第121話 迫りくる胸囲!
「へ? バアル=ゼブル?」
「ああ、天魔大戦で我々と何度も戦っているあのバアル=ゼブルだ」
得意気に言うエレーヌを見た途端、クレイはガタッと椅子から立ち上がって怒鳴り声を上げる。
「いやそれ最初に言ってよ! フォルセール騎士団の副団長なんだから、報告は結論から先に言うことくらい知ってるよね!?」
「ま、まぁそうなのだが私は昔から報告が苦手というかだな……とりあえず落ち着けクレイ。ジョゼが目を覚ましてしまう」
クレイは寝台の上のジョゼに視線を送り、その寝息が安らかなものであることを確認すると口を尖らせ、エレーヌを恨みがましく見つめる。
「続き!」
「わ、分かった」
エレーヌはクレイの勢いに負けて口を渋々開く。
しかしその口から出てきた言葉は、小さい頃はもっと素直で優しかっただの、私を慕って毎日のように遊びに来ていたのに、などという愚痴ばかりであった。
「あー、えーとごめんねエレーヌ姉。俺も今回の任務があまりに難しい内容だから緊張しちゃって……」
さすがのクレイもしょんぼりとしたエレーヌを見て悪いと思ったのか幾つかの慰めの言葉をかけ、その後にようやく説明は再開された。
「ふーん……奴隷の買い付けにねぇ」
「本当かどうかは不明だが、わざわざ嘘をいう必要も無いからな。お前も王都奪還作戦、ウォール・トゥルゥーの話は聞いたことがあるだろう」
「……直接サリムから聞いてる。城内で働いていた子供たちを魔族が人質にとって、陛下たちを脅すために何人かを……城壁から落としたって」
「……そうだったな」
その落とされた子供の中の一人がサリムであり、それが原因で彼は魔を内に宿すこととなったのだった。
エレーヌは溜息をつき、さらに話を続けるかどうかをクレイの顔を見て決めようとする。
「他に何か喋ってた?」
「ああ、気になることは幾つか口にしていたがどうする? ジョゼは寝てしまったし、お前もそろそろ眠くなる時間では無いのか?」
「天使になってからはそんなに眠くならないんだよ。戦った後とか力を消費した後は別だけどね」
「そうか」
だが心配する必要は無かったようで、エレーヌは微笑むと視線をクレイの顔から床へと落とし、数秒ほどそうした後に口を開いた。
「アナトはどこかにいる人間の少女のことを心配していたようだった」
「アナト……ってルシフェルが復活する前は魔族の中でも最強と言われてた神だよね? そんな神が人間のことを心配するのか」
「正確には魔族に協力している旧神、だな。どうも前回の天魔大戦でその少女と色々あったらしい。王都の封印が解けてから少女の所へ何度か行ってみたが、長い間一人だったせいか、上手く喋れなくなっていて今はその回復に努めていると言っていた」
「……優しい女神様なんだね」
意外な情報を得たクレイは、これからそのような相手と戦うことになるのかと寂しげにつぶやく。
「どうだかな。私がアルバトールと一緒に王都に行った時は、残虐非道で悪辣極まりない性格だったし、アルバトールに会うなりあのような破廉恥なことを……」
「ハレンチ? 何それ初耳なんだけど説明して?」
しかし聞き逃せない情報を耳にしたクレイは、しまったという表情になったエレーヌを逃さないとばかりに上体をガバっと前に倒し、鼻先が触れ合う寸前という所まで顔を近づける。
「んんッ! 話を続けるぞクレイ!」
「えー何それつまんない……やっぱり面白くないよこの話」
「お、面白いとか面白くないとかの話では無いッ! 続きだ続き!」
エレーヌは耳を真っ赤にしながらも再び口を開く。
しかし今度の内容はクレイにとってやや衝撃的なものであり、にわかには信じられないものだった。
