第239話 魔法の飲み物!
「それでその短剣を受け取ったと」
「それが見れば見るほど不思議な短剣でさ、メタトロンに聞いてもその時が来れば分かる、としか答えてくれないんだよ」
「さようでございますか」
仮宮殿に戻ったクレイは、サリムの手を借りて内々の宴へ出る準備をしていた。
まずは身内だけでささやかな祝いを、その後に対外向けに盛大な宴をするというのが今回の流れである。
要は身内にしか見せられない、外にお見せできない顔を内々の宴でやるというのが目的であり、今日は結界に専念するはずのアルバトールも少しの間だけ顔を出すことになっていた。
「それで、孤児院の皆は元気にしておりましたか」
「サリムに会えないって泣いてたよ」
「それはそれは。昨日孤児院の者たちが作った野菜を受け取りに顔を出したばかりだというのに、気が早いことですね」
意地悪く微笑むサリムに、クレイは舌をペロっと出す。
「泣いてたのは冗談だけど、サリムになかなか会えなくなって寂しいとは言ってた」
「私に会いたいなら早く領主様の館で働けるように、学問と礼儀作法を修めるように叱りつけないといけませんね」
「こりゃ後で孤児院の皆に怒られちゃうかな……あ、今日は帯剣を避けるように言われてるから腰ひもはいいや」
「承知いたしました。それでは内々の祝いを、ごゆるりとお過ごしください」
腰ひもを捧げ持ったサリムがそう言うと、クレイは執務室へと向かった。
「誕生日、おめでとうクレイ!」
派手に塗られた板や紐など、さまざまな飾りつけで様変わりした執務室にクレイが入った途端、中で待ち受けていた人々が、異口同音にクレイへ祝いの言葉を述べる。
だがただ一人、その中で顔に何の感情も浮かべていない者が居た。
(アルバ候……)
クレイの義父であり、フォルセールを治める領主であるアルバトールは、以前の天魔大戦によって感情を表に出せなくなってしまっていた。
もちろん感情自体が無くなってしまったわけではないが、少しの揺るぎによって彼を現世に繋ぎとめている絆が切れてしまえば堕天に至る。
それを防ぐためにも彼は自らの感情を縛り、喜怒哀楽などをほぼ出さずにこの十年程を生きていた。
だが。
「申し訳ありません、所用で少し遅れてしまいましたわお父様」
「構わぬ、こちらも今始まったところだ」
一人の少女が執務室に姿を現した途端、アルバトールに一つの感情が現れていた。
「エルザ司祭……」
それは動揺、あるいは恐れ。
十年と少し前、エルザが転生の儀に臨む原因となった彼は、少女の姿になってしまったエルザが目の前に姿を現したことにより、激しく動揺を――
「あらあら、あれほど楽しむようにと言い含めておいたのに、まだそんなシケたツラをしていらっしゃいますのね」
「なッ……」
――動揺をした。
「アルバトール叔父様に対し、行儀が悪いですよエルザ。そもそも淑女たるもの、シケたツラなどという汚い言葉遣いをしてはいけません」
「申し訳ありませんジョゼ姉様。しかしお祝いの席にこのような顔をしていては、せっかくのクレイ兄様の晴れの舞台が台無しになってしまいますわ」
見かねたジョゼが注意をするも、当のエルザはどこ吹く風と言わんばかりの返事を返し、祝いの列の端にいるアルバトールへツカツカと近づく。
「私の言うことが信じられませんかアルバトール」
「しかし……」
「このままでは、私がジュリエンヌ様に合わせる顔がありません。よろしいですね」
「……失礼しました」
アルバトールは自分より頭数個分ほど背が小さい少女に向けて頭を下げ、そしてクレイの方を向く。
「クレイ、誕生日おめでとう」
そして必死に顔を歪め、クレイへ祝福の言葉を贈った。
「……ありがとうございます、アルバ候」
クレイもアルバトールへ頭を下げ、祝いの言葉を受け取り、それを見たアリアは眼鏡をそっと取り外して涙をぬぐった。
