第155話 虚飾を取り去った後に残るもの!
(なんだこれは……!)
剣を打ち合わせるごとに膨らむ重圧。
籠められた力も意志も、つばぜり合いをしている間にすらみるみるうちに膨らんでいく。
もはや牽制をするまでもない、ただ無心に打ち込んでくる剣の重さにアナトは驚愕した。
(だがあせる必要は無い。まだまだこのアナトに通用する水準では……)
だが流石と言うべきか、歴戦の戦士であるアナトは一変した現状をそう判断し、切って捨てる。
(まだ、だと……)
しかしすぐにアナトの思考に稲妻の如きひらめきが一閃し、その不甲斐ない考えに、その自分の抱いた感想にアナトは自らで激怒した。
(それではまるで、子供であるクレイに今はまだ追いつかれていないだけ、と言うことを自ら認めているようではないか!)
産まれた激情に付け込むような細かい牽制を連続して撃ち込まれたアナトは、内心の動揺を気合の声と共に外に押し出し、それを剣に乗せたがごとく強烈な一撃をクレイに打ち込み、吹き飛ばす。
しかし吹き飛ばされたはずのクレイは、その無比なる一撃をうまく受け流していたのか、逆に先ほどのお返しとばかりに強烈な回し蹴りをアナトに繰り出していた。
(おのれ!)
アナトはレーヴァテインの柄でその回し蹴りを叩き落し、勢いを削いだ後に体を回転させながら左手で掴み、そのまま回転しながらクレイを地面に叩きつける。
「儂がいる限り、残念ながらそいつは通用せんのう」
手ごたえ十分と感じられたその攻撃は、クレイの背中より大地との間に伸びた黒い腕によって受け止められ。
[ぬッ!?]
「綺麗な顔に傷をつけるのは気が引けるけどしょうがないよな!」
それどころかクレイが叫ぶと共に繰り出した頭突きにより、アナトの額は流血することとなっていた。
[ふん! 随分と泥臭い戦いをするではないかクレイ!]
「クレイって名前だからね! 恨むならこの名前をつけた先代の司祭様に言ってくれよ!」
頭突きを受けてアナトが退いたことにより空いた間合いを、素早く踏み込んできたクレイが埋める。
[サルブ・トゥルバ!]
そうはさせじとアナトは術を発動し、結晶化した黒い蛇のような形と姿を変えた大地がクレイの足を止めるべく襲いかかる。
「俺がやる!」
宣言と共にクレイが炎の剣を振るい、十以上の黒蛇を一瞬にして灰と化すも、その時にはアナトは間合いを取って息を整えていた。
[なかなかにやる。先ほどまで半死半生だったとは思えんな]
流れる汗によって肌に張り付いた髪を後ろに流すアナトの姿は美しく、周囲のヴェラーバ軍の中には思わず見とれてしまう者も出るほどであったが、その妖艶な姿もどうやらクレイには通用しなかったようで、軽く肩をすくめて返答をされてしまう。
「俺も不思議に思ってたところだよ」
[……そうか]
「……?」
かかってこないアナトをクレイは不思議そうに見つめ、何か罠を仕掛けようとしているのかと辺りの気配を探る。
そんな姿のクレイを見るアナトの心境は、乗り越えなければならない一つの過去に囚われていた。
(とても戦える姿には見えないほどにやられていながら、このアナトと打ち合える……いや、気を抜いていてはこちらがやられてしまうほどの急激な成長……これではまるで……)
そして何も無いことに気付いたのかすぐにクレイは力を解き放った。
「フラム・フォレ!」
アナトの周囲に次々と巻き起こっていく炎の柱、絶え間なく撒き散らされていく炎の一片。
[アスワド・タキール!]
アナトは巨大な暗黒の球体を産み出してそのすべてを飲み込むと、前面のクレイから彼女の背後に回った黒い腕の一撃を交わし、レーヴァテインより無数の黒い鞭を産み出した。
[アスワド・サウト!]
「フラム・ブランシュ!」
その攻撃も一瞬にして伸びてきた炎の枝に絡めとられ、だがアナトは黒い鞭を巧みに操って逆に締め返し、場は激しい爆発に包まれた。
(これではまるで……あの時のアルバトールのようではないか!)
戦い以外のものに心を奪われた油断によるものとは言え、アナトにとって忘れがたき敗北。
ポセイドーンの祭壇で、彼女より最強の称号を受け継いだ時のアルバトールの姿を思い出したアナトは、その時の恥辱を思い出して怒りに全身を震わせた。
[やるじゃねえか、まさかあのアナトと互角に渡り合うとはよ]
クレイとアナトによる一進一退の攻防を見たバアル=ゼブルは、興奮を隠せないように僅かに震える口調で呟く。
(まずアナトがやられることはねえだろう。クレイがまだ主天使という子の位階……物質界に存在の殆どを委ね留まっているうちは)
そしてそう考えるも、やはり一抹の不安はあった。
(天使にとっての切り札、聖天術をクレイが繰り出せるかどうかによって勝負の結末はどっちに転ぶかわからねえか)
ダークマター。
暗黒の深淵、アビスより出でし不可視の物質。
境界の向こうに潜むがゆえに存在を知覚できず、しかし無限を有限に圧縮させた、内包する巨大すぎる力によってこの物質界にすら影響を及ぼす大いなる力の卵。
魔族にとっての力の源となっているこの暗黒物質は、天主の一部を降臨させる聖天術によってのみ祓われるのだ。
(と、なりゃあ不確定要素が現実となる前にクレイを何とか……いや違うな、死んでもらわなきゃならねえ、か)
つい胸に浮かんでしまった甘い考えをバアル=ゼブルは即座に振り払うと、アナトが苦戦する原因となった黒い腕を指差して叫んだ。
[おいおい何だぁ!? 天使様ともあろうものが、その邪悪な黒色に染まった腕に神聖な戦いを頼るってのか!? おまけによく見りゃあそいつは、ヘプルクロシアの悪名高き旧神、バロールのモンじゃねえのか!?]
