第215話 目的のためには手段を選ばず!
[アスタロトを祭神って……なんだそりゃ⁉]
バアル=ゼブルは、ルシフェルがまたバカにしてくるであろうことが分かっていながらも、そう問わずにはいられなかった。
堕天使を束ねる長アスタロト。
その実力と地位は魔族の中でもバアル=ゼブルと並ぶ、いや凌駕すると言ってもいいアスタロトを、敵対する天使が仲間に引き入れるとは完全に考えの外にあったのだ。
そしてそのバアル=ゼブルの疑問に対するルシフェルの回答も、また彼の予想の外にあるものだった。
[俺も聞いた時はそう思った。俺の予想の中にはあったが、それを天使の奴らが提案するとは思っていなかったからな]
[まぁアルバトールの野郎ならそうだったろうな……チッ、面倒なことになってきやがった]
ルシフェルもまた、バアル=ゼブルが軽口を返してこなかったことに一瞬だけ意外そうな顔をするも、結界の変質を感じ取った彼はすぐに再構築し、修復する。
[だがよ、どうも納得いかねえことがある]
そして修復された結界を見たバアル=ゼブルはそう言うと、結界から漏れ出た戦いの余波、だが処理するまでもない微細の力を消していく。
自分の考えがまとめるまでの手遊びにも見えるそれを見たルシフェルは、呆れた顔になってバアル=ゼブルに話しかけた。
[なんだ、口にすることを迷うとはお前らしくもない]
[ああ、ちょっとな……まぁアレだ、何でクレイは自分の得にならねえ提案を……言ってみりゃあ俺たちの利益にしかならねえことを言い出したんだ? 獣人の国を作りたいってことは俺も聞いてたが、アスタロトの奴を国の祭神にしちまうと、国を作った後の利益は俺たちに流れるってことになっちまうぜ]
[それに関しては説明があった。今でなければ間に合わない、だそうだ]
[間に合わない?]
バアル=ゼブルはオウム返しをするとそのまま考え込む。
間に合わないと言っても、獣人の国はまだ建国すらされていない。
当然それにともなう議論や収財は始まってはおらず、そもそもそれを話し合う国民すらまだ集まっていないのに、間に合わないという表現は的外れに思えた。
[お前はどう考えるアスタロト]
そこにルシフェルがアスタロトを呼びつける声を聞いたバアル=ゼブルは、信頼できない姉であり、警戒すべき恋人であり、そして敬愛すべき神々の母である、あらゆる陣営を裏切り続けた堕天使の顔を見た。
[利益や損失と言ったしがらみが無い今のうちじゃないと、ボクを招き入れることはできない。そう考えたんだろうけど……何でボクなんだろうね。領境の森にはオリュンポス十二神を招き入れているのに]
アスタロトが自嘲気味にそう言うと、ルシフェルは軽くうなづいた。
[何を目的として獣人の国を建設するか。その最初の理念を優先しただけだとクレイは言っていた]
ルシフェルの言葉にアスタロトは数回ほどまばたきをした後、ハッと目を見開いてクレイを見た。
[そっか……十二神を招き入れれば、魔族と十二神の対立は鮮明なものとなってしまい、獣人の国が戦火に巻き込まれる確率が……いや間違いなくボクたちの戦いに巻き込まれてしまうだろうね]
[クレイもそう言っていた。獣人を保護するための、そしてヴェイラーグとの緩衝地帯を作るための建国だとな。その目的に合致するのが人間たちに恐れられ、魔族の中でも指折りの実力を持つお前の招聘、そしてまだ獣人の国が成立していない、まだどこの国も目立った利益や損失を受けていない今が機会なのだと]
[そりゃアスタロトを祭神にするってだけならそうだろうよ。だが建国に一番必要なのは出資者だ。その出資者にデメリットが……あれあんま関係ねえな?]