「やれやれ、まったく不器用な親子ですわね。それでは陛下、宴の前の祈りから始めることに致しましょう」
「そうだな、始めてくれ」
エルザは全員の着座を確認すると、すぐに主への感謝の言葉を口ずさむ。
そして新しく成人を迎えたクレイと周囲の人々への祝福の言葉が述べられ、内々の宴は表向きは厳粛な雰囲気の中で進められていった。
しかしその頃、城内の大広場では。
「なんや食事が足らへんで! どないなっとんねんイリアス! ベルトラム!」
「ガッハハハ! 食事もいいが酒もいい酒も!」
「皆うるさいなの! イリアスもベルトラムも頑張ってるの大人しく待ってるなの!」
「まあまあ、そういきり立つと美しい顔が台無しじゃきに、おまんも飲んで楽しくなろうぜよヘスティアー」
「給仕を酔いつぶしてどうするつもりなのポセイドーン!」
修羅場であった。
神や天使、それに人間たちを交えた数十人の調理師たちが、汗に気を付けながら次々と料理を作り出しても、あっという間に賓客の胃袋の中に消えていく。
「ヘーラー! どこにいるの! ちょっと手伝ってほしいなの!」
「ああ、ヘーラーはダメなようだヘスティアー。どうやら節度の無い飲み方をしたようで、あちこちの神に絡んでは愚痴をこぼしている」
「アポローンちょうど良かったなの、アルテミスに頼んだ獲物がまだ届いていないの、ちょっと見てきて欲しいなの」
「分かった。それじゃ君たち、残念だけど僕は領境の森へ旅立たなければならないようだ。どうか節度をもって見送ってほしい」
「給仕の女の人たちの姿が見えないと思ったら、なんで貴方のところにいるの!」
評する言葉にのんびりがつくヘスティアーも、今日ばかりは別とばかりにあちこちへと飛んで行っては注文を聞き、あるいは仲裁をし、あるいは忠告をしていた。
「ゼウス、今から飲み食いしすぎると、肝心の主役が来る前に祝宴の食材が無くなってしまうの。捧げる祝杯も無くなってしまうの。だから我慢するなの」
「そうなったらオリュンポス山から持ってくればええがな」
「来客の手土産が延々と続いたらフォルセールの人たちのメンツが立たないの! いい加減にするなの!」
腰に手を当て、プンプンと怒ってもどこか可愛らしさを残すヘスティアー。
そんな彼女の言うことなど当然聞かれるはずもなく、ゼウスやポセイドーンは派手に飲み食いをしては周囲の女性たちに声をかけまくる。
「もう! アテーナーはまだ来ないのなの⁉」
「せやせや、大好きなお父ちゃんに会えるせっかくの機会っちゅうに、何をしとるんやあの可愛い娘は」
ヘスティアーが悲鳴を上げ、なぜかゼウスがそれに同意すると、料理を乗せた大皿をいくつか宙に浮かせながら近づいてきたベルトラムが答える。
「エステル様は自警団を連れて町の警備、エレーヌ様は所用を済ませてから来られるそうです」
「こうなることは分かってたから、早めに来るように頼んでおいたのになの……」
ヘスティアーは落ち込み、恨めし気に狂乱の宴を見ると、少し離れたところで優雅に杯を傾けるルーやアガートラーム、ヴァハたちを見つめる。
「……何か?」
「ちょっとそこの無頼漢たちを大人しくさせてほしいとか思ってしまったなの」
「必要とあらばディアン=ケヒトに診察させるが」
横を向いたルーの視線をヘスティアーが追うと、そこには更に離れた場所に医神ディアン=ケヒトが一人隔離されていた。
「患者……患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者患者……カカ……カカカカカ……ガガガガガガ……」
何かの禁断症状に耐える患者のように、口の中に放り込んだ右手をガチガチと噛んでいるディアン=ケヒトを見たヘスティアーは、青ざめてルーを見る。
