第210話 タダ飯喰らいは誰のこと!
「う、うそだ……何でアスタロト様やベリアル様まで……」
[……フン]
ファブリスが立てこもる自警団の本部に新たに現れた三人の魔族。
旧神モート、堕天使アスタロト、最上位魔神ベリアルのうち、唯一人間を見下しているベリアルは、まるで天使のように白いローブとマントを着ている自分の姿を見て黙り込んでしまったファブリスを軽く見た後、なんとなく嫌そうな顔をしているバアル=ゼブルへ近づいた。
[何をモタモタしているんだいバアル=ゼブル。果断即決を旨とする君にしちゃあ珍しいじゃないか]
[ま、そう言うなよベリアル。俺としてもすぐに解決したい所なんだがな]
バアル=ゼブルが自警団本部へと視線を移し、ベリアルもそれに伴って視線を移す。
[見ての通り人質を取られちまっててな。しかもあのセイレーンの嬢ちゃんの歌声がなかなかに曲者で、こっちの戦意を奪っちまうのさ]
[何を迂遠なことを]
ベリアルはバアル=ゼブルへ軽蔑の眼差しを送ると、本部へと近づいていく。
「と、止まれ! 止まらないとこの婆さんがどうなっても知らないぞ!」
[魔族に人質が通用するとでも思ったのかい? 本当に人間は理解しがたい愚かな生物だよ……ああ、生物だったと過去形にするのが正しいかな?]
うっすらとベリアルが笑みを浮かべ、右手を本部の建物へと滑らかに差し伸べる。
[あー、ベリアル]
次の瞬間、彼の首筋にはバアル=ゼブルが顕現化させたマイムールの切っ先が張り付き、ベリアルの髪の数本が風に流されていった。
[言うのを忘れてたが、人質のバーさんに髪の毛一筋ほどの傷でもつけたらお前死ぬから]
[……それはとても重要な情報だ。提供に感謝しよう]
[それほどでもない]
嬉しそうなバアル=ゼブルの声とともに、首筋に当てられていた無邪気な死神の手が引いていく。
それでもなお首筋に残る冷たい感触をベリアルは恍惚たる表情で楽しむと、今度は首をかくりと傾けた後に鋭い牙で埋め尽くされた口を開け、恐怖で凍り付くファブリスの顔を見た。
[君が持っているナイフをその老婆の首に突き立てるより、僕が君の頭を握りつぶすほうが早い。試してみるかい]
「ひ……」
ファブリスは顔を真っ青にして立ちすくんでしまうが、すぐに全身に満ちた怯えを振り払うように大声で叫びを上げた。
「や、や、やれ、やれるもの、なら、やってみろ!」
[分かった殺すよ]
ファブリスの返答を待ち望んでいたかのように、迷うことなく即座にベリアルは答える。
[何ッ⁉]
だが動くことはできなかった。
――私は待っている、ずっと守っている、あなたと過ごしたこの場所を、あなたと共に歩いた日々を――
[セイレーンの歌声……か]
人質にも関わらず、あるいは人質であるからこそ。
詩を歌ってファブリスとエリザベートを守るセイを、ベリアルは生温かく見つめた。
[天使や人に魂を売った魔族ほど見苦しいものはないね……]
だがファブリスから少し離れたところにいるセイは、ベリアルの格好の標的であった。
[死ね、高潔なる魂を失いし廃棄物めぶべぺッ⁉]
しかし魔術を撃とうと構えた瞬間、身動きが取れなくなって地面にしたたかに顔を打ち付けてしまったベリアルは、足元に泥沼を発生させて転倒させた人物に怒りをぶつけた。
[何をするアスタロト!]
[あの子はボクとアナトのお気に入りなんだよ]
[心得た!]
だが深淵すら抗しきれない、そう思わせるアスタロトの暗い目を目を見たベリアルは直立不動となって返事をした後、バアル=ゼブルに詰め寄った。
[八方ふさがりじゃないか!]
[だからさっきからのんびり説得してるんじゃねえか]
さすがに自ら滅びを選ぶような愚かな真似はしたくないのか。
面倒そうに答えるバアル=ゼブルを睨みつけた後、ベリアルは頭痛をこらえるように眉間に右手を当て、しばらくの時間を熟考に充てて口を開いた。
[かと言ってこのまま放置しておくわけにもいかないんだろう? 人間たちがルシフェル様の直属の配下という厚遇を受けているとはいえ、同じ人間を人質に取っている以上、奴は大罪人だ]
[まあな]
[多少強引だが僕が強行突入する。セイレーンは別として、人質はかなりの老婆だ。これ以上の負担を強いるのはいかにも不味い]
[何が言いてえんだベリアル]
ベリアルは目を細め、横目でファブリスたちの方を見る。
[僕が強行突破をする、と見せかけて注意を引き付けている間に、君が風であの人間が持っているナイフを取り上げる。人質に危険が無くなれば後はどうにでもなるだろう。アスタロトもそれでよろしいか]
[ああ、人質を傷つけずに犯人を逮捕するなら文句はないよ]
アスタロトの返事を聞いたベリアルは、バアル=ゼブルの横を通り過ぎて建物へと近づこうとする。
だが横からスッと近づいてきたブライアンの気配を感じ取ったベリアルは、どこか自分と同じような臭いがするとでも感じ取ったのかその足を止めた。
「ファブリスが世話をしている子供たち、家族同然の彼らを呼んで説得に当てます。それまで待つわけにはまいりませんか」
[そうだね、僕がファブリス君を説得するまでに間に合えば考えなくもない]
まったく引こうとしないベリアルを見たブライアンは、それでも譲歩を引き出したとばかりに大人しく身を引く。
ベリアルはそんなブライアンを鼻で笑うと、バアル=ゼブルへ軽く手を上げた。
[頼んだよバアル=ゼブル、君だけが頼りさ。得体のしれない君の姉君などより余程ね]
そしてねっとりと耳打ちをすると、お手上げとばかりに両手を上げて頭の後ろに組み、ゆっくりと本部へ近づいていった。
[君の言い分はなんだいファブリス君?]
