第169話 魔王の取り扱いマニュアル!
「それではお互いに気持ちを切り替えた後で仕切り直しと言うことで。また明日の午後からお越しくださいクレイ殿」
[俺は忙しいのだがな]
「ありがとうございますマザラン猊下。まさか今日会っていただけるとは思っておりませんでしたので、俺……私の方も準備が整っておりませんでしたが、明日は通例に合わせ儀礼にのっとった訪問をさせていただきますのでお許しを」
「僕も忘れものがあったので同行させてもらおう。ディオニューソスから直接お前たちに手渡すように言われた手土産だから、忘れてしまったとあっては後が怖い」
[だがお前たちが俺に面白い余興を見せてくれると言うなら、時間を作り出して見学に来てやってもいい]
「そうでしたか。それでは明日の訪問、楽しみにしておりますぞクレイ殿、メルクリウス様」
「それじゃ!」
クレイたちはマザランに頭を下げて教皇庁を出ると、燃えるような夕焼けを背景にして下町を歩いていった。
「……何でまだ着いてきてるの?」
[俺の行く先がこっちだからだ]
クレイは一般人のような顔で一般道を歩いている、しかしそれだけで異常な鬼気を放っている魔王へ冷たい視線を送った。
「俺たちに気を使って別の道を通る選択肢は?」
[選択肢はその中から選ぶことを提案するものであって、その中の一つを強制するものではない]
「そうだね、それじゃあまた」
クレイは横道に入り、道草を食うことにした。
「だから何で着いてくるんだよ!」
[俺の行く先が道を変更したのだから仕方なかろう]
「くっ……そうきたか」
目的地がクレイとあってはルシフェルが道を変更するのも致し方ない。
いや目的地自身は文句を言いたいところなのだが、この魔王というか傲慢王に文句を言ったところで意味がない、むしろ余計なことを言えばその十倍ほどの嫌味が返ってくるのでどうしようもないのだ。
「行くアテが無いってことじゃないよね」
[行くアテがどうやらお前たちの仲間と一緒のようだ]
それでもルシフェルが何を考えているか探りを入れない訳にもいかず、クレイが質問をするとあっさりとその答えは返ってきていた。
「仲間と一緒……バアル=ゼブルたちは帰った……前にフィーナが言ってたアスタロトって人か」
確信をもったクレイの発言に、ルシフェルは感心したように眉の端をピクリと上げる。
[ほう、よく分かったな]
「バアル=ゼブルは王都に面白いことがあるから帰ると言った。じゃあまたこっちに来ることは無いさ」
[なるほどな、その程度の洞察力は持ち合わせているか]
ルシフェルはそう言うと、肩をそびやかして別の道を進んだ。
「新しい目的地ができたのかい?」
今までの行動と言動から言って、自分の一言くらいではルシフェルが道を変えないであろうことを確信していたクレイは、わざとルシフェルを引き留める言葉をかける。
しかし返ってきた言葉は、クレイが思いもよらぬものだった。
[底は知れた]
「はい」
ただ面倒なことを言ってくる可能性は、いや自己を正当化する奇想天外な価値観の下に反論してくることは間違いなかったから、クレイは相手の出方を見るために肯定のみを返した。
[お前は先ほどから相手の行動に迎合し、相手が打ってきた手に後手後手に対応しているだけだ]
「そうですね」
[相手の行動を予測し、打ってくるであろう手の機先を制し、先手を打って封じるということをしない。そのような相手をわざわざこの俺が相手にする必要も無かろう]
「そんなに聞く必要も無さそうだねさようなら」
クレイは相手への礼を失する最低な挨拶を返し、宿への道を進んだ。
「良かったのでしょうかクレイ兄様」
「何が?」
「魔王ルシフェルを一人にしたことです」
ルシフェルと分かれた後、すぐに話しかけてきたジョゼの言葉にクレイは苦笑した。
「複数に増やしたほうが被害が増える気がするけどな」
「そういうことではありません! 監視の目をつけたほうがいいのではないかということです!」
「あーうん、俺のほうもそういう意味じゃなくて……ええと、魔王ルシフェルは二人いるのかなってことさ」
「二人?」
不思議そうな顔となったジョゼに、クレイは優しく笑いかけた。
「さっき紙飛行機を投げていた魔王の雰囲気は、教皇に八雲と呼ばれていた時のものとはまるで違うものだった。ひょっとしたら俺と同じ、何か別の存在を中に宿しているんじゃないかって思ってさ」
何気なくそう言った後、クレイはしばらく押し黙る。
ジョゼはそんなクレイの姿を不思議そうな顔のまま見つめるが、何か声をかけて考えていることを邪魔してはならないと思ったのか、そのままクレイの脇を黙ったまま着いていく。
(迦具土?)
(そう、火之迦具土神。かつて曼荼羅の一角を占め、我に協力してくれていた旧神だ)
そしてクレイと言えば、やはりメタトロンに相談をしていたようで、受け取った膨大な量の情報――現実世界では一瞬で済んでいるが――について、その精査を行っていた。
(つまり魔王ルシフェルは建速須佐之男命と、火之迦具土神とが合神して生まれた存在?)
