第222話 最も求めていたもの!
戦いの重低音が鳴りやんだ後に、乾いた軽い音が鳴り響く。
それがエリザベートがクレイの頬を叩いた音だと分かった後でも、いや分かった後だからこそ、その場にいた全員が狐につままれたような顔となっていた。
如何なることが起きても暴力に訴えることは無かったエリザベート。
そんな彼女がクレイの頬を平手打ちしたことにより場はシンと静まり返り、そんな変化を感じ取った一人の大男が不思議そうに声を上げた。
[むむ? なんぞあったんかいのう?]
[どうやら自警団の老婆があの天使どのの横っ面をはたいたようでござるが……ベリアルを一蹴するほどの強さを持つ男の頬を叩くとは、なんと天晴な]
思わぬ成り行きに、クレイとモートの決着がついた後でさえ凄惨な殴り合いをやめようとはしなかった二人、バロールとアバドンすら動きを止めてしまっていた。
[おいおいバーさん、いきなり殴りつけるたあ穏やかじゃねえな。一体何が気に入らなかったんだ?]
そんな中で真っ先に動いたのは、叩かれて呆然としているクレイではなくやはりこの男、バアル=ゼブルである。
しかしいつものような軽口でエリザベートに話しかけた彼は、その直後に後悔することとなっていた。
「まあバアル=ゼブルさん、なんでもありませんのよ?」
[お、おう……そうか]
「ええ、ですから下がっていていただけます?」
[オウヨ]
エリザベートの涼やかな笑顔の中に静かな怒りを感じたバアル=ゼブルは、面倒なことになる前に素早く退散を決め込んでいた。
(襲い掛かってくる怒りだけなら何とか出来るが、バーさんは面倒なほうまで抱え込んじまってるからな……まとわりつく悲しみの方は、俺じゃ何とも出来ねえ)
バアル=ゼブルは軽く肩をすくめると、呆然とするクレイから目を逸らしてササっと早足で遠ざかっていく。
それを見届けたエリザベートは、クレイの目をジッと見つめながら口を開いた。
「なぜ叩かれたかお分かりになりますか、クレイさん」
話している間も少しも目を逸らそうとしないエリザベート。
その視線から逃げてはいけないと分かっていたクレイは、せめてもの逃げ先として心を逸らし、エリザベートに答えた。
「……いえ、分かりません」
心を逸らす、つまり嘘をつく。
実はエリザベートに叩かれた瞬間、いつも温和だった彼女の目が悲しみをたたえていたことに気づいたその時、クレイの頭の中には一つの答えが浮かんでいた。
(だけど……)
だが、その答えはクレイのような子供が口にしてはならないものであった。
それは長きにわたって人生を、紆余曲折を積み重ねてきた、先人のみが口にすることを許されるもの。
良き妻であろうとし。
良き母であろうとし。
良き留守居役であろうとして全ての感情を押し殺してきた、目の前の夫人のような者だけが口にできる部類の答えだったのだ。
「……本当にお分かりにならないのですか?」
「はい」
エリザベートは軽く首を振ると、クレイの目の奥にたゆたう一つの考えに思いを浸し、深いため息をついた。
「貴方は聡明な御子と聞きました。故にこれ以上の追及は時間の無駄でしょう」
そして疲れた声でそう言うと、クレイを叩いた右手を左手で押さえつけるように体の前で両腕を組んだ。
「貴方は命を粗末にしすぎます」
「はい」
「今回は大丈夫でしたが、一つ間違えばあなたは最大の親不孝を犯してしまう所だったのですよ」
「……はい」
クレイを詰問するエリザベートの顔は、まるで死人のように青ざめたものだった。
その昔に他国との戦いで息子二人を失い、また王都争奪戦によって夫も失った。
まだ成人していないクレイが命を懸けて戦う姿は、エリザベートにとって家族全員を失なったという現実を浮き彫りにする光景であり、更に瀕死になっても諦めない姿は彼女の家族の死にざまを連想させ、再び擦り込ませるような愚行であった。
今の夫人の心中は、察するに余りあるものがあっただろう。
「貴方が今ここでお亡くなりになれば、アルバトール候やそのご夫人、そして陛下がどれほどお悲しみになられることか。どうかご自愛なさいませ」
しかしそんな心中を押し隠すように、あくまでエリザベートは自分の悲しみよりも目の前の少年の身近な人々への思いやりを口にする。
「……申し訳ありませんが、それは出来ません」