[商人どもは必要とあれば魔族とも商売をする。天魔大戦がいたずらに戦火を広げないのはそのためもあるからな。戦った結果として大陸に影響を及ぼすことはあっても、影響を及ぼすことを目的としたことはそれほど無い]
[……ガキにしちゃあよく考えてるじゃねえか。だがまだまだ気になることは残ってるぜ、ルシフェル]
[なんだ]
バアル=ゼブルは少し強めの風を巻き起こすと、結界の外を舞っている残滓をまとめて吹き飛ばしてから口を開く。
[何でアスタロトなんだ。言っちゃ悪いがコイツは信用がない。せっかく国の祭神に祭り上げたとしても、裏切らないって保証はねえ。人間どもににらみを利かせるだけなら俺やモートでも構わないはずだ]
[それに関しては聞いていないし俺にも分からん。だがクレイにはそれなりの理由があるようだ]
[なるほどな。それじゃついでにもう一つ聞こう]
[言ってみろ]
[さっきお前は取引と言ったな]
[言った]
[ではお前がクレイから受け取るものはなんだ?]
[ふん……それか]
ルシフェルはバアル=ゼブルから結界の中へと視線を移し、さすがに疲労が濃くなってきたクレイを見た。
[これが取引の内容、魔神たちのしつけだ]
[なんだそりゃ]
[規律を守れぬ自分勝手な魔神どもに、自分たちでも思い通りにならないことがある、逆らえないものがあるのだと教え込み、俺やジョーカー、アバドンなどの命令に服従するきっかけとし、軍として統制する最初の段階とする。俺が自警団を黙認していた理由であり、クレイを呼び寄せた理由の一つでもある]
その説明を聞いたバアル=ゼブルは軽く肩をすくめて結界の中を見つめる。
[俺はしつけなくてもいいのか? 魔王サマよ]
[お前は芯のところでは自分の立場を理解している。先ほどお前にやる必要がないと言ったのはそれが理由だ]
[そうか]
小さく呟くバアル=ゼブルの視線の先では、前衛役を務めるアバドンがクレイの攻撃を防いでいるところであり、その間に横へ回り込んだベリアルがクレイへ向けて牽制の魔術を放っていた。
[こりゃヤベエ奴が当たるな]
ベリアルの攻撃に気を取られたクレイは直後にアバドンに殴り飛ばされ、その姿を見たバアル=ゼブルは後頭部を右手でかいた。
[やれやれ、だからと言ってアイツが一人で戦うこともないだろうに。まぁアバドンの奴は本気を出すと、女子供には手を上げないでござる、とか言って妙に自分の矜持を重んじるようになるから、クレイの奴をベリアルと二人で嬲り殺すようなことはしねえだろうが……]
[それに関しても策があるそうだ]
[策だ?]
[なかなかに面白い案だった。確かにアバドンには有効だろうな]
[ほう?]
バアル=ゼブルは興味深そうな視線をルシフェルに向け、先を促す。
[バヤール馬が来ているだろう]
[あー来てたな。そういやアバドンは昔アイツに惚れてたんだっけか]
そしてルシフェルが口にしたある一頭の神馬の名を聞いたバアル=ゼブルはそう言うと、岩山の断崖絶壁から削り出されたようなゴツゴツとした筋肉から成り立つ女性、バヤールの姿を連想した。
[まあアバドンとお似合いと言えなくもねえが……そのバヤールがどうしたんだ?]
[まだ未練があるようでな。アバドンはバヤールの姿を見た途端に気が散漫になって力が大幅に削られると言っていた]
[ほー……なんかヤム=ナハル爺から聞いたバヤールの印象とは随分と……]
[来たぞ]
ルシフェルの言葉に気配を探れば、確かに周囲の野次馬から頭二つは抜けた偉丈夫……ではなく、見目麗しいと言うのでもなく、ただ人々の耳目を圧する存在がいつの間にかそこにいた。
[バヤール! バヤールではないか!]
