第211話 失われていた記憶!
「ブルー・トリヤングル!」
「我が道を示しなさいビルガ!」
ベリアルを迎え撃つべくサリムとフィーナが術を発動させるも、それは肝心の標的に届く前に縮小し、霧散する。
[見くびられたものだ。たかが人間の術ごときがこの最上位魔神たるベリアルに通用するとでも思ったのかい?]
「くッ……」
「まだ本気を出していないだけよ! 正義が邪悪な魔神に負けるわけがないわ!」
リッチを一蹴したサリムの術すら通用しないベリアルにフィーナが強がりを言った直後、ベリアルの背後に留まっていた騎馬戦車が急激に動きを見せた。
「危ないフィーナさん! ブリュイヤール・リポスト!」
[何ッ⁉]
フィーナに直撃するかと思われた炎の馬車は、サリムが放った霧によって巻き取られ、ベリアルに弾き返される。
[なんてね]
だがベリアルに当たる寸前に騎馬戦車は分解し、中から現れた四人の炎の兵士たちが宙に舞うと、そのままサリムに飛んでいき。
「うごああ⁉」
サリムは逆襲してきた複数の炎の兵士を捌ききれず、右腕の肘から先が真っ黒に焼かれてしまう。
「サリム君……今……癒しの水……を……うっ」
そしてフィーナも直撃こそしなかったものの、先ほどその頭上をかすめていった騎馬戦車の残した衝撃に気を失っていた。
[手を抜いていたとはいえ、僕の術の軌道を少しでも変更させるとはね。君がアスタロトが言っていた稀人かい?]
「く……これは……」
ヘプルクロシアで戦ったドラゴニュート、エキーオーンの血を浴びたことによってサリムの体はかなりの再生能力を持っている。
だがそれすら追いつかない、それどころかその能力すら逆に利用して全身へと侵食していこうとする右腕の火傷を見たサリムは、三叉槍を右腕に当てた。
「ブルー・トリヤングル……ッ!」
[これは驚いた。まさか自分自身の右腕を切断するほどの気概を持つ人間が、君のような若さで存在していたとは]
サリムの右腕が吹き飛び、鮮血が飛び散る。
しかしその甲斐あってか、徐々に肩へと登っていた先ほどの火傷はその侵食をやめ、地に落ちた右腕を焼き尽くして動きを止めた。
「……どうしたのですかベリアル。こんなことで動きを止めるようでは、最上位魔神の称号が泣くというものです」
[その上でこの僕に挑発をするとは、ね]
サリムの怒りや痛みといった負の感情を楽しんでいたベリアルは、顔にうっすらと笑みを浮かべると首をクイっと動かして背後へと戻った兵士たちへ合図を送る。
[君が人間でなければ配下に欲しい所だよ、殺すのは惜しいが、仕方がないね]
四人の兵士が結集すると再び騎馬戦車は姿を取り戻し、炎の馬に引かれた赤い戦車が動き出す。
「その術はさっき見させてもらいました! ブルー・トリヤングル!」
その威容を見たサリムは左手で三叉槍を掲げると、向かってくる四頭の馬へと突き出した。
「うわああああ!」
しかし蒼い閃光は四頭の馬に装着された鎧によって弾かれ、サリムはそのまま馬車に吹き飛ばされてしまっていた。
[先ほどは手を抜いていたと言っただろうに。僕の助言を無視するとは、やはり愚かで脆弱な人間だったか]
上空から地面に叩きつけられ、地に伏すサリム。
「ですが……少しは貴方の術が見えてきましたよベリアル」
[それはめでたい]
術に込められた力を増やしたのか、大きさを増した騎馬戦車はベリアルの指先が躍ると同時に再びサリムへと向かい、吹き飛ばす。
馬車が通り過ぎた位置は先ほどよりも大きくサリムから逸れていたものの、サリムは全身のあちこちに火傷を負い、打撲や骨折によってひどい有様になっていた。
しかしサリムはそれでも立ち上がる。
「愚かだからこそ、人は足りないところを互いに補う。弱いからこそ、人は助け合えるのですよベリアル」
そう口走るサリムに、ベリアルは憐みの目を向けた。
[やれやれ、まだ希望を捨てないとは]
大仰に溜息をつくと、ベリアルは両手を楽団の演奏者のように振りかぶる。
[そんな君に敬意を表し、少しだけ遊んであげよう。少々結界の能力を超える威力がまき散らされるかもしれないが、建物の中にいる犯人や人質はおそらくセイレーンが守ってくれるはずさ……おそらくね]
赤い騎馬戦車はその数を増し、五台の馬車が天空に浮かぶ。
それを見たサリムは死を覚悟し、本部に立てこもっているファブリスやエリザベート、セイに向けて叫びをあげた。
「三人とも逃げてください!」
背後にいる三人を守ろうと、サリムは仁王立ちになって不退転の覚悟を表す。
[よろしい! 君の葬儀はこのベリアルが責任をもって執り行ってあげようじゃないか! クアドリガ・ルージュ!]
