第214話 二対一の戦い!
アバドンとは、サタンを千年の獄に管理していたといわれ、カリストア教の聖典の最終節、終末について書かれた書に記された奈落の王である。
その名は破壊、滅ぼす、奈落の底を表すとされており、また最終戦争の前触れである終末のラッパを吹く天使の一人でもある彼は、その役割から早々に堕天使と認定され、闇に堕とされた。
こちらの世界セテルニウスでは、その後に紆余曲折を経てルシフェルに魔神族の統率を押し付けられ、現在に至っている。
[おお、よく来てくれたね同胞よ]
[別に貴様のために来たわけではないでござる]
アバドンは満面の笑みで出迎えたベリアルに対してそっけなく返事をすると、王城より走ってきたその痕跡たる土煙と身体から立ち昇る水煙を周囲に示し、物質界における大原則の一つ、存在を誇示する。
[よろしいのでございますなルシフェル様]
[構わん。先ほどお前に説明したとおりだ]
[では王の許しを得て……]
だがアバドンの真の実力はそんなものではなかった。
[自分の力を解放させてもらうでござる]
ルシフェルと二言三言と言葉を交わした直後、それまでのアバドンからは想像もできない力が周囲に発せられ、バアル=ゼブルやモートが張った結界すら弾け飛ぶかと思わんばかりの桁違いの圧がクレイたちをたじろかせたのだ。
「魔神族の指導者とはとても思えない、そんな感想を抱いてたけど……これは丁重に訂正させてもらわなければならないかな。最上位魔神アバドン」
[訂正などせずとも良いでござる。既に事態は言葉ではなく拳で語る段階に来ていよう]
アバドンはそう言って拳を握り、手の中にわずかに残った大気を握りつぶす。
そして場に集まった人々の視線が集まるところ、すなわちクレイとアバドンの二人の気が膨らみ、戦いの号砲と化すと思われた時、呆れた声が横やりを入れた。
[おいおい、まさか二対一でやるつもりかクレイ]
バアル=ゼブルは後頭部をポリポリとかきながらそう言うと、アバドンとベリアルの二人を目で牽制しながらクレイに問いかけた。
[俺がお前とラファエラにあっさり捕まった時のこと覚えてんだろ。よほどの実力者でも二対一ってのは相当に分が悪いモンだ。俺が言えた義理じゃねえが、誰か増援を連れてきた方がいいんじゃねえか?]
「んー、まあそうなのかもしれないけど、ラファエラ司祭が見当たらないんだよね。アナトさんもだけどさ」
バアル=ゼブルの問いにクレイは無言のまま腕を上げると、サリムへ手の平を向けて制止する。
そして何かを知っているかのように苦笑いを浮かべ、茶色い頭を天へ向けた。
[あん? あー……そういやアナトの奴もいねえな。まさか二人でどこかに出かけたわけでも……いや出かけたのかもしれねえな]
腕を組み、溜息をつくバアル=ゼブルにクレイは目をぱちぱちとさせた。
「何か知ってるの?」
[シラネ。やたら落ち着き払ってるお前の方が知ってるんじゃねえのか?]
「予想はついてるけど、それが当たったからって俺が有利になるわけじゃないしな」
クレイがそう言ってルシフェルをちらりと見ると、バアル=ゼブルも呆れた顔でルシフェルを見た。
[止めねえのか?]
[止める必要があれば止める]
ルシフェルがぶっきらぼうな口調で答えると、バアル=ゼブルは肩をすくめてクレイを見る。
[止めねえのか?]
「ルシフェルが止めないなら俺も止める必要がないよ。コランタンさんも来てくれたことだし、多少の怪我をしても大丈夫そうだ」
クレイはチラリと盗賊ギルドの長であるコランタンであり、医の魔神でもあるブエルを見た後に片目をつぶってみせた。
[……んじゃ仕方ねえな]
バアル=ゼブルの容認を聞いたルシフェルは、小さく鼻を鳴らすとその容認を発した本人を見ようともせずに命を下す。
[お前はやる必要が無い]
[わーってんよ。クレイの奴がなんでこんな無茶をしようとしてるのかは分からねえけどな]
片目でチラリと合図を送るバアル=ゼブルをルシフェルは無視し、一つの術を練り上げて発動させた。
[ここでは手狭過ぎよう。いつもの通り郊外に移動するぞ]
[あ、おい……]
その場にいた全員、それも人間たちも含めたすべての者たちは、ルシフェルが発動させた天鳥船によって瞬間移動を遂げた。
[結界は俺が張る。どちらが勝とうが俺の知ったことではないが、決着がついた後に異議を唱えた奴は俺が直々に粛清する]
ルシフェルはそう言った後、クレイを見る。
「つまり二対一だったから負けた、などと言った時点でお前は俺の客人ではなくなる。それで良いなクレイ」
「分かってる。それより約束を忘れないでくれよルシフェル」
「無論だ。一度交わした約定も守れぬような者が王などと名乗るわけがない」
ルシフェルが言うと同時に、クレイとアバドン、ベリアルを中心とした広い範囲の大地から荒い網のような光が立ち昇り、頂点部で結実して結界となる。
[始めよ]
短い宣言と共に、結界内は静かな闘気に満たされた。
[来ぬのか]
「そちらこそ」
クレイとアバドンは睨み合い、相手の手を探る。
しかしそれも数秒のことだった。
[では僕が動かせてもらおう! クアドリガ・ルージュ!]
クレイの注意がややアバドンに割かれたことを機とし、ベリアルが炎の馬車を顕現させてクレイに突っ込ませたのである。
[なんたる軽率!]
