第249話 黒狼の使者!
「あらまあ、大丈夫ですかアルテミス様」
アルテミスの後に続いて入ってきたクレメンスがそう言うと、アルテミスは頭を押さえながら涙目でクレイを見上げる。
「出会い頭に神を殴るとか、お前そういう非常識なところがあるぞクレイ」
「日頃の自分の行いをかえりみてから言えよ神様」
不機嫌な顔でアルテミスの無礼をゴツンと殴り飛ばしたクレイは、シルヴェールを見るとやや不安そうな声で質問をする。
「アルテミスを連れて行くんですか、陛下」
「正確にはアルテミスも、だな。クレイに説明してくれアルテミス」
尋ねられたシルヴェールも、クレイと同じくやはり不安だ、とばかりに苦笑いを浮かべ、アルテミスに話を振る。
「クレイが生意気だから嫌だ!」
しかし先ほどクレイに殴られたことを根に持っているのか、話を振られたアルテミスは即座に断ったのだが。
「クレイに説明してくれアルテミス」
「ハイ」
ほぼ同時にとてもいい笑顔になったシルヴェールの圧に、瞬時に屈して直立不動となったアルテミスは、右手を口に当てて指笛を吹いた。
程なくして城壁の外に猛スピードで走る気配が生まれ、執務室の外に広がる中庭に参じ。
「……」
無言でクレイが窓に近寄り、開け放つと同時に室内に一人のルー・ガルーが転がり込む。
「お呼びでしょうかアルテミス様」
「おう! こいつらがさっきあたしが話したぎゃふん⁉」
そして窓を壊して入り込むこともいとわない、という常識知らずの獣人の紹介をしようとした時、いきなり頭頂部を襲った激痛に耐えられずアルテミスはしゃがみこんだ。
「おいクレイ! お前いきなり神の……」
「なんで殴られたか分かるな?」
「アッハイ」
そして自分を殴りつけたクレイに文句を言おうとするも、その先にいる天使が放つあまりの殺気に委縮したアルテミスは、誤魔化そうとしてそのまま隣で膝をついている一人のルー・ガルーの名前を口にする。
「こいつはマルトゥ」
「知ってる」
「陛下たちは知らないだろ! お前あたしのことが嫌いなのか⁉」
「嫌いじゃない。だが憎悪の対象にはなってる」
「スンマセン。えっとマルトゥなんだけどしばらくオリュンポス山で教育と療養を……」
アルテミスは冷や水をかぶせられたかのように背中を丸めてそう言うと、巨大な黒狼を思わせるマルトゥの紹介をシルヴェールたちに始める。
「なるほどな。それでは女神アルテミスよ、今回の調略にこのマルトゥを着いていかせたい理由を聞かせていただこう」
どうやらマルトゥを随員に着いて行かせる件は、アルテミスの推薦によるものらしい。
得意げに腕を組み、ふんぞり返っているアルテミスをクレイは横目でちらりと見ると、何を考えているか推察する。
だが何も考えないゆえに操りやすい彼女は、何も考えていないゆえにガビーと並んでその行動を読みにくい、要は突発的や衝動的に動く人物の筆頭でもあったため、この時もアルテミスが何を考えているか、クレイには予想がつかなかった。
「陛下、クレイをムスペルヘイムに行かせるんだよな?」
「うむ。ポセイドーンに聞いたのか」
「いや、ヘルメースが最近ムスペルヘイムによく行ってて、今日も旅支度をしてたからそう思った」
「なるほど、狩猟の女神はさすがに観察眼に長けていらっしゃる」
「おいおいなんだよ~誉めてもあたしは何にも出せねーぞ?」
照れるアルテミス。
クレイは一向に話が進まないことで彼女に見切りをつけ、直接マルトゥに話しかけることにした。
「久しぶりだなマルトゥ。お前は催眠術にかけられてたから覚えてないかもしれないけど、イユニさんやイユリは元気か?」
「グルルゥ……」
しかしマルトゥはクレイに敵意を丸出しにして唸り声をあげ、牙をむき出しにして今にも噛みついてきそうな形相である。
「怒ってるのか?」
「ガウッ!」
「そりゃお前が治る頃にはオリュンポス山に行くとは言ったけどさぁ、俺もあの後いろいろとあったんだよ?」
「うるさい! お前はアルテミス様を害した! アルテミス様の敵は俺の敵だ!」
「あーそう言うことか」
マルトゥがクレイを敵視しているのは、どうも先ほどアルテミスをクレイが殴りつけたことに端を発しているらしい。
マルトゥ自身が群れのボスと認めたアルテミスに害をなした、つまりクレイは群れの敵であると認識したのであろう。
「アルテミスからも何とか言ってくれよ。俺とアルテミスは親交が深い仲だって」
「お前……」
先ほどからのアルテミスの扱いは何なのかと、クレイを除いた全員がドン引きの表情でクレイを見つめるが、それでもクレイは平然とした表情のまま首を振る。