「クク……久しいなアバドンよ」
対峙する二人の間に、見えない重圧が広がる。
その昔、アルストリアの森に住んでいたバヤールにアバドンが言いより、それを断られたためにアバドンの災厄が降りかかったのだという。
その因縁のせいか、二人の間にはただならぬ雰囲気が漂い、アバドンがバヤールと会った瞬間に生じる隙を狙おうとしたクレイも、どうしたものか悩んでいるように見えた。
[ひょ、ひょっとして自分に会いに来てくれたでござるか! も、もしそうなら、この数十年来のトキメキをそなたに……]
「クク、残念だがこのバヤールはすでに主アルバトールの元にあり、そして今はそこにいるクレイにもこの背を許した身。義理とはいえ、主の息子だけあってなかなかの器量良しよ」
[な……なん……と……]
そしてそのようなやり取りがアバドンとバヤールの間で行われ、それを見ていたクレイはアバドンの目に宿った光を見て慌てて両手を胸の前で何度も交差した。
その後。
[なぁ]
[なんだ]
[なんかアバドンの野郎、ヤベエくれえの興奮状態になってねえか?]
[そうかもしれんな]
先ほどまで手加減をしていたのか、無限に続くかと思われるアバドンのクレイへの攻撃はいよいよ激しさを増し、その速さについてこれなくなったベリアルは、呆れた顔になると離れたところで傍観を決め込んでいた。
[まさか再び奴の真の実力が発揮されることになろうとは思っていなかった。仲間に見放され、一人で放浪することとなり、その先で出会ったバヤールには手ひどくふられ、すっかり塞ぎ込んでいたアバドンを復活させるとはな。クレイがこの戦いを生き残ったら、アスタロトを九十九年貸与するくらいの褒美をやらねばなるまい]
[それもうクレイが死ぬ前提で話を進めてんだろ]
アバドンの連打を防ぐクレイの両腕はすでに青黒く染まり、肌のあちこちに裂傷が走ってそこから血が流れている。
天使の自己治癒能力すら追いついていないその状況に、バアル=ゼブルは困った顔になって後頭部をぽりぽりとかいた。
[これがお前さんとクレイの面白い案ってか?]
[その通りだ。あの時の自信満々なクレイの顔をお前にも見せてやりたかったぞ]
[お前たちの頭のヤバさに比べたらどうでもいいレベルの話だな……あ]
とうとうクレイはアバドンの攻撃を防ぎきれなくなり、脳天めがけて振り下ろされたアバドンの手刀こそ両手で受け止めることが出来たが、地面に体が埋め込まれたところを右足の蹴りで薙ぎ払われ、胴を大きくえぐられながら再び結界へと叩きつけられていた。
[やれやれ、なまじ精神体に傾いたモンだから、結界にぶつかった時の衝撃が以前より大きいものになってんな。それでも最初に比べりゃあダメージは小さくなってるようだが……]
バアル=ゼブルは困った顔になるときょろきょろと辺りを見回し、ここにいない相手に向かって毒を吐いた。
[ラファエラの野郎はどこに行きやがったんだ。必要ねえ時にはしゃしゃりでてくるくせに、肝心の時はいやがらねえ]
[ふむ]
その悪態を聞いたルシフェルは数秒ほど王城へと視線を向けた後、軽く鼻を鳴らして腕を組んだ。
[アイツは酔いつぶれたのでアナトに介抱させている。先ほどクレイに褒美としてワインを勧めたら、いきなり現れて全部飲み干してしまってな]
[わざとだろお前]
ジト目になるバアル=ゼブルを見てもルシフェルは動じず答えた。
[お前流に言うなら、それはクレイに言うのがスジだな。一人で戦い、勝った時の褒美として俺にこの取引を飲ませるのが奴の筋書きだ]
[威を示せってか]
[それだけでは無い。これは自分への罰なのだとも言っていた]
[あん? 罰だ?]
思ってもみなかったルシフェルの回答に、バアル=ゼブルは素っ頓狂な声を上げ、口をあんぐりと開ける。
そしてその瞬間に結界の中では巨大な爆発が起き、彼とルシフェルの顔を明るく照らし出したのだった。