「よ、要求は先ほど伝えまし……伝えた……」
[おやおや]
今にも消え入りそうな返答を聞いたベリアルは、ファブリスを刺激しないように足を止め、美しい顔にニコリと微笑を浮かべた。
[ひょっとして疲れているんじゃないかい? 周囲に常に気を使う必要がある籠城は、思っているより負担が大きい。増してや君は我々に比べてか弱い人間の上に一人きりだ。そろそろ休憩をしたくはないかい?]
「……」
心の隙間に入り込む甘言。
黙り込んだファブリスを見たベリアルは、こっそりとバアル=ゼブルへ後ろ手にハンドサインを送る。
[チッ……仕方ねえな]
それを見たバアル=ゼブルが不貞腐れたように呟き、ファブリスの手元に風を渦巻かせた。
[ダメ! 風危ない!]
「うわッ⁉」
セイが叫んで詩を歌うも、既にナイフはファブリスの手元を離れて床へと落ちていた。
[終わりだね……何ッ!]
即座にファブリスへと駆け寄ろうとしたベリアルの歩を止めた閃光、それを放った者は。
「これは何の騒ぎですかバアル=ゼブルさん」
「無力な人間から武器を取り上げるために魔術を使うとは、お兄様にしては無粋ですね」
それはクレイと別行動を取っていたサリムとフィーナだった。
[おう何してやがった二人とも。この王都じゃぐうたらやタダ飯喰らいはご法度だぜ]
「え」 「……お兄様?」
二人は着くや否や、バアル=ゼブルが放った発言に度肝を抜かれ硬直する。
[何だその顔はテメエら俺の言うことに何か文句でもあんのか?]
そしてひそひそ話で相談を始める二人を物ともせず、バアル=ゼブルはぐぐいっと詰め寄った。
[……やれやれ、とんだ邪魔が入ったものだね]
その言葉はどちらを邪魔したことを指したものであっただろうか。
突如として現れたサリムとフィーナに向け、ベリアルが放とうとした術を妨げるかのようなバアル=ゼブルの動きに、最上位魔神たる彼は呆れて両手を上げた。
[さて]
呆れている間にベリアルの前に立ちはだかるサリムとフィーナ。
その向こうで慌ててナイフを拾うファブリスと、まるで動こうとしないエリザベート、セイの姿を見たベリアルはこれ見よがしに舌打ちをした。
[バアル=ゼブル]
[なんだ?]
[本当に彼らは人質なのかい?]
[人質以外の何に見えるんだお前]
そして仲間である(どちらにとっての、かは分からないが)バアル=ゼブルへ問いを投げかけると、その回答に含み笑いを返した。
[じゃあ何故あの老婆は、ナイフを落として隙だらけになったファブリス君から逃げ出してこなかったんだい?]
[そりゃ疲れてるからだろ]
[セイレーンは?]
[セイレーンにとって人間はエサじゃなかったか?]
もっとも近い答えから逃げるようにはぐらかすバアル=ゼブルを見たベリアルは、とうとうはた目にもわかるほどの大きい溜息をついた。
[君らしくもない。彼らは共謀してこの人質事件をでっちあげた、この分かりやすい答えから何を逃げているんだ]
――いや、分かりやすいからこそ目を逸らしているのだ――
そのことに気づいたベリアルは、共謀しているのが自分以外の全員である可能性に気づき、ニヤリと笑みを浮かべた。
[いくら人質であっても、それが主犯と相談した上のことであれば容赦をする必要はない。最上位魔神たるこの僕はそう考えるが……]
ベリアルは振り返り、そこにいる旧神バアル=ゼブルとモート、そして堕天使アスタロトの三人へ挑戦的な視線を叩きつけた。
[君たちはどう思う? やはり人間である彼らを守るべきと思うかい?]
守ろうとした者たちが犯人と共謀関係にあった、そう疑われても不思議はない状況。
ベリアルはこれを、自分と自分が所属する魔神族の地位を高める絶好の好機と捉えていた。
[旧神バアル=ゼブル、モート、堕天使アスタロト。この場は僕が治めさせてもらう。文句はないね?]
答えが返ってこないことを了承と受け取ったベリアルは、サリムとフィーナが立ちはだかる本部の入口へと歩を進めた。
[ああ、君たちは事情をよく知らないのかな? もし知っているのであれば、向こうにいる罪人たちと同じく捕縛することになるが]
そう語りかけるベリアルの声は優しくも、その顔は最上位魔神に相応しい邪悪そのものである。
「魔神族だけあって無茶をおっしゃいますね」
「その顔、なーんか信用できないのよね。正義のフィーナの名にかけて、ここを通すわけにはいかないわ」
そう言って槍を構える二人を見たベリアルは、不快ではなく快楽をその顔に浮かべた。
[フフ……そうこなくてはね!]
ベリアルの気が膨らむ。
気分が高ぶった、それだけでサリムとフィーナを圧倒する重圧を生み出したベリアルは必要のない一歩を踏み出し、周囲にいる人間たちすべてを恐れさせる意味を生じさせていた。
[その恐れが心地よい! 押しつぶされるがいい人間どもよ!]
ベリアルは恍惚の表情とともに、右手を天へと差し伸べた。
[クアドリガ・ルージュ!]
同時にベリアルの背後に巨大な赤い騎馬戦車が現れ、それを引く勇猛な燃え盛る馬がいななきを上げる。
それを合図に、自警団本部における戦闘は始まったのだった。