だがエリザベートのその忠告に対し、クレイは首を縦に振らなかった。
「なぜです?」
「俺の目の前でエリザベートさんが悲しんでいる。ずっと昔から、おそらく俺が……この世に現れる前から。それに加えて長く続く戦いによって守るべき家族、守ってくれる家族を失った人たちも。それではいけませんか」
そして静かにクレイが告げた内容に、予想していた答えと違った答えがクレイから返ってきたことにより、エリザベートは答えることが出来ず口を閉じてしまう。
戦いによって肉親を失った自分たちについて、クレイが口にすることは予想していた。
だがこの世に生を受けるではなく、現れるという人の生誕におよそ似つかわしくない言葉。
人より生まれたのではなく、魔物より現れたという複雑な出自を持つクレイが人々のために命を懸けて戦うというその言葉に、今度はエリザベートが言葉を詰まらされる側となっていた。
「俺はもとより、アルバ候や陛下も同じ気持ちです。エリザベートさんのような悲しみを持つ人たちが増えないように、今回の事件で犠牲になった孤児のような人たちが、これ以上増えないように命をかける」
「ですがそれは……」
「それが俺たち王侯貴族の役目であり、天使である俺が誓約した生き方です」
間髪入れず、いやほんの少しの間。
エリザベートが感情を整理する僅かな時間を縫うように発せられた、クレイの決意を聞いたエリザベートが、下を向いてしまうかと思われた時。
[一人残された奥方の気持ちを汲むことも出来ぬかクレイ。お前はまずアルバトールやシルヴェールの妻の立場から意見を述べ、奥方の忠告に同意してから本音を言うべきだったな]
「まだ結婚できない子供の考えることだし、大目に見てくれないかな」
空を切り裂く稲妻のように魔王ルシフェルが口を挟み、クレイが苦笑してその忠告に同意すると、手早くルシフェルは事態の収拾を始めた。
[来い、アスタロト]
[えー、何なのもう]
[セイと言ったか、そこのセイレーンも来い]
[う? うー……]
[別に取って食うわけではない。今日の余興はお前の歌で締めることにした]
[う……分かった]
[アスタロトは奥方の話し相手になれ。かつて母神と呼ばれながら伊達に年を重ねてきたわけではあるまい]
[キミに対する殺意もどんどん積み重なっていってるからね? まあいいや、エリザベート、お茶を入れてくるから椅子に座って待ってて]
セイが歌いだし、アスタロトが淹れるかぐわしいお茶の香りが家の中から庭まで漂ってくると、つい先ほどまで殺伐としていた場は急速に和んでいく。
[そこの二人、アバドンとバロールもそこまでだ。気っぷのいい殴り合いを見せてもらった礼として、俺の蔵からワインを出してやる。取ってこいアバドン]
[謹んで]
[むう……まあ魔王の仲裁とあれば仕方がないわい]
場の変化に最後まで戸惑っていた二人、バロールとアバドンもルシフェルが仲裁に入ると素直に同意し、程なく戻ってきたアバドンが手にしていた一本のワインが開くと同時に静かにグラスを交わした。
「見事なものだね」
[残るはお前一人だな]
「とっくに戦いは終わってるしサリムの治療も終わってるけど」
[残っているのはこちら側の問題だ]
「モートのこと?」
どうやらモートは気絶してしまったらしく、そばに駆け寄ったエレオノールが先ほどから声をかけているが答えは無かった。
[あれもいたな忘れていた]
「ひどい話だな。それはそうとモートじゃないなら何なんだ? ベリアルはきちんと元に戻したぞ」
[アレの始末を問題にするほど俺は暇ではない。問題はアスタロトとエレオノールのことだ]
「ああ……」
将棋をする暇はあるくせに、とクレイは胸中で毒づくと、サリムとエレオノールの関係を忘れていたとばかりに溜息をついた。
そして数瞬が過ぎた後、判断に迷っていることを知らせるようにルシフェルの顔を見ると、それを察したルシフェルは言葉を継いだ。
[言っては何だが、エレオノールはこちらの大事な働き手だ。着いていきたいと言ってもそうたやすく行かせるわけにはいかん]
「う~ん……結局は本人次第、だよな」
[本人が了承したらどうする]
「何とかするさ。もう既に一人ヴァンパイアが服飾店に就職してるし」
[ふん、そうか。それではアスタロトの方だが]
[なになに? ボクのこと呼んだ?]