「あのバアル=ゼブルがその少女を殺すって言ったの? 何だか信じられない話だなぁ」
お気楽そのもの――いざ殺し合いになった時以外――であるバアル=ゼブルの顔をクレイは思い出し、戦いの最中でもすぐに他の出来事にうつつを抜かす移り気な性格を思い出して頭を捻る。
「だが間違いなく言った。エルフの血を色濃く引いている私の聴力は、魔術を使わなくても人間より遥かに小さい音でも捉えるし、何よりそのバアル=ゼブルの話を聞いたアナトの表情は浮かないものだったからな」
「そっか。その理由は聞こえたの?」
「いや、理由までは口にしていない。だが奴がそこまで執拗に命を狙う存在に、私は心当たりがある」
「存在?」
少女は人間だったはずである。
だがエレーヌの口からは存在という言葉で説明されており、それは少女が明らかに人間ではないことを示していた。
「天使サンダルフォン。言霊の扱いでは天使の中でも抜きんでた存在であり、お前の中にいるメタトロンとは対を成す天使らしい」
「天使の王メタトロンと……!?」
メタトロンの反応は無い。
また寝ているのかとも思ったが、この前のラドゥリエルへの報告時にメタトロンが狸寝入りをしていたことが発覚して以来、クレイのメタトロンへの信用はかなりの失墜を見せている。
もしメタトロンが詳しい事情を知っており、都合が悪いゆえにクレイの呼びかけに反応していないというのであれば……?
(……無理強いするのは良くないか)
クレイは溜息をつくと、心配そうに自分の顔を覗き込んでくるエレーヌに愛想笑いを浮かべて誤魔化し、メタトロンがこれまでクレイにとってきた態度を思い出す。
(俺がまだ子供だから、力不足だから重荷を背負わせたくない。そうだよなメタトロン)
その中には明らかにクレイを気遣い、敢えて教えない情報があることを匂わせるものが多々あったのだ。
(無理をするなって言われても、そういう態度をとられると無茶したくなっちゃうんだけどな。まぁいいや……ん? 何だろ)
そんなことを考えていたクレイは、エレーヌが何か話しかけてきていることに気付き、慌てて生返事を返す。
「では明日の正午にダイリデスの店でな」
「あ、うん……え? ジョゼは?」
「もちろんジョゼの分の席も取ってある。ジョゼも久しぶりにイリ……ダイリデスの料理を食べたいだろう。あいつが自分の店を持っていることもあるが、仮宮の料理はほぼベルトラムが仕切っているからな」
「そうだね。ゲストとして呼ぶ機会もあまり無いし、たまにはいいかも」
「午前はフランキ元首との会談のはずだから、そこで昼食をとってから出発としよう。なに心配することは無い。奴とアルバトールは共に晩餐会に出たこともあるくらいだし、むやみに戦いを挑んできたりはしないさ」
「そうだね(奴って誰だろ?)」
次の日の正午。
「……あれ?」
「待たせてすまんな」
[おう気にすんな。約束通りお前さんはクレイの横の席で、アナトは挟んで反対側に座ってくれ。ジョゼって子は王族だからそっちの隣のテーブル。サリムってのはどいつだ? そいつはジョゼ嬢ちゃんの護衛だ。そっちの獣人は俺の隣な。フィーナとお付きの兄ちゃんは余った席に座ってくれ]
「え? 約束通りって?」
「えーと……私こう見えても女なのですが……」
「話は後だクレイ、ディルドレッド」
[そなたが新しい宿り主か。なるほどなかなかに良い魂を持っている]
「わ! この方がバアル=ゼブルお兄様とアスタロトお姉様が仰ってたアナト様ですか!? お話通りとっても綺麗……」
何となくエレーヌに話を合わせ、何となく返事をしたクレイが、あらぬ視線をアナトに送っているフィーナを何となく生温かい目で見る。
(何だこれ。何で旧神バアル=ゼブルがここにいるんだ?)
