第149話 強大なる龍王の力強き咆哮!
レーヴァテインの刃とバハムートの力ある声が拮抗するも、すぐにアナトはいきなり出てきた未知の存在を警戒して距離を取る。
その姿を見たバアル=ゼブルは軽く口笛を吹くと、しゃがみこんだままのサリムへ声をかけた。
[龍王バハムートとは、こいつぁ驚いたな。意志を奪われ、五感を奪われ、とっくにこの大地の一部になったとばかり思っていたんだが]
「久しいな天使アザゼル」
[チッ、その名前で呼ぶのはよしやがれ。なんかおかしいと思ってたんだよな、なんで安定を旨とする物質界の住人として生まれ出でたはずの、龍や人が入り込んだ器から魂が溢れ出してんだってな。原因はお前かよ秩序の種、法則の苗を言い付けられし龍王バハムート]
「少し前に余の中枢神経が転生の旅路にでてな。せっかくなのでその者を使い、外の世界を少し観察してみたくなったのよ」
バアル=ゼブルの声に珍しく緊張感が漂う。
その原因は明らかであっただろう。
かつてこの大地をも上回る巨躯を持っていた龍王バハムート。
ただでさえ恐ろしいほどの強さを誇る竜族の中でも、飛び抜けて揺るぎない力を持つ存在が介入してくるとは、さすがのバアル=ゼブルにとっても無視できない案件であった。
「少しばかり寝すぎたせいか、力の制御がうまくいかぬようだ。少しばかりそこの女に調整に付き合ってもらうとしよう。かつてこの大地のみならず、遠く星々をも制覇した竜族の力……じっくりと味わうがよい」
サリムの眼が黄金色に染まり、その口には青白い閃光が唸りを上げる。
「コロニック・ドライヴ」
そしてバハムートの声で戦慄の幕開けが告げられ、サリムの頭部の周りは時空の歪みに包まれた。
時が歪められたその刹那に、どれほどの熱量を溜めこんだのか。
アナトに向けて発せられた光は、ディアーナとネプトゥーヌスの障壁をすら突き破り、天空の彼方へと姿を消した。
[わざと外していただけたのかな? 龍王バハムートよ]
「いいや、汝の放った重圧にこの小僧が圧し負けただけよ」
軽口を叩くアナトに向かって、一直線に伸びるコロニック・ドライヴの爪痕、溶解した大地。
それは彼女の少し離れた場所で薄れ、細まり、途切れていた。
膨大な熱に歪められた大気に漂うのはかすかな硫黄の香りと、電離した無数の微細の粒子間に放たれる雷光。
それすらディアーナとネプトゥーヌスの結界で効果が弱められているはずの、コロニック・ドライヴの余波だと気づいたクレイは、全身を襲った震えを止めることができなかった。
「何て威力だ……これがバハムートの力の一端なのか」
そう言って生唾を飲み込んだクレイの頭の中に、一つの意思が走る。
(……君もあのような力が欲しいか?)
(へ? そりゃ欲しいに決まってるけど、何でそんなことを今更聞くんだメタトロン)
クレイは不思議そうに意志を返し、頬を伝う冷や汗を拭おうとする。
(あれ、手が動かない?)
だがそれは叶わず、動かぬ体を余所に意志だけが激しく回転する異常な状況に、クレイはある術を思い出していた。
(アーカイブ術……何でこんな時に)
(ネプトゥーヌスの施した戒め。それを取り払うには君と我の擦り合わせが必要だと彼は言った)
(う、うん。でも擦り合わせってどうやるんだ?)
(アーカイブ術により、アーカイブ領域に納められた我が闘争の歴史。それを君にすべて見せることによって、我の経験した戦い、我が編み出した闘技、我が受け継いだ技術を君に降臨させる)
(問題点は?)
クレイが発した問いに、珍しくメタトロンは答えに詰まる。
(……まだ子供である君にとって、つらい現実も目にしなければならなくなるだろう。その中には、たとえ大人であっても目を背けたくなるものも多く含まれる。その昔、アルバトールに見せるのを我が躊躇ってしまったほどに)
(分かったやろう)
(ならば実行しよう。過去の事象を見た後のあれこれに先に制約を付けても、それが遂行されることは無いと分かっている故にな。バハムートとアナトの戦いが拮抗している今が格好の機会だ)
クレイは黙り込む。
今までに聞いたメタトロンの噂、それらを統合することによって浮かび上がる過去の所業。
それらが如何に非道なことであったか、容易に想像できるほどにメタトロンに関する過去の情報は恐れに満たされている。
(では行くぞ)
(ああ)
そのメタトロンの声を合図に、クレイは今までの甘い想像を呪うほどの所業を経験することになった。
(……ここはどこだ?)
気が付けばクレイは草もまばらな荒れ地に居た。
(君たちが生きている時代から数千年は遡り、数千キロは離れた場所にある半島の付け根あたりだ)
(あの人たちは?)