いきなり声をかけられたルシフェルが自警団本部の入口を見ると、そこには茶器を乗せた盆を両手で持ち、なぜか執事服に着替えているアスタロトがいた。
[なかなか似合うではないか]
[キミに見せるために着てるんじゃないからね]
舌を出すアスタロトにクレイが軽く手を上げる。
「そんな不機嫌な顔をしなくてもいいよ。それよりエリザベートさんにお茶を持って行ってあげて」
[ん、そうしよう]
アスタロトは素直にうなづくと優雅な足取りでエリザベートのところに向かい、いつの間に焼き上げたのかスコーンにジャムを乗せて紅茶と一緒に出す。
「本当に面倒見がいいね」
クレイが誰に言うともなくそう言うと、ルシフェルは軽く鼻を鳴らした。
[だが戦いの時にはその面倒見の良さが裏返り、相手が最も嫌うであろう手管を平気で使う毒婦と化す]
「女って怖いよね」
[……ふん]
クレイの返しにルシフェルは呆れた声でそう言うと、衰弱したエリザベートを元気づけるように明るい声で談笑するアスタロトを数秒ほど見つめた。
[本当に奴でいいのか]
「アスタロトじゃなくちゃいけない訳がある。そう話したはずだけど」
[また裏切るかもしれんぞ]
「だから俺が最も求めていた人材なのさ」
[……何?]
理解できないという風にルシフェルが問い直すと、クレイは無邪気な笑顔を浮かべて遠くを見つめた。
「今まで裏切り続けてきたってことは、あらゆる人の立場や生き方に共感や追従ができなかった、いわば中立に最も近い立場ってことだろ?」
仮にも魔王に向かい、あけすけに言い放つクレイの顔を見たルシフェルは、ほんの刹那の瞬間だけ目を丸くし、軽く息を吐いた。
[だがすぐに出すわけにはいかん。奥方の心のケアを奴にしてもらわねばならんし、奴が引き受けていた分の城内の家事を引き継ぐ時間がいる]
「いいよ、どうせ獣人の建国はまだ始まってもいない段階だし、今は根回しをしている最中だからな」
[よかろう、その段階に来れば連絡をよこせ]
ルシフェルはそう言うと、城へ視線を向ける。
[うるさい奴が起きたようだ]
「みたいだね」
[話をつけてこいクレイ]
「いや主犯はそっちだろ」
[共犯が行かなくてどうする]
「んー……」
クレイはあごに手を当てて考えると、ある人物に手を振って呼び寄せる。
[あ? もうすぐ成人するからワインの目利きについて教えて欲しいだ? あんま今は城に近づきたくねえんだがな……]
そして。
[テメエコノヤロウ! 絶対に許さねえクレイ!]
クレイはバアル=ゼブルが盾となっている間にラファエラを説得し、ワインセラーで再び酔い潰してようやく長い一日は終わりを告げたのだった。