第137話 運命の歯車!
「さて、問題は解決したみたいやし、ワシもヴィネットゥーリアで束の間の休暇を楽しむかの」
メルクリウスが見えなくなった後、ユーピテルがそう言って首を左右に振ってゴキゴキと鳴らすと、たちまちクレイはジト目となる。
「……ヘーラーさんに怒られるようなことはしないよね?」
「怒られなければええんやろ?」
ニンマリとするユーピテルに、クレイは何もかもを諦めざるを得ないといったように両手を上げた。
「そういうことにしとく。ちなみに数年前にこの町を大規模な高潮が襲ったらしいけど、それに二人が関係してるってことはない?」
「ああ、そっちはポセイドーンの方やな。この近くにポセイドーンに支払う報酬を踏み倒したアホがおったらしくての。津波で懲らしめてやったら、対岸で戻ってきた波が想定より多かったみたいや」
「……それってそんな平然とした態度でいう内容?」
ユーピテルのあっけらかんとした態度に、クレイは言いようのない怒りを覚えて詰め寄る。
しかしユーピテルはそれを咎めもせず、慈しみの目をクレイに向けた。
「それが神っちゅうもんや。昔からそうやって神罰を下し、人間たちが悪さをしすぎんようにタガをはめてきた。その最たるもんが……お前らの聖典にもあるノアの箱舟なんやで」
その昔、堕落した人のみならず、地上に住むほぼすべての動物を流し尽くしたと言われるほどの大洪水。
助かったのは箱舟に乗った一握りの人間と動物だけだったという、未曽有の天罰の話を聞かされたクレイは何の反論も出来なくなってしまう。
それを見たバアル=ゼブルは、所在なさげに視線をクレイとユーピテルの間を往復させた後、口をへの字に曲げてクレイの肩を叩いた。
[ま、気にすんなよクレイ。つーかお前、俺がさっき言ったこともう忘れちまったのか? 塞翁が馬の故事には、物事を一つの視点だけから見るなって意味も含まれてんだからな]
「うん……あ、そうだ」
[あん? なんだよ落ち込んでると思ったらいきなり目を輝かせやがって]
バアル=ゼブルはいきなり距離を詰めてきたクレイにたじろぎ、思わず後ずさってしまうが、それに構わずさらに距離を詰めてきたクレイに閉口し、何を聞きたいのか尋ねる。
「サリムが神に近い存在になったってガビーから聞いたんだけど、具体的には人間とどう違うのかなって思ってさ」
[ん? あー……そいつに関してはちっと説明が難しいな……おーいユーピテル、あんた適当な言葉を持ってないか?]
「何やねん、ウガリットの主神ともあろうモンが情けない。まぁええわ」
と言いつつ、ユーピテルも数十秒ほど考え込んだ後、ようやくまとまったとばかりに握った右手を左の手の平に軽く打ち付けた。
「一番わかりやすいのが移動やな」
「移動?」
「そや。移動に必要なモンが何か分かるかクレイ」
「え? えー……? 歩いたり、走ったり、飛んだり?」
クレイが必死にひねり出した答えを聞いたユーピテルは満足げに頷く。
「それらは力やな。まぁ簡単にいうと、移動には他に必要なモンがある」
「何が必要なの?」
「力、移動先、そして移動を完了させるまでの時間、この三つや。このうち力は物質――存在――と同質のモンで、移動先は空間と言い換えることができる」
「力と存在が同質? 全然意味が分からないんだけど」
首を捻るクレイに、ユーピテルは苦笑する。
「お前を動かすには何が必要や?」
「んーと、力?」
「そう、この物質界では物質を動かすには力がいるし、力は何らかの物質が存在しなければ発生せん。よって力は存在とイコールなんや」
「分かるような分からないような……」
「そしてその物質……つまり色の裏付けとなるのが空。物質界に対する精神界、物理力に対する精神力。色即是空、空即是色ってわけやな」
「力は精神的なものが物質界に作用することによって生まれるってこと?」
クレイの質問に、ユーピテルは首を振る。
「物質が移動しようとすると同時に空にも移動する意思が発生するから、相互作用と言うほうが正しいやろな。そんで最初の話に戻るが、ワシらが移動する時は、力を必要としないし時間を無視することができるんや」
「へ?」
「もちろん受肉して物質界に定着しとる物質の部分はちゃうけどな。こいつはある一定の速度以上にはならんようになっとる」
[厳密に言うと聖天術の展開速度よりちょいと遅いくらいだな。魔術もそうだし、聞いたり見たり触ったりなど、五感に関する情報の伝達も聖天術の速度を超えることは無い。んで聖天術の速度は、大体一秒間でこの大地を七~八周するくらいだ]
ユーピテルの説明をバアル=ゼブルが横から補足し、ユーピテルはその言葉に意味ありげな笑みを返す。
「そこまで突き止めとるとは、さすがは旧神の中でも最速と呼ばれとるバアル=ゼブルと言ったところかい」
[お褒めに預かり光栄だね。それより続きを頼むぜユーピテル]
バアル=ゼブルの笑みに後押しされ、ユーピテルの説明は再開する。
