第232話 セフィロトの樹とは!
「誰とはご挨拶ですわね。私の名はエルザ、このフォルセール教会の司祭を……司祭に復権させられてしまったものですわ」
「いやまあそれは分かるんだけど、もっと他に言うことがあるだろ」
椅子に座ったエルザがガックリと肩を落とす姿を見たクレイは溜息をつき、視線を下に落とす。
「あれ? ヘルメース?」
「ク、クレイか……」
なんと床には机の影に隠れるようにしてヘルメースが倒れており、その様は息も絶え絶えといった状態であった。
あの百人から殴られても大丈夫と言われたヘルメースが。
「どうした! 誰にやられた!」
クレイはすぐにヘルメースを法術で解析し、彼の体がひどく衰弱していることを確認すると、頭を持って弱々しい声を聞き取ろうとする。
「エルザに……」
「何だと!」
まさかとは思っていたが。
クレイは慌ててフィーナとサリムの前に立つと(当然その際にヘルメースの頭は床に直撃している)エルザから守るように両手を広げた。
「ヘルメースが何をしたんだ」
「ヘルメースに、ではないのですわね」
「日頃からロクなことをしないから信用ゼロなんだよコイツ」
「あらあら」
エルザは優雅に口に手の甲を当ててコロコロと笑うと、床でピクピクとうごめいているヘルメースをゴミを見る目で見下し、困った表情で頬に手を当てた。
「実は今朝、ラファエラが赤ん坊の状態の私に執務を押し付けてきまして」
「初っ端から幼児どころか乳児虐待のすごいワード飛び出したんだけど」
クレイは冷や汗を一つ流すと、続けてエルザの説明に聞き入る。
「そこに執務で苦しんでいる私の姿を見物しようとヘルメースが来まして」
「まあその気持ちは分からないこともないかな。苦しんでいる状態の人を高みの見物で見守ることは、至高の快楽の一つだし」
「でもそれが自分の身に降りかかることとは別問題でしょう?」
「だよな」
クレイは力強く肯定し、エルザが事の顛末を口にするのを待つ。
「なので色々な問題を解決するべくヘルメースの力を吸い取ったのですわ……」
「なるほど……さすが天軍の長。さて、それでは今日ここに来た用件は他でもない、貴女と話をしろと陛下に言われてきたんだけど」
黒い笑みを浮かべたエルザの説明にクレイは納得すると、床でうごめいているヘルメースにゴミを見る視線を投げつけ、シルヴェールより言いつけられた命令、エルザと会話をすることにする。
「でも話をしろと言われても、何を話せばいいのか……ん?」
エルザと話をしようとしたクレイは、床からムクムクと盛り上がったぼろ雑巾のような物体、つまりはヘルメースのあまりに早い復活に少し驚いて身を引く。
「しかし不覚だった。赤ん坊の姿に見事に騙されてしまったな」
「もう復活したのか、さすがに早いな」
「ここ十年少々の間に何度か吸われているからな、慣れたものだ」
「熟練者かよ。さすがに途中で懲りて止めるだろフツー」
「男には負けられない戦いがある」
「負けることを前提にした戦いに何度も挑むのは学習能力ゼロの証だぞ……」
クレイが呆れた表情で天を仰ぐと、まるで生産性のない二人の会話を横で見ていたエルザが両手をパンパンと叩いて話題を打ち切った。
「ハイハイそのような無駄な口論は私のいない所でやってください。それでクレイ、貴方の話とは何なのですか」
「そうだな、とりあえずラファエラ司祭に押し付けられたという執務が、もう大丈夫なのか聞いておこうか」
「何とかなりますわ」
「と言うことは今は何ともなっていないと」
「何とかなりますわ」
「なるほど大体わかった。ラファエラ司祭に連絡を取ることにする」
「そんなことはさせませんわ」
クレイが念話を使おうとした瞬間、エルザの全身から凄まじい重圧が発せられて部屋全体を覆い、聖霊に接続しようとしたクレイの思念はあっという間にかき乱され、霧散してしまう。
「バカな! 念話が発動できない⁉」
「あらあら、どうやら術に関しては素人に毛が生えた程度でしかないようですわね。観念なさいクレイ、貴方はここで私の暇つぶしの道具となるのです」
狼狽えるクレイを楽し気な表情で見た後、悪役の下っ端が言いそうな安い台詞を口にするエルザ。
「いい加減にしたまえ」
自他ともに厳格であるべき司祭が発する言葉とは到底思えない発言をエルザがした途端、クレイの目と髪が真紅になると同時に威厳ある言葉、メタトロンの意がその口から発せられた。
「あらあら、お久しぶりですわね本体の貴方と会うのは」
「汝と同じように我とて暇ではない。クレイ、王都でルシフェルから聞いた言葉をそのままエルザに伝えたまえ」
クレイと入れ替わったメタトロンは、そう言うと同時に気配を消す。
「そういやそうだった。えーと……どうしようかな」
クレイはフィーナとヘルメースを見るとしばし考え込む。
「エルザ、俺はアンタ自身のことと、セフィロトの樹について聞きたい。そこで最初に聞いておきたいんだが、この二人は席を外してもらった方がいいのか?」
