第15話 熊にそっくり!
――ああ、お姉様があたしの頭をなでなでしてくれてる……この幸せにいつまでも包まれてえぇっふぇええふぇふぇふぇふぇ――
クレイは寝台に寝かされたアルテミスの顔を痛ましげな表情で見つめると、彼女のたんこぶに乗せていた手ぬぐいをそっと顔に被せる。
程なく生理的に受け付けない類の寝言は収まり、彼はティナに後のことを頼むとアルテミスを介抱していた家の外に出た。
「ちょっとクレイ! ウチ小さくてか弱い妖精よ!? 人と同じような介護ができるわけないでしょ!」
「ごめんよティナ。下等生物である人間は妖精様を頼るしかないんだ」
「アンタ意外に根に持つタイプだったのね……とにかく無理だから」
そして二人はアルテミスの顔が紫色になりつつあることに気付かないまま、肉の美味しそうな匂いが漂う広場の中央へと急いで向かったのだった。
「遅かったなクレイ。アルテミス殿は気が付いたか?」
「見ただけだと気絶してるのか寝てるのか分からないし、とりあえず安静にさせることにしたよアランさん」
辺りに漂う、肉が焼ける良い匂い。
クレイはその芳香にピクピクと鼻を動かし、気もそぞろにアランへ答える。
「随分と成長したと思っていたが、食欲に負けてしまう所はまだまだ子供だな。きちんとお前の席も用意してあるから行ってこい」
「やった!」
顔を弛め、肉が焼ける音の下へ走って行くクレイ。
調査隊の食料が足りなくなる原因となった孤児院の子供たちが、食事でにぎわう人々の間を忙しく動き回っている姿を見た彼は、心の中で軽く謝罪をしつつも二人分のスペースが空けられた自分の席に着く。
「おお、ようやく来たかクレイ」
その顔が虚ろなものに変わる時間は、それほどかからなかった。
「ほらクレイ。あ~んだあ~ん」
「あぁ……うん」
「懐かしいな、お前がまだ小さい頃は……なんだその浮かない顔は」
「何でだろうね」
用意された席で、クレイはどんよりと曇った表情のまま隣に座ったエレーヌに生返事を返す。
クレイにとって、その席はまるでエレーヌを他の席から隔離しておくためだけの、いわば檻のようなモノにしか思えないものであり、彼はそこで少々焦げた肉を口に押し付けられていた。
「野菜は食べられるようになったか? お前の義父も苦手な野菜があって良く残していたから心配でな」
「エレーヌ姉は魚を食べられるようになったの?」
仕方なく焦げた肉を頬張ったクレイが、ガリガリの食感、焦げた個所の苦みに耐えた後で冷ややかに言うと、エレーヌが持っている野菜が刺さった鉄串がピタリと止まり、クレイはそれをジト目で見つめる。
「さ、こっちの肉も焼けたようだ取ってやる。若いうちはやはり肉が重要だ」
「大人ってズルい」
「う、うるさいぞ! お前が子供の頃におしめを……」
「はいはい、じゃあ俺もエレーヌ姉に子供が産まれたらその子のおしめ変えてあげるから、とりあえず最初だけは好きに食べてもいいかな?」
少々膨らんだエレーヌの頬を見たクレイは苦笑しつつ、陶器の皿に野菜と肉を半分ずつ取って鉄櫛で口へ運ぶ。
城の調理人たちのような、一度茹でてから火を通すやり方と違い、血が滴る生肉の状態からそのまま火を通す野蛮な調理方法。
しかしこちらの方がよほど美味しいため、儀礼を重んじるアランの嘆きを無視するように、周囲の騎士たちの顔は明るかった。
「ウチ別に肉は食べたくないけど、ワインが飲みたいなぁ……」
肉が食べられないため、クレイがおすそわけする野菜をチマチマ食べていたティナは、肉談議で盛り上がる場に上手く溶け込めずぽつりと独り言を呟いてしまう。
「ワインか。確かにジューシーな肉と共に味わうワインは格別だが、しかし最近はどの蔵が作ったものも高価になっていてな……」
ティナの呟きを聞いたエレーヌが寂し気に答えると、その背後から底抜けに明るいながらも、妙な怖気を感じる声が発せられた。