「親しき仲にも礼儀あり。さすがに常識を逸脱しすぎた行為には、法を守らせる天使として俺も寛容じゃいられないな」
「お前も目上に対する礼儀を身につけろよ! あたし神様だからな! こう見えてもお前よりすっごい年上なんだからな!」
「ごめんアルテミスは見た目と同じくらい考え方も子供っぽいから忘れがちになるんだ」
「このやろおおおおおお!」
口喧嘩を始めるクレイとアルテミス。
その間にシルヴェールとマルトゥの間で話は済ませられたようで、クレイが気が付いた時には既に命令書が作成され、ムスペルヘイムの族長宛ての親書も蜜蝋で封がなされた後だった。
「さて、マルトゥと私の話は聞いていたなクレイ」
「はい。獣人の国が出来るとなれば、ムスペルヘイムの近くになることは必至。今のうちにマルトゥの面通しと、周辺の地形を覚えてもらうとのことですね」
「……うむ」
アルテミスと口論をしている間、メタトロンに話を聞いてもらおうとして断られたクレイはモリガンに聞いてもらっており、どうせ話を聞いていないだろうと思ってからかおうとしていたシルヴェールは、つぶさに詳細を語るクレイに目を丸くした。
「良かろう。アルテミスはマルトゥの保護者として同行、魔族からも監視役としてアスタロトを派遣してもらう予定だ」
「ヴェイラーグを刺激することになりますが、よろしいのですか?」
「今回の件については天使と魔族の協定、人間の我々には無関係だが何か問題があるのか? もちろんヴェイラーグが魔族と通じているのであれば、話は別だがな」
「承知しました。それでは親書、謹んで受け取らせていただきます」
狼と人間の両方の容貌をそれぞれ併せ持つルー・ガルーは、表面上は魔族に含まれているものの、人とエルフとの間に生まれるハーフエルフのように、人と魔との両方から迫害されてきた。
その由来からして、天使と魔族の代表が保護にあたることは不思議では無かったが、現在の状況がそれを許さないということは十分にあり得た。
(つまり、表向き今回の派遣は陛下たちは無関係ということになるのか。ということは、この親書を奪われたらかなり面倒なことになるな)
そもそも調略なのだから秘密裏に動くことは最初から決まっているのだが、もし今回の行動が明るみに出た場合、魔族とともに動いたことが教会にどう伝わるかも問題であっただろう。
「陛下、教会は今回の件について多少は勘付いていると思われますか」
「魔族との共存を掲げる穏健派に働きかけてはいる。だが同じ穴のムジナ……おっと、同じ教会に属する者同士、どこまで信用していいかは不明だな」
「分かりました。私の方でも教皇領バティストゥーカンで知り合った知人が、何か情報を掴んでいないかそれとなく働きかけてみます」
「うむ、頼んだ。他に何か聞きたいことは?」
クレイはアスタロトと落ちあう場所、時間などこまごましたことを聞き終えると、一礼をしてアルテミスと執務室を退出した。
「それでアルテミス様を部屋へお連れになったと」
「今回は隠密行動なのに、目立つアルテミスを連れていくことになったからな。いつも思うんだけど、なんで獲物に見つからないように行動する狩人が、毎度よけいな騒動を起こすような行動をするんだか」
「いつもの反動と言えるかもしれませんね。お茶をどうぞアルテミス様、クレイ様」
「おう! クレイと違ってサリムはいい子だな!」
香り立つ紅茶の匂いに、不機嫌だったクレイも思わずアルテミスの近くに寄ってカップを手に取る。
「うん美味しい。この紅茶はいつもと違うものみたいだけど?」
「ヴィネットゥーリアのアンドレア様から、クレイ様へのお祝いにいただいたものです。なんでも紅茶の取引で一財産を築いたとか」
「へー……なんだろ、紅茶になにか香りが……ベルガモットかなこれ?」
「説明も無しにお気づきになるとは、さすがクレイ様ですね」
にこやかに言うサリムを見たクレイは、照れ隠しに紅茶を一気に飲み干してカップを置き、アルテミスに話しかける。
「今回はヘルメースも来るんだよな?」
「あー、多分来るんじゃないか? だって旅支度してたし」
「確認とれてないのかよ!」
あっけらかんと言うアルテミスを見たクレイは、ヘルメース本人に話を聞こうと念話で接触を試みるが不通に終わる。
仕方なくほうぼうに念話で連絡を取り、ようやく居場所を突き止めた先は意外なところだった。
「なんでこんなところにいるんだ?」
「意外なところとはなんだ。ヴェラーバでの君の変化のヒントを探せ、以前ゼウスからそう指示があったから来たというのに」
そこはかつてアルバトールが、ダークマターの穢れを落とすべく療養に赴いた場所、ルルドの泉だった。