術に巻き込まれることを恐れたアバドンが後退し、間合いが開く。
「フラム・フォイユ!」
その開いた隙間をクレイは見逃さず、ベリアルの放った馬車を避けるどころか無数の炎の葉もろともにアバドンへと突っ込み、自らの体が焼けることも厭わず右こぶしを繰り出した。
「アルブル・クル!」
アバドンの腹部に輝かしい炎をまとったクレイの右こぶしがめりこむ。
[それでは通らぬ]
「うおッ⁉」
しかしアバドンが小さく腹筋を震わせただけでクレイは弾き飛ばされ、五メートルほど吹き飛ばされた後でようやくその勢いは止まった。
[アバドンを甘く見すぎたようだね天使どの! クアドリガ・ルージュ!]
「うぉあッ⁉」
だがそこにベリアルの術が撃ち込まれ、クレイはその体のあちこちに軽いやけどを負ってしまっていた。
[へぇ、防げないタイミングだったはずだけどね]
「お前こそ俺を甘く見すぎているんじゃないかベリアル」
[辛辣だね天使どの。さてどうやら今回の僕の役割はサポートに回ることのようだ。天使どのの相手は任せたよアバドン]
[それが一番の近道でござろうな。しかし天使たちとの戦いで、魔神族のみが矢面に立たされる、と嘆いてみせたお主が自分のサポート役とは、失笑しか出ぬ]
[そうだっけウフフ]
とぼけるベリアルにアバドンは冷たい一瞥を向けると、逆立った金髪を振ってクレイへと向き直った。
[来い! そしてわずかの時の後に貴様のところへ来たる敗北を噛みしめよ!]
「勝算の無い戦いに挑むつもりはない! 行くぞ最上位魔神アバドン!」
結界内は荒れ狂う魔術で満たされ、もはや人間の目では追えぬ速度まで戦いの速度は昇りつめる。
[まったく、いくらなんでも不利がすぎるんじゃねえのか?]
いよいよ激しくなっていく戦いを外から見ていた一人の旧神は、複雑そうな表情を作ると隣にいる魔王へ話しかけた。
[ふん……]
バアル=ゼブルがそう呟くのを聞いた魔王ルシフェルは、濃紫の髪をしばらくの間風に躍らせながら無言で過ごし、なおも自分から離れぬ注意を認めると面倒そうに口を開いた。
[それがクレイと交わした取引の条件の一つだ。俺が言って止めさせるのは簡単だろうが、それではクレイの方が納得すまい]
[取引?]
途端にバアル=ゼブルは目を輝かせ、あちこちに視線を動かした後に目の前の戦闘そっちのけでルシフェルに話の先を促した。
[まったく、まるで井戸端の既婚女性だな]
ルシフェルは呆れた顔になると、少し離れたところにいるアスタロトの視線がそれとなく自分たちに向いていることを横目で確認してから口を開いた。
[クレイの目的はアスタロトを引き込むことだ]
[ほー、やっぱそうだったか]
その相槌を聞いたルシフェルは続きを待つが、意味ありげにうなづくばかりで一向に口を開こうとしないバアル=ゼブルに見切りをつけ、結界の一部を強化して戦いの流れ弾を吸収する。
[いいのか? アスタロトを取られても]
[そいつを決めるのは俺じゃねえ]
[そうと分かっていても引き留めて欲しいのが女というものだ]
[引き留めるチャンスすら今まで与えてくれなかった奴をどう引き留めろってんだ]
バアル=ゼブルは吐き捨てるように言うと、地面にしゃがみこんだままのアスタロトの顔が気弱なものに変化していることに気づき、慌てて視線を逸らす。
[子供かお前は]
[この年になって初めて気づく良さってものがあんだよ]
[その年になるまで気づかない自分の愚かさに先に気づくべきだったな]
[うっせーよ、お前の方こそセファ……]
バアル=ゼブルはそこで黙り込み、クレイたちの戦いへと注意を戻す。
さすがのルシフェルもクレイと最上位魔神が二人では魔術の威力を捌ききれないのか、結界の外に漏れる余波が少し目立つようになっていたのだ。
[しかしアスタロトを手に入れてどうしようってんだ? いくら元天使だからっつってもアイツぁそもそもの大元は旧神だ。あっちこっちに鞍替えしてるようなヤツを手に入れても、他の奴らが納得しねえだろ]
[クレイの説明ではその辺りも解決するそうだ]
[あん? まぁクレイ自身は天使になって数年だが、その身に天使の王であるメタトロンを宿してる。納得しねえ奴らをその権で黙らせることもできるだろうが……]
[そんな軽はずみなことをクレイがするわけがない。奴はまだまだ子供だが、物心つく前に養子という境遇に置かれたせいか、人間関係には非常に敏感だからな]
[んじゃどうやって……っと]
バアル=ゼブルは結界の外に漏れ出た余波をマイムールで打ち消して得意げな顔になるが、肝心のルシフェルの反応は薄かった。
[魔王サマは配下の働きにねぎらいの言葉もかけねえのかよ]
[配下がどれだけ動けるかを見るのは上に立つものとして当然のことだ。そして評価を下すには他の配下の働きも見ねばならん]
[テメエああ言えばコノヤロウ]
バアル=ゼブルがそう言って食って掛かろうとした瞬間、ルシフェルの双眸に稲妻のような光が走ったような戦慄を覚え、動きを止める。
[クレイはアスタロトを獣人の国の祭神として迎えたいと言ったのだ]
[んなッ……⁉]
そしてルシフェルの口から出た説明を聞いたバアル=ゼブル、そしてこっそり聞き耳を立てていたアスタロトは驚愕した。