「お姉様! それならこのアルテミスがディオニューソスから強奪……いえ、おすそわけしてもらったワインを持っておりますわ!」
「今なんと言った?」
「おすそわけですわお姉様!」
そこには短く切りそろえた明るいオレンジ色の髪と、快活そうな明るい緑色の目を持つ一人の少女が立っていた。
少女の名は旧神アルテミス。
旧神アテーナーを敬愛する、狩猟と貞潔を守護する処女神である。
その彼女が最も執着しているアテーナーの半身、エレーヌに付け込む隙……つまりは先ほどのワインを欲する願いを、気絶していながらも聞きつけたのか。
酸素欠乏症より華麗に復活して得意気に踏ん反り返っているのを見たエレーヌは、ただちにげんなりとした表情となって愛くるしく見える後ろの少女へ答えた。
「い、いや……残念なことに今回は任務の途中でな。このように日が高いうちからの飲酒などもってのほかなのだアルテミス」
しかしその説明はエレーヌにとっての盾、アイギスとは成らなかった。
「いや、副団長殿にはここに残ってもらい、子供の護衛をしてもらおうかと思っておりますのでご安心を。国を将来背負って立つ子供たちを守るに相応しいのは、副団長殿以外にいないと責任者アランは考えております」
「ほらこのようにアランも言っておりますわ!」
あっさりと追い詰められるエレーヌ。
「アラン!」
「はっ!」
従ってエレーヌはいつものように、このような状況を覆す一手として恫喝および実力行使を選択しようとするも、それはクレイの一言によって封じられることとなっていた。
「いきなり立ってどうしたのエレーヌ姉。肉が足りないなら孤児院の皆に持ってきてもらおうか? どんどん食べて食事を終えないと、子供たちも食べられないよ」
黙って調査隊の食料を食べた罰として、給餌の役を言い付けられた子供たちが、焼けた肉から滴る脂が火に落ち、煙を上げる様子をじっと見ている姿を見たエレーヌは、しばし両拳を握りしめると肉ではなく言葉を飲み込み。
「……仕方あるまい。頼むぞアルテミス」
「はいお姉様!」
間もなくエレーヌは悔しそうに顔に顔を歪め、踊るような足取りで先を歩いているウキウキな顔のアルテミスの後についていくのだった。
そして。
「クレイも来ていいぞ! 今のあたしはサイッコーに気分がいいからな!」
「やだ。お肉食べさせてよ」
「いいから来い! お前もそろそろ大人の世界を見ていい年齢だ!」
「うわああああああ! 俺の肉があああああ!」
先ほど顔に濡れた手ぬぐいを被せられた上に、そのまま放置された仕返しと言うわけでもないだろうが、嬉しそうな顔のアルテミスに掴まれたクレイは開拓村の外へ引きずられて行ったのだった。
「しかしワインなどどこにあるのだ? 見たところ草木が生い茂った普通の森にしか見えぬのだが」
「このアルテミスにお任せくださいお姉様! それにしても……」
アルテミスはエレーヌに近づき、鼻をクンクンと鳴らして匂いを嗅ぐ。
「な! なんだいきなり!」
「このようなキツイ香水の匂い……まさかこのアルテミスに気付かれないためのカモフラージュ? しかし先ほどは確かにお姉様の……」
「ねーもう戻ってもいい? 俺ワインより肉の方に興味があるんだけど」
そして何かに勘付いたように、エレーヌに纏わりつき始めたアルテミスを留めたがるようなクレイの一言と、片目をつぶるサイン。
そこでクレイからわずかに漂ってきたエレーヌの残り香に気付いたのか、アルテミスはニヤけた顔を見られないためにすぐに先頭に立つ。
「肉ならあたしがいくらでも取って来てヘルメースに届けさせてやるから我慢しろクレイ! それにワインがある場所はもうすぐだ!」
「俺もう腹ペコだよ……」
ボヤくクレイの目の前で、アルテミスは再び先ほどのように鼻をクンカクンカと鳴らし始め、やがて何かに気付くと奇異な目で見つめるクレイとエレーヌに構いもせずに一目散に走り始める。
「よしあった!」