(そう考えるなら、むしろルシフェルが二つの旧神に分かたれて封印されていたと考えた方がいいだろう)
(どっちでも一緒じゃん)
もっともに感じられるクレイの苦情の内容も、メタトロンにとってはまるで違った事象に区分されるもののようで、どちらが主でどちらが従かが順番によってまるで違ってくるのだとクレイは説明を受ける。
(あるいは……強大な二つの旧神の間に働く潮汐力によって時空が引き裂かれ、その間に産まれた巨大な時空断裂の虚空を利用して魂魄を引き寄せることで、奈落より帰還したのかも知れぬな)
(何となく分かった気にさせるけど実際には全然分からない説明だな)
さらにルシフェルの帰還について補足の説明を受けたクレイは、羅列された語句の意味を知ってはいても、現実に何が起こったのか想像すらできない自分に腹を立て、口を尖らせた。
(実際に見た訳ではないから仕方がない。らせん状の微細なる振動によって繋がった様々な極微を手繰り寄せ、導いた予測に過ぎないからな)
(余計に分からなくなった)
(君はまだそれでよい。父の位階の天使に進んだ時、我は改めて君に説明をすることとしよう)
メタトロンから得た情報の一部は、どうやら今のクレイにはまだ手の届かないもののようである。
軽く肩をすくめ、現状で解決できる問題を探したクレイは、姿どころか気配までふいっと消してしまったルシフェルについて聞いた。
(魔王ルシフェルについての対処法はないのか?)
(関わらないことだ)
(もう手遅れじゃん!?)
悲鳴をあげるクレイを見たメタトロンは眉をひそめ、呆れたように両手を上げると首を振った。
(魔王に近づくな、逆らうな、関わるな。それらに反した行動をとるとどうなるかは、君も身をもって知ったはずだ)
(それならそうと先に言ってくれない?)
魔王の対処法というより、魔王の取り扱いマニュアルといった感じのメタトロンの忠告を聞いたクレイは、小さい頃から聞いていた恐ろしい魔王のイメージが、どんどん面倒くさいものに変わっていくことに落胆した。
(仕方あるまい。まさか我もルシフェルが教皇領に来ているとは思っていなかったし、予想すらしていなかった)
そんなクレイを見たメタトロンはそう言うと、やや苦笑を含んだ溜息をついた。
(まったく昔から彼には驚かされっぱなしだ。何者にも媚びず、へつらわず、自らを信じて最善の方法を強行する。我らは……)
メタトロンはそこで口をつぐむと自らの想いにふけり込み、静かに一つの提案をする。
(宿へ向かおう。君はともかく、ジョゼフィーヌ姫はまだ幼い上に女性だ。相応な疲労をその小さな体に溜め込んでいるだろう)
(分かった)
アーカイブ術で情報を一気に詰め込むことは出来ても、それを物質界でも運用できるように理解し、他の知識と紐づけるのは別問題である。
クレイはしばらく考え込み、情報を吟味し、これからの行動を選ぶと、とりあえずの拠点である宿に向かうことを決めた。
「ジョゼ、とりあえず宿に向かうか。サリムやフィーナたちに今日のことを話しておかないとな」
「はいクレイ兄様」
素直に同意するジョゼ。
「……? 何かあったのかジョゼ」
しかしその顔は浮かないもので、何か気がかりなことがあるのかと思ったクレイは、ジョゼに尋ねる。
「先ほどもお伺いしましたが、魔王ルシフェルをこのまま放っておいてよろしいのでしょうか。誰か見張りを付けておいた方がいいのでは」
ジョゼの懸念を聞いたクレイは答えに窮した。
単にこれ以上魔王に関わりたくないというだけではなく、ジョゼの言葉をまるきり忘れていた後ろめたさがあったからである。
しかしルシフェルの取り扱い……ではなく、対処についてはある程度の方針ができていたクレイは、安心させるためにジョゼに笑顔を作った後に口を開く。
「放っておこう。ルシフェルも何かの目的があってここに来たようだし、何か他にたくらみがあったのなら俺についてくる必要もなかったしな」
「魔王の目的と思われるクレイ兄様の値踏みは済んだと判断し、何かの悪事を働くということは?」
「あの教皇ですら相手にしてなかったくらいだ。魔王自身が手を下す必要のある相手、そう判断すること自体が、自分一人を頼みとし、他者を見下しているルシフェルにとってあり得ないことなんじゃないかな」
クレイはそこでニヤリと笑い、視線を横に並んで歩いているジョゼから前へと向ける。
「どちらにしろ、ルシフェルのアテであるアスタロトはフィーナと一緒の宿に泊るみたいだ。じゃあこのまま宿に向かっても問題は無いさ」
「それもそうですね」
クレイの笑みに釣られるようにジョゼも笑みをこぼす。
そんな二人の後に付いて歩くメルクリウスは、どうしてこの二人が未だに結婚していないのかとの考えに身を任せ、そして二人だけになる時間が少ないのかもしれないと結論付けた。
「姫がそのように心配するなら僕がルシフェルの様子を見てこよう」
「お願い出来ますかメルクリウス様」
「僕の盗賊の技が魔王にも通用するか試してみたいからな。二人は先に宿に向かっておいてくれ」
クレイが礼を言おうとした時、すでにメルクリウスはその声だけを残して姿を消していた。
(……気を付けろよメルクリウス)
無事で帰ることを確信しつつも、クレイはそう願わずにはいられない。
なぜならルシフェルの見張りを口実に、メルクリウスが何か悪だくみをするであろうことも確信していたからである。
いずれにせよ今から後を追うわけにもいかず、クレイはメルクリウスの好意にまったく気づかないまま、宿への道をまっすぐ歩いていく。
そこで待ち受ける残酷な運命、そしてサリムとの間に越えがたい壁が生じることを、この時のクレイはまだ知らない。