「そう、この物質界では聖天術の速度より早く移動することはでけん。それは物質という檻の中に囚われてしもた力にできる限界やからや。対してワシらの本来の姿、精神体は時間に囚われることなく移動できる」
「つまり?」
「どこに行くにも一瞬……というより、存在ちゅうモンが定まってない」
「へ? 何それ。じゃあ他の神とどうやって区別してるのさ」
「ここに在ってここに在らず。ここに在らずしてここに在る。要は世界のどこにでもいるし、どこにもいないんや。ワシがその昔、銀河のことごとくを焼き尽くしたんも、移動や力の伝達に時間を必要としないからこそ出来る芸当っちゅうことやな」
ユーピテルの説明を聞いたクレイは、首を捻って何とか一つの答えを絞り出す。
「あ、ゴーストみたいな感じになるの? 見えるけど触れないみたいな」
「アホウ、あやふやながらも形があるあんなモンと一緒にすなや」
が、その答えはいたくユーピテルのプライドを傷つけたようであり、頭から怒鳴られたクレイは口を尖らせて反論する。
「えー、だってユーピテルだって形があるじゃん」
「今のワシらの形を作っとるのは魔術と似たようなモンや。ワシらの一部が人間たちの願いによって物質界に吸い寄せられ、共通するイメージやそれを形にした偶像、神名によってこの形態になってしもとるだけや」
「あ、そうなんだ……」
ユーピテルの説明を聞いたクレイは、なんだかエルフやドワーフと似てるな、などの感想を抱き、そのままユーピテルに続きを促す。
「簡単に言うと、物質の質量みたいな取っ掛かりが無いと物質界に力を及ぼすことがでけんちゅうこっちゃな。テコで例えると、ワシらの本体が力点、物質が支点、力の発動箇所が作用点ちゅうところか」
「取っ掛かりか……つまり物質という檻の中……不自由な存在に縛られないと神は何もできない?」
「そういうこっちゃ。何しろこっち側に存在してないんやからな。魔術の場合はその取っ掛かり……力を発生させるだけではなく、力をこっち側に存在、固着させるために言霊が必要になる」
「ふむふむ」
「ちなみにドラゴンやそれより前の時代に神がおらんかったのは、アイツらが自分だけで何もかも完結しとって呼ぶ必要が無かったから……あ、これはアポローンには内緒やで。神の第三世代にあたるアイツには、もうちょい自分で考えさせてから話す予定やからな」
「うーん……ユーピテルの話を総合すると、神になるってことは、この物質界に縛られなくなるってこと?」
「サリムはその概念が分からんから、一歩手前で足踏みしとる状態やな。なんせすべての境界があやふやな精神体の感覚なんぞ、物質界と言う分かりやすい世界に生まれたモンには、とんと縁がないからの」
「なるほどねぇ」
分かったような、分からないような状態は続いているものの、とりあえず分かったような気になったクレイはしみじみと頷く。
[説明は終わったかいお二人さん]
「何とかの。ワシに任せっきりにして楽しおってからに」
[魔族に働かせるんじゃねえよ、死んじまったらどうすんだ]
ユーピテルの渋面を高笑いで跳ね返すバアル=ゼブル。
「とりあえずありがとなバアル=ゼブル。あんたが協力してくれなかったら、サリムが魔族になってしまうかもしれない所だった」
[ああ気にすんな。俺ももう……あんな胸糞悪いモンは二度と見たくないからな……]
「……バアル=ゼブル?」
様子が変わった旧神の顔を見て、クレイは心配そうに声をかける。
それはいつも気ままに吹く風のような旧神にはまったく似合わない感情、後悔や寂しさといったものだからである。
だがそんなクレイの心配そうな視線に気付いたのか、バアル=ゼブルはすぐにニヤリと笑みを浮かべる。
[だからと言って、サンダルフォンの野郎にまで手加減をするつもりはねえけどな。そういやアナト、あの嬢ちゃんはどうしてんだ? まだテスタ村には入り浸ってんだろ?]
[昨日も合間をぬって見に行きましたが、どうもヤツが来たようで村の様子が……ん? どうしたクレイ]
「テスタ……村?」
魔族二人の、どうということは無いはずの世間話。
だがその会話を聞いたクレイは、先ほどのバアル=ゼブルとも比べ物にならないほどの急変を見せていた。
[お、おう。聞いたことねえか? アバドンの災厄の時に一人の少女が吸血鬼になって……]
豹変したクレイの気迫に圧されるかのように、バアル=ゼブルは知っていることを思わず口走る。
だがその説明は最後までされなかった。
「そこまでよ! バアル=ゼブル!」
なぜならガビーがただならぬ意思と表情で、バアル=ゼブルとクレイの間に割って入ったのである。
「テスタ……村……吸血鬼……の少女……アバド……ン……?」
「しっかりしなさいクレイ! 余計なことを考えてはダメよ!」
「クレイ様! 気をしっかりお持ちください!」
しかし既にその時、ガビーとサリムの励ましの声を余所にクレイの顔はどんどん白いものとなっていき。
「ノエル……?」
ついに運命の歯車は、カチリとはまりこんだのだった。