遠くに見える、フードがついた長いローブを羽織った人たちを指差してクレイが問う。
(故郷を捨て、流浪の旅に出る者たちだ)
(ふーん……巡礼の旅じゃないのか)
(それは長く果てしなく、途中から目的は旅ではなく生き抜くための戦いへと変化した。なぜならこの時代、まだ人々は日々の糧を得るための手段として採取や狩猟を主な手段としており、農耕による定住など思いもよらぬことであったからだ)
(限られたパイを奪い合う、か)
(そう考えて嘆いた天使が、ある穀物を地上にもたらしたことがあった。だが穀物が皆に行き渡る寸前、力によってそれを独占する者が現れ、問題は解決されるどころか悪化しただけであった)
先例が無いゆえの試行錯誤、その末に至った失敗。
それを誰が咎められるのかとクレイが言おうとした瞬間、周囲の場面は大きく変わる。
(……麦、か?)
黄金に包まれたかのような景色にクレイが感嘆の溜息をついた時、遠くで大勢の人間が争う声が聞こえてくる。
(あれは……おいメタトロン! 死人が出てるじゃないか! 早く……)
クレイは言いかけ、そして自分が見ている風景が、過ぎ去った時の中に既に埋没してしまったものなのだということを思い出し、黙り込む。
(収穫時期の、あるいは収穫が終わってからの見慣れた風景だ。我ら天使はそれを見守り、行きすぎた場合にのみ罰を下すことと決定した)
(一方的に命と穀物を奪っているようにしか見えないぞ)
(いずれも主の分身であり、信仰を同じくするとあっては手出しできぬ。できる時は……明らかな反逆や堕落を露わにした時のみだ)
メタトロンの言葉にクレイは反論できず、だが反抗はしてみせる。
(……お前は俺に何を見せているメタトロン。お前は俺に戦い方を擦りこみ、同一を図る心づもりじゃなかったのか)
(これでも君を慮った手順を踏もうと努力したのだがな。では心の準備はできたと見ていいのか? クレイ=トール=フォルセールよ)
(お前の望む水準に達しているかどうかは分からないけどね)
(では進もう)
――クレイの視界は暗転し、そして次に見たものは――
(……!)
(人同士の争いが止められぬなら、せめてそれに至るまでの流れを緩やかにするべし。そう考えた我らが定めたのが、不安定な精神生命体である我ら天使の関係を緩やかに取り持つ聖なる教えを、安定した物質生命体である人間たちにも理解できるように改訂して継承させること。だが……)
目の前に拡がる赤い景色、その元である人だったものの数々。
(精神生命体の不安定だった教えは、安定した物質生命体によって変質し、それぞれの意味に受け取られ、それぞれの正しさと神を主張し始めた者たちによって、更なる激しい戦いを産んだだけだった)
そこは……戦場であった。
(これが戦場か)
クレイはこみ上げる吐き気を押さえつつ周囲を見渡す。
こうも凄惨な景色の中にあってさえ、生あるものは戦いをやめずに武器を振るい、次々とその形を変えていく。
その救いようのない戦場の中で生まれていった罪は、生き残った人々に次々と受け継がれ、程なくカルマとなって積み重なっていった。
(我々は再び考えた。ならば我らが直接に人の中に降臨し、正しき教えを伝えていけば良いと。だがその試みは失敗に終わった。既に人間のそれぞれの心に宿り、変質しきった信仰心の前に我々の存在も変革せざるを得なくなり……そして生まれたのが旧神だ)
(なッ!? それじゃあ旧神が先に存在し、その後に宗教が生まれたんじゃなくて、人間たちの教えに従った旧神がその後に生まれたのか!?)
(彼らはその事実を頑なに認めようとしない……と言うより無意識のうちにその可能性を排除している。だがそれも仕方が無いことなのだ。それを認めてしまうことは、精神生命体にとって自らの存在を否定することは、自らを無に帰してしまうことも同然なのだから)
(そう……だったのか……)
クレイが茫然と呟いた瞬間、メタトロンが自虐的な溜息をつく。
(と、言うことに我々の資料ではなっている)
(オイ)
(君が怒るのも当然かもしれんが、我とて天地開闢の頃より存在しているわけではない。最初の天使であるルシフェルやミカエルですらそうだ。すべてを御存じであるのは、遥か至高の極みにあって我々を見守ってくださっている主のみ)
(そっか……ん? あれお前かメタトロン?)
やや残念そうに同意を返した時、視界の端に見覚えのある無数の羽根が拡がっていることにクレイは気付く。
(そう、我がフラム=フォレという術を初めて使った戦場だ)
そうメタトロンが言った途端、巨大な炎の渦巻きが天を衝いた。
(人が……巻き上げられていく……)
何を言っても、何をやっても止められない過去の悲劇。
頭では分かっていても、クレイは何かに怒りをぶつけたい衝動に駆られ、それを両手を握りしめることで必死に耐え抜いた。
(幸いながら人に降臨した天使のうち、最初のヒトとしてエデンより巣立って行ったアダムに近しい人間に降りたものは、僅かながらに残った主の慈悲の涙によって自我を保つことができた。そして正しい教えを広めようとしたが……結末はほぼ流血を伴うものとなった)
そして再び場面は入れ替わり。
(また物質界へ行かれるのですか? メタトロン)
(ああ、それが我の役目だからな。それを聞くお前も、今回から本格的にお役目に加わるのだろう? サンダルフォン)
新しく目の前に広がった光景、二人の天使が話す姿を見たクレイは激しい郷愁感を覚え、胸を押さえつけてしまっていた。