「いてもらって構いませんわ。私の正体はいずれ判明する運命にありますから」
「ふむ」
エルザの答えに生返事を返したクレイは、内からメタトロンの意思を感じ取る。
(フィーナの両親はすでにエルザがミカエルだと知っているし、ゼウスも口にしないだけで知っているだろうからな)
(そうか)
そしてメタトロンの補足を受け取ったクレイは、エルザに色々な疑問をぶつけていったのだった。
しばらく後。
「……アンタ本当にロクでもない性格なんだな。アルバ候は仕方がないとしても聞く人聞く人が話したがらない訳だよ」
エルザについて大体の質問を終えたクレイは、本人の前でそんな失礼な感想を述べ、それを聞いたエルザはニッコリと笑みを浮かべた。
「あらあら、この聖女と呼ばれる私を、そのように悪しざまに言う方がいらっしゃるだなんて心外ですわ。一体どちら様なのでしょう」
「ラファエラ司祭だから今すぐ呼ぶよ」
「今はそのような時ではありませんわすぐにでもセフィロトの話をしましょう」
「うい」
どうやらエルザとは気が合いそうだ、そんな印象をクレイは感じ取る。
何となくではあるが、緩い雰囲気を好んで厳格な雰囲気が苦手とし、尚且つ自分が動くより他人をうまく動かそうとするその性格が似ているからだろうか。
(困ったものだ)
(今度ダリエル司祭とゆっくりお茶でも飲むかいメタトロン)
(……我は休息する。何かあったら起こしてくれ)
はからずもメタトロンを追い払うような真似をしてしまったクレイは、早まってしまったかと自問自答をする。
(まあいいさ、少々厄介そうだがエルザは敵じゃないし、情報を吟味してくれるヘルメースもいる。そうそう妙なことにはならないだろう)
クレイはそう考え、エルザに話の先を促す。
「さて、セフィロトの樹についてですが」
そうしてセフィロトの樹の説明は始まった。
「まあぶっちゃけると、セフィロトの樹と言う割には樹ではないのですわ」
「樹じゃないなら何なのさ」
「その形状を分かりやすくまとめた図が縦長になっていて、その形状が樹と似ていたから樹と呼んでいるだけ。もしも横長にまとめていたら、セフィロトの畑とでも呼んでいたかもしれませんわね」
エルザの辛辣な評価にクレイは苦笑し、それとなくフォローを入れる。
「まあ穀物が生える畑より、果樹がたわわにしなる樹の方が何となく神秘的だしね」
「まったく古来より宗教などというものに興味を持つ者に、どういう性格が多いのかを如実に表していますわね」
「自分たちの存在を全否定しちゃったよこの司祭」
だが更なるエルザの毒舌を聞いたクレイは呆れ、腰に手を当てて大仰に溜息をついた。
「それで、その図が表してるモノって何なんだ? セフィロトの樹になっている果実は結実、凝縮した因果、つまりは世界の一部ってことでいいのか?」
「それでもいいのですが、実際には少し違いますわ」
エルザはクレイの推測を褒めたたえるが如く優しく微笑み、クレイの目を奥底まで見透かすようにじっと見つめた。
「じゃあ実際には何なのさ」
「三位一体を成す根幹、主と聖霊を繋ぐ命綱ですわ。表裏一体を繋ぐ命綱にして、精神界におわす主の恩恵を、物質界にいる子にもたらすもの。物質界と一体化している聖霊を通ることで、安定して人の子らに主の恵みは行き届くのです」
「ふーん……よく分かんない」
「分からなくても構いませんわ。それより分からないのは貴方の方ですクレイ」
「俺が分からないって……何が分からないんだ?」
「人類の原罪にして原動力、忌まわしき罪であると同時に祝福すべき生命の原核。その秘められた強大な力ゆえにかつてはメタトロンが管理し、遂にはセフィロトの樹より隠されてしまった唯一のセフィラ、ダァトよ。なぜ貴方が現世に人として在るのですか」
「いや、なぜ在るのですかって、アンタも知らないんかーい!」
あまりと言えばあまりな結末に、クレイは頭を抱える。
「ルシフェルが俺の素性はアンタに聞けば分かるって言ったから聞いたのに、まったく知らないんじゃんか」
そう言って溜息をつくクレイに、エルザは呆れた声で答える。
「素性は分かったでしょう。貴方は知識のセフィラ、ダァトです。おそらくはその一片でしょうが」
「聞いてもまるで実感が無いんだけど」
「セフィラが人として在ったことがありませんからね。いくつか予想は出来ますが、その中の一つはセフィラが人として在ることを遥かに超えた結果を含んだものになってしまいます」
エルザが真面目な顔となっていることに気づいたクレイは、触れてはならない禁忌に踏み入る誘惑と、深淵に引きずり込まれる恐怖を共に感じながら先を促す。
「例えば?」
「人の子を模したセフィラへの聖霊の降臨、つまりは三位一体の再施行ですわ」
「はい?」
エルザの説明を理解できなかったクレイは間の抜けた返答をし、そしてそのまましばらく思考を止めた後に大きな声で驚愕の叫びをあげたのだった。