バアル=ゼブルの叫びを聞いた聴衆たちがざわつく。
疑念が疑惑を呼び、集まった疑惑は程なく猜疑心へと変化する。
(別に全員が信じる必要はねえ。一部の奴らがちょっとした疑う心を持ってくれりゃあ、それだけで信仰心は激減する)
周囲の人間たちの一部が顔を見合わせ、それが全体に伝搬していくのを見たバアル=ゼブルがほくそ笑んだ時、バロールの腕が変化する。
「パタパタ」
[ふざけんないい年こいたオッサンが腕を上下させながら可愛くパタパタとか言ってんじゃねえぞ!]
なんと確かに真っ黒だったバロールの腕に、瞬時にして長毛種の犬のような柔らかな白い体毛が生え、遠目に見たその姿は宗教画にある清らかな天使の羽根にそっくりなものとなっていたのだ。
まるでヘプルクロシアでバロールに呑み込まれた、白龍ギュイベルの体毛がそのまま生えてきた(実際そうなのだろうが)かのように。
それだけで苦境をひっくり返したバロールは、逆上したバアル=ゼブルを見て呆れたようにぷひーと溜息をついた。
「姿を若くしているだけのオッサンがなにを言っとるんじゃい」
[うるせえなこっちの方が色々と便利なんだよ]
「嘆かわしいのう、人間に養ってもらうためだけに若く美しい姿をして崇拝の虚像を作り上げるとは。儂のように畏怖で献上物を捧げさせるくらいのことをしてみせんかい」
[おいばかやめろ]
そしてバロールの挑発を聞いたバアル=ゼブルは、その向かう先を彼の妹が横取りしたのを感じ取り、慌ててアナトの方を見る。
[フフ……羽毛のごとき美しく柔らかそうな体毛……]
静かにアナトは一歩を踏み出す。
その一歩に大地は恐怖で震え、遠くに見える山すら蜃気楼に映ったものがごとくおぼろげに霞んだ。
[あ、これヤベエやつだわ。後は頑張れよクレイ]
「うむ、儂も疲れたので寝かせてもらうわい。せいぜい死なないように頑張るんじゃいのクレイ」
「なんで二人とも他人事みたいに言ってんだオイ! あの人アンタの妹! 怒ってるのバロールさんのせい!」
バアル=ゼブルが退散した後、結界の中は恍惚の表情となったアナトの威圧でぎしりと歪み、クレイはバロールの無責任な発言に怒りを燃やす。
[その白い体毛を根こそぎむしり取り、剥ぎ取った後に残るものは果たして白い毛の元か、それとも赤い肉の塊か……ああ、虚飾を取り去った後に残るものは……そうだ、このアナトが確かめてやろう]
「あ、これヤバいやつだ」
神剣レーヴァテインから、何を燃やして発生したのか分からぬ黒煙のようなものが立ち昇るのを見たクレイは、炎の剣を眼前に押し立てて得体の知れぬ脅威から身を守ろうとする。
「フラム・フォイユ」
そして様子見のフラム・フォイユを放った途端、彼の目の前には美しい女神の代わりに巨大な黒い球体が現れていた。
[アスワド・タキール]
「フラム・ブランシェ!」
数え切れぬほどの炎の枝が黒い球体に伸び、せめぎ合い拮抗する。
それを見た周囲のヴェラーバ軍は、自分より幼い子供が戦いの女神アナトと互角にやり合っている姿を見て歓喜に湧いた。
しかしその者たちの姿を見て、苦虫を噛み潰したような顔となっている者が一人いる。
それはヴェラーバ共和国の元首、フランキであった。
「……現金なものだ。先ほどまであれほど恐れていた存在が、本当は自分たちより遥かに幼い子供であり、そしてあんな純粋な悩みを持っていたと分かった瞬間に、手のひらを返したように応援し始めるとは」
「元首、何か指示があればお伝えしますが?」
「単なる独り言だよ、気にしなくてもいい」
「はっ……む? 何やら騒がしいですが、何かあったのでしょうか」
クレイとアナトの戦いに価値を見出せないとばかりに、やや虚ろな表情のまま馬上で成り行きを見守っていたフランキは、近くに備えている親衛隊の一人から発せられた上申を聞いて我に返ったように答える。
直後に軍の後背、つまりヴェラーバ本国の方向でちょっとした騒ぎが起こったと思うと、すぐに馬に乗った一人の親衛隊が彼の元に駆け寄った。
「フランキ元首!」
「なんだ騒々しい」
「本国より急使です!」
「そうか、すぐに通せ」
フランキは慌てる様子もなくすぐに指示を出した。
急使の報告を聞いていない今、フランキは本国で何が起こったかも分かっていないはずである。
それにも関わらず冷静な態度のままに指示を出した事実に、周囲に控えている親衛隊はお互いに目配せをしたのだった。