サリムの覚悟ごと吹き飛ばすべく五台の馬車が猛烈な速度で渦を巻き、サリムへと迫る。
[サリム! 逃げて!]
セイが絶叫し、歌によって術を防ごうとするもそれは叶わなかった。
[あれ? 今サリムって聞こえたんだけど……サリム~? どこだ~?]
なぜならセイが術を防ぐより先に、騎馬戦車が渦を巻いた中心から黒い霧が巻き起こり、そこから現れたエレオノールがすべての馬車をかき消したからだった。
[おや、これはエレオノール姫ではありませんか]
[うげ……ベリアル様]
戦場と化した自警団本部にいきなり現れたエレオノールは、軽い悲鳴とともにスッとベリアルから体を遠ざける。
だがベリアルはそれを見てもまったく動揺せず、それどころか満面の笑みを浮かべて全身を震わせた。
[ああ、その目がいい……まるで全身を氷に包まれた後に内側から溶けた水で舐めつくされるような感触がたまらない!]
[うひいッ⁉ お、おっちゃん……! じゃなかったモート様助けて!]
[そう邪険にしなくても良いではありませんか……貴女の気配を感じたから術の解除をしたのですよ……]
[それはどうもありがとうございますッ!]
先ほどまで場を包んでいた氷のような冷たい緊張感は、泥のような生温かい嫌悪感へと変貌を遂げる。
だがエレオノールはすぐに我に返ると、ここに現れた目的である一人の少年の名を呼んだ。
[サリム! ホントにここにいるのか!]
「……」
だがエレオノールの呼びかけにサリムは答えない。
片腕を失って満身創痍になった彼は、エレオノールのすぐ傍で膝をつき、 彼女の顔を見上げ、内に満ちる迷いから唇を震わせていた。
「まさかとは思ってたけど……お前……本当にサリムなのか……?」
「エドガーさん……」
よってサリムの正体について口にしたのは、サリムが幼少時に属していた孤児のグループをまとめていたエドガーだった。
「生きて……いたんだな」
「はい。報告が遅れて申し訳ありません」
「そんなことはどうでもいい! 馬鹿野郎、立派になりやがって……俺なんかよりずっとリーダーに相応しいじゃないか!」
エドガーは周りの状況も忘れ、サリムに駆け寄ろうとする。
だがそれは叶わなかった。
[おっと、それ以上近づくと君も同罪と見なすよ? 自警団のエドガー君]
エドガーとサリムの間にはベリアルがおり、死に別れと思っていた孤児仲間との感動の再会など魔神族である彼が認めるはずはなかった。
しかしベリアルの注意がそれた隙に今度はエレオノールがサリムに駆け寄り、暗黒魔術と思しき何かの術を実行しようとする。
[ソンブル……]
しかしすぐにそれは中断され、彼女は泣きだすかと思わんばかりに顔をゆがめるとサリムの傍に座り込んだ。
[マジでサリムなのかよ……俺、てっきり死んだものかと思って……]
「ごめんよエレオノール姉ちゃん。だけど俺、ここにずっといられるわけじゃないから、なんだか言い出せなくって」
[だからって俺にまで内緒にすることはないだろ!]
抱きしめようとしたのか、エレオノールは両手を軽く広げるしぐさを見せるが、サリムの全身が傷ついていることに改めて気づいた彼女は、後ろを振り返ってモートを見る。
[モート様! サリムを治してやってくれよ!]
[……それはできん]
[何で⁉ モート様なら俺と違って法術も使えるよね⁉]
エレオノールの必死な問いにモートは苦悶の表情を浮かべる。
[それはですね……]
[ベリアル様には聞いてないよ! 何でなんだよモート様!]
[聞き分けのないお方だ。モートが答えられないから僕が代わりに答えようというのですよ、エレオノール姫]
[アスタロト様に聞くからいいです。アスタロト様! サリムを治してあげてよ! 早くしないと死んじゃう!]