そして草むらに飛び込んで地面に手を当て、横にずらすと土がかなりの厚さで一気に移動し、そこから一つの木箱が現れていた。
旧神アルテミスは熊と縁が深い女神であり、熊は獲った獲物を地面の中に隠す習性がある。
だからと言うわけでは無いだろうが、少なくとも温度の変化が少ない地面の中にワインを保存しておくのは理にかなった物であった。
「お姉様! 十年物のワインですわ! これを持ってすぐに村へ戻り、クレイと一緒にお肉を食べましょう!」
「おお、十年物とは凄いな……そうか、十年……か」
「お姉様?」
十年。
半ダークエルフであるエレーヌにとって、その程度の年月自体はそれほど長い物ではない。
だがフォルセールに、聖テイレシア王国に住まう人々にとっては、それは特別な感傷をもたらす数字だった。
「戻ろうよエレーヌ姉。俺、早く肉が食いたい!」
「そしてできればウチにワインのお裾分けをしてくれると……」
それを勘付いたか。
クレイとティナは素早く感傷の素となっているワインを入れていた木箱とエレーヌの間に割って入り、ひきつった笑顔を浮かべる。
「おお、そうだなクレイ……ん?」
「ど、どうしたの?」
だが鋭い目つきとなったエレーヌを見てクレイは口をどもらせてしまい、それは更なる注視をエレーヌにもたらしてしまう。
「木箱の中に布切れがあるな。しかも見覚えのある柄の」
そして重厚な重圧感を増したエレーヌの呟きに、クレイは焦りを隠そうともせず即答する。
「ワインを包んでた布じゃないかな!」
「クレイの言う通りですわお姉様! ささ急ぎ村へ戻って食事を再開……」
ゴツッ
「なぜ先月無くした私の肌着がワインと一緒に入っている! まさかアルテミス、お前ワインの芳香ではなく、私の肌着の匂いを隠した場所のマーキングとしたのではあるまいな!」
「ご、誤解ですわお姉様……これは洗濯物が混ざった結果であって、決してヘルメースに盗ってきてもらったわけでは……」
頭を抑えながら釈明するアルテミスの言を聞く様子もなく、エレーヌは怒りに右拳を震わせながら叫びをあげる。
「またヘルメースか! 奴の数々の悪行、もはや見逃せぬ域まで達している! そろそろ転生の儀に臨ませてもいい頃だと思っていたぞ! 丁度いい、この前ゼウスに借り受けたケラウノスを使って……」
「今の時期に雷霆は色んな意味でマズいよエレーヌ姉! 炎の矢の術一本でも火事の元って怒られるのに、アルテミスのお陰で開拓がようやく進み始めた村の近くでケラウノスを使ったって皆に知られたら、なんて言われるか分かったもんじゃないよ!」
火災の恐れがあると言うだけではない、なにやら必死の形相で説得してくるクレイを見たエレーヌは、渋々と棒の上下に球形の籠のようなものがついたケラウノスを腰のベルトへと戻す。
「うぬ……仕方あるまい。だが肌着は返してもらうぞアルテミス」
しかしそのエレーヌの宣言に対するアルテミスの反応は苛烈な物だった。
「いやですわああああああああああッ!! ヘルメースに貰ったんですもの! これはもうアルテミスの物と言っても過言でばふぁッ!?」
雷光の如きエレーヌの拳が脳天を直撃したと言うのに、アルテミスはエレーヌの胴に廻した腕を離さない。
「いいから返せ! こ、こら……しがみつく……なアバハハハハッ!? 脇腹を撫でまわすなアルテミ……んッ!」
「いやですわあああああ!! それを持っていかれては、アルテミスはお姉様と離れて暮らす寂しさをこれからどうやって紛らわせればいいんですのおおおお!!」
「何して紛らわせてたのさ……」
クレイは箱の中の肌着を嫌そうな目で見つめた後、くんずほぐれつの二人の処女神を見て溜息をつく。
「天使になると、人が想像もつかない苦労をすることになるってアルバ候が言ってたけど……これがそうなのかな」
一度獲った獲物に執着する熊の性質。
それを如何なく発揮するアルテミスの醜態を見て、クレイは義父であるアルバトールと同じような角度で肩を落とすのであった。