「さすがに祝宴の場に剣は必要ないであろうと取り上げたら、先ほどからずっとあの調子でな。見苦しい様を見せて申し訳ない」
「い、いえいえなの……」
泣きたい。
それでもイリアスが世話になっているフォルセールのため、何とか宴を取り仕切らなければ。
悲壮な覚悟を決め、歩き出した彼女の背後に怪しい影が忍び寄る。
「めでたい席で何を時化た顔をしとるんじゃ、一杯飲んで陽気になるがよ」
グビ
「……ひっく?」
「陽気になって、尚且つほんのり頬も赤くなり色気も出てくる、げにまっこと不思議な飲み物ぜよ」
その怪しい影、ポセイドーンはそう言うと、高らかに天へ向けて笑い声を上げたのだが。
「……ポセイドーン」
「む?」
「ちょっとそこ座りぃ」
「なんぞあったんかいの、ちょっと顔が怖いんじゃが」
「えーから座りぃ」
「はい」
地面を指さすヘスティアーの前でポセイドーンは正座した。
「ゼウスー、あんたらもちょっとここ来て座りぃ」
「ワシ今忙しいんやー、後にしてんかー」
「あんたァ姉ちゃんの言うこと聞けんゆーんか? えーからこっち来て座りぃ」
「なんやねんなもう……よっこらセッ」
ズブリ
「ぎえあうえおぉお⁉」
胡坐をかき、更には余計な一言まで口にした直後にゼウスは目潰しされた。
「姉ちゃんが座れぇゆーたら正座に決まっとるじゃろ……ひっく」
地面をのたうち回るゼウスと、頬を赤く染めたヘスティアーを見た他の十二神たちは、たちまち血相を変える。
「何かあったのかヘスティアー、イリアスに食材を届ける途中で女性を相手に油を売っていたのがバレたのか」
と、そこに緑の旧神が一人現れ、しなくてもいい言い訳を始めるとヘスティアーの形相は鬼と化す。
「あー……ウチの言いつけも聞かんで、そういうことしとったんじゃねヘルメース。イリアスの店を手伝いもせんと、いつもフラフラフラフラと……」
「イリアスに次の受注を聞いてくる途中だったそれでは」
ヘルメースは逃げた。
「あの子はいつもいつも……今度会った時はお尻ぺんぺんだけじゃすまさんからね……さて」
ゼウスたちにゆらりと近づいていくヘスティアー。
しかしその歩みはすぐに止まる。
「それでは少々早いが、クレイの誕生日を祝う宴の開会をここに宣言する!」
第一城壁の上にシルヴェールが姿を現してそう宣言すると同時に、フォルセールを結界が包んで中にいる超常的存在の力を押さえつけたのだ。
「もう……なんなの、なんでいきなり頭痛がしてるなの……」
ヘスティアーも正気に戻り、それを見て安心したポセイドーンがホッと胸をなでおろす。
「ふぅ、命拾いしたのうゼウス。まさかヘスティアーがあれほどの酒乱だとは知らんかったきに、こんなことになろうとは思ってなかったぜよ」
「何やっとんじゃポセイドーン! いくら酒の席ちゅうてもやっていいことと悪いことがあるで!」
「まあまあ、大海のような広い心で許してほしいぜよ」
「ホンマしょうがないやっちゃ。まあ今日はめでたい日やし、クレイに免じて許してやるかいな」
十二神たちはそれぞれに安堵の表情となると、クレイが成人を迎えたことについて話しているシルヴェールとクレイ自身の挨拶を聞く。
「そういや一人足りんな」
「足りん? 誰がじゃ……っておおッ⁉」
そして挨拶の途中でゼウスがふと気づいたといった風情でそう言うと、ようやく呼ばれたとばかりに手のひらほどの虹色の泡が四方八方に無数に現れ、ゼウスの前にそのすべてが集まって巨大な一つの泡となった直後、弾けて中から一人の女性が現れる。
「遅刻かいなアプロディーテー」
「易々と衆目の前に姿を現すほど、はしたない女ではありませんもの」
一言で表せば絶世の美女。
まとっている薄黄色の衣が黄金かと勘違いさせるほどに輝く美しさを持つ女神、アプロディーテーは鈴を転がすような声でそう言ったのだった。