどの粗雑な嘘をつくものだろうか。
先ほどからメタトロンの返事が無いこともクレイの不安に拍車をかける。
「そんなに聞きたいのなら、アルバトール本人に聞けば良いではないか」
「え、うえぇッ⁉」
考え込み、動かないクレイを見たヘルメースがそう言うと、言われた当人であるクレイは予想外なまでに驚いてしまう。
それはクレイを見ているヘルメースはおろか、壁板の向こうに消えたガビーや、手伝いをしていたと見られるアルテミスまで驚いて飛んできてしまうほどのものだった。
「ちょっと! 今の悲鳴は何よヘルメース!」
「失礼なことを言うなガビー、僕は何もしていないぞ」
「もう気が済むまで調査できたでしょ! 今日は本当に忙しいんだから帰ってちょうだい!」
そしてクレイとヘルメースはガビーに恐ろしい剣幕で追い立てられ、アルテミスを置いたままルルドの泉よりフォルセールへ逃げかえることとなった。
その道中の街道。
「やれやれ、君のせいで僕まで追い出されてしまったではないか」
「ごめんヘルメース」
道端の所々に設置されてあるヘルマの頂点をヘルメースは撫でて回っており、クレイがその動作の気持ち悪さに内心で辟易しながらも謝罪すると、ヘルメースは肩をすくめて口を開く。
「まあ仕方があるまい。今日のガビーは機嫌が悪かったし、追い出されるのも時間の問題だっただろう」
「そうなのか。ところでヘルメース、お前も今回のムスペルヘイムの調略に参加してくれるのか?」
「実は迷っている。アルテミスだけならともかく、君の成人の儀を執り行った直後である今の時期に僕まで着いていくと、オリュンポス十二神の中立性を問われる事態になりかねないからな」
ヘルメースはそう言うと、軽く肩をすくめる。
「ゼウスに伺いを立ててこよう。あの地域は古来から地の利を生かして中立を保つことで、周辺諸国から利益を得ていた。その彼らを口説こうというのだから、僕個人としてもかなり興味があるしな」
そして軽くひざを曲げると跳躍し、すぐにその姿を地平線の彼方へと消した。
「頼んだぞヘルメース……ってうわあ! どうしたんだよアルテミス⁉」
ヘルメースを見送ったクレイが、なんとなくルルドの泉の方向を振り返ると、そこには濡れ鼠となったアルテミスがいた。
「ガビーの手伝いをしてたらさ、なんかどえらい力を持った女がいたから、誰かなーと思って顔を見ようとしたら、ガビーに水を賭けられて追い出されちゃったんだよ。あんなガビー初めて見た」
「誰なのか分からなかったのか?」
「ガビーが結界を張ってちゃ、さすがのあたしもお手上げだよ」
「そっか」
そこまでして正体を隠すこと自体が、その女性の正体を物語っているも同然なのだが、それでも確信を持たれては不味いということなのだろう。
「ま、あまり詮索するのもガビーを信用していないみたいだし、今日はこのくらいにして帰るか」
「へー、その口ぶりだとクレイもガビーのことを信用してたんだな」
「信用はしてないけど、むやみに疑うとあいつ泣き出しちゃうんだよ」
「あまりいじめるなよ。基本的にガビーは強がってるだけで、芯のところは傷つきやすい女の子も同然なんだからな」
「分かった」
なぜかメタトロンが急に意思を発し始め、饒舌になってクレイに文句を言い始めるが、今のクレイはそんなことはどうでもよかった。
(アルバ候は……誰にダークマターを取り込まされてしまったんだろう)
(それに関しては我にも責任の一端はある。ヘプルクロシアで我の分身が転生の儀に臨んだ後、我が休んでいた寝所の後にダークマターを流し込まれたらしいからな)
(そうだったのか)
メタトロンの答えは答えになっていなかった。
クレイが聞きたかったのは誰にという理由であって、どこにという結果では無かったのだから。
誰もが皆、自分を騙そうとしているのではないか。
疑心暗鬼に陥りそうになったクレイは、首を軽く振ってその考えを追い払い、アルテミスの前に立って歩き出した。
「あたしが飛べないからって、別にクレイまで付き合って歩く必要はないんだぞ」
「たまにはゆっくり歩いて、考えをまとめたいときだってあるさ」
クレイはそこで話を打ち切るかのように、アルテミスに向けて下げていた視線を上げ、前方を見つめる。
(……一体誰なんだ、アルバ候にダークマターを流し込んだのは。俺の記憶が正しければ、その当時には既にアルバ候はバアル=ゼブルとも互角と言われるほどに腕を上げていたはず。そのアルバ候が抵抗もできないまま、身体を害されるほどのダークマターを流し込まれるなんて……)
心中にわき出でる暗雲、押しとどめようとしても溢れ出てくる不安。
(もし、今の俺がその敵に会ったら……太刀打ちできるんだろうか)
クレイは腰に下げたミスリル剣を握り締め、確かなその感触を拠り所としてフォルセールへと歩いて行った。