余程嫌っているのか、エレオノールはベリアルをとことん無視してアスタロトに助けを求めるが、堕天使の長である彼女ですらサリムを助けることにいい顔はしなかった。
[エレオノール、ちょっといいかい?]
[ちっとも良くないよ! 早く治療しないと……]
[今ここがどんな状況か、なんでルシフェル様の客人として招待された天使クレイの従者サリムがこんな目にあうのか、考えて欲しいんだ]
[……俺、考えたくないよ……]
[エレオノール……]
分かっていたのだろう。
それでも助けずにはいられなかったのだろう。
エレオノールは周囲を見渡し、ブライアンとエドガーの姿を見つけ出す。
[そこのあんたたち! サリムと同じ人間なんだろう! 助けてやってくれよ!]
「……!」
「どういうことだエレオノール……お前まさか……記憶が……?」
エレオノールの態度がまったくの初対面のものだったことに、ブライアンとエドガーは愕然とする。
そんな二人を見たアスタロトは、申し訳なさそうに短く溜息をつき口を開いた。
[ごめん二人とも、話すのが遅れてしまった]
「あの肌の白さ……記憶の欠落……まさか転生の副作用ですか? アスタロト様」
[ああ、サリム君のことを覚えていたのが不思議なくらいさ。キミたちに話さずに済むならそれもいいかも、と思って黙ってたんだよ。このボクとしたことがね]
ブライアンとエドガーは顔を蒼白にし、二人が動かないことに苛立ちを見せるエレオノールを見つめた。
特にエレオノール達を王城へ送り込んだブライアンの衝撃は大きいように見えた。
内偵として、そしていざという時は囮とするために送り込んだエレオノールが、まさかヴァンパイアに転生させられていたとは。
しかし何も答えないというわけにもいかず、ブライアンはなるべく手短な答えをかき集め、エレオノールへと向き直った。
「残念ですがそれはできませんエレオノール嬢」
[何でだよ! 魔族の頼みは聞けないってこと⁉]
「我らは人質をとって立てこもったあそこのファブリスなる者を捕らえるが目的。そしてモート様やアスタロト様、ベリアル様も目的を同じくしております。そしてそこのサリム殿はそれを邪魔しようとしておられる。いくらクレイ様の従者とは言え、このような無法を見逃すわけにはまいりません」
追い詰められたエレオノールは周囲を見回し、サリムの窮状を見つめ、そして自分にできる唯一のことを思いついたのかサリムの体を背中に回し、かばおうとする。
[あまり強情を張ると、モートにも罪が及ぶことになりますよエレオノール姫]
だがベリアルの一言に心を折られたか、エレオノールはすぐに両手をだらりと下げて視線を地に落とした。
[……モート様、サリムが逮捕の邪魔をしなければ、治療をしてくれる?]
[保証はしかねる。だが俺以外の者が治療をすることを邪魔したりはせん]
モートが低くそう言うのを聞いたエレオノールは動きを止め、横を通り過ぎるベリアルを力なく見送った。
[では僕は人質をとって立てこもっているファブリス君を確保するよ]
その悄然とした態度のエレオノールが琴線に触れたのか、ベリアルは顔を歪んだ笑顔で満たすとドロリと濁った目でサリムを見下ろし、ぬるぬるとしたなめくじのような動きで本部へとゆっくり歩きだした。
「待て……ベリアル……」
[じっとしてなきゃダメだろサリム!]
「クレイ様から……任されたのです……ファブリスさん……せめてこの場から逃げて……」
指だけでも届けとばかりに左腕を伸ばそうとするサリムを見たエレオノールは、とうとう天に向かって絶叫を上げた。
[いいから黙ってくれよ! 姉ちゃんの言うことが聞けないのか⁉]
「クレイ様なら……自分の命よりファブリスさんを……」
[クレイクレイって何だよ! 姉ちゃんずっとお前を守れなかったことを後悔してたのに! そんなにそいつのことがいいのか!]
[ご……め……」
答えようとしたサリムは、とうとう力尽きたのか気絶してしまう。
[おやおや、これからが面白い所だというのに]
それを見たベリアルはニタリと笑って暗黒魔術によってサリムを癒そうとしたが。
[ほう、ベリアル様は目の前の犯人を逮捕するより重要な案件があると見える]
その行為はバアル=ゼブルが放つ殺気によって止められてしまい、ベリアルは残念そうな顔を見せるもすぐにそれは恍惚へと変化した。
[目の前の獲物、と言った方がいいかもしれないね]
何故ならベリアルの目の前には、恐怖で動けなくなったファブリスがあと数歩で手が届く距離にいたのだ。