そんなクレイが昨晩バアル=ゼブルとの昼食を快諾したという事実を把握したのは、隣の席のアナトに横から抱きつかれてからである。
「何で?」
[ここまで来て何でと言うことはあるまい。我らとの昼食を提案したのはそちらではないか]
エジプトからもたらされたという古代ギリシャの服装、長い布を巻きつけただけに見える、露出がやや高めのキトンと呼ばれる服に身を包んだ美しい女性――女神アナトは、背中から流れてくる長く艶のある黒髪を押さえようともせず、クレイの腕にぎゅうぎゅうと豊かな胸を押し付ける。
そのアナトの威圧にたじたじとなったクレイは、反対側に座っているエレーヌへ助けを求めるように体を向けた。
「いや、そうなんだけど……え? そうなのエレーヌ姉?」
「何を言っている、お前も昨晩了承していたではないか。それとも寝ぼけて返事をしていたのか?」
「うん何となくそんな気はしてたけどさ……、でも二人に両腕をとられてたら昼食がとれないんだけど。そもそも何で一つのテーブルにこんなにギチギチ詰め込んでるの? ダイリデスさーん……ダイリデスさーん!?」
アナトに対抗でもしているのか、ぐいぐい胸を押し付けてくるエレーヌは役に立たない(いつものように)と考えたクレイは、隙間なく埋められたテーブルの周囲を見渡すと、唯一この状況を解決できると思われる厨房のダイリデスへ助けを求める。
「どうなされたのですかクレイ様」
「いや、どう見てもテーブル狭いでしょ?」
クレイはそう言うと、目の前の丸いテーブルである円卓を、ガッチリ極められている右手で指差した。
「と言われても、エレーヌ様からこうするように、との要望が」
「何それええええ!?」
しかしダイリデスの証言によると、エレーヌは役に立たないどころか今回の状況を作り出した本人だったようである。
(いや……あの考えなしのエレーヌ姉に限ってそれは無い! つまりこの回りくどい状況を作り出せるのは……直前に逃亡したメルクリウスか!)
割とひどいことを考え付くクレイ。
しかし彼の推察は、この場合的を外していた。
[ほーお前さんイユニって言うのか。もそっと俺に近づいてもいいぞ]
「あ、あのー……流石に神であらせられるバアル=ゼブル様に私のような卑しいルー・ガルーが密着するのは……」
[苦しゅうない苦しゅうない。せっかくこのテーブルにするようにしたんだからもう少し俺に体を預けてもいいぞグヘヘ]
「……何してんのバアル=ゼブル」
[楽しんでる以外の何物でもないが?]
「……」
どうやらこのセッティングをしたのはバアル=ゼブルのようだった。
鼻の下を伸ばし、腑抜けた顔をしている魔族の№2を見たクレイは、窓際に置いてある角テーブルを指差してバアル=ゼブルを睨み付ける。
「というか何で円卓なのさ。向こうの角テーブルでもいいじゃん」
[あん? 分からねえのかクレイ]
「まだ子供だから分からないことはいっぱいあるよ」
天使と敵対しているはずの魔族の彼が、やけに馴れ馴れしい口調で答えてきたことが気に入らないのかクレイは反抗的な態度を示すが、バアル=ゼブルは一向に気にした様子もなく軽く肩をすくめて両手を上げる。
「はわっ!?」
[おっとわりいわりい、狭いから手が触っちまったみたいだなゲヘヘ]
その際にイユニの乳房を持ち上げてしまったバアル=ゼブルは軽く手を揺さぶった後に謝罪をし、円卓にトントンと指を軽く打ち付けて答えた。
[円卓ってのは四辺に人を区分けしないから、こういった無礼講の席には向いてるってことよ。角に座りにくい角テーブルと違って人数も詰め込みやすいから、テーブルのチャージ料も節約できるしな]
「けち臭いなぁ」
クレイはバアル=ゼブルにぶすっとした表情を作ると、怯えた顔でバアル=ゼブルとアナトを交互に見るイユニの身を案じた。
ゆったりとしたローブを今まで着ていたため分からなかったが、イユニは割と豊満な肉体を持っている。
バアル=ゼブルはそのイユリを隣に置き、更にテーブルに合わぬ人数を座らせることで、合法的に自分と密着する状況を作り出したのだろう。
(神だというのに何という俗物……うーん? でも皆こんな感じか)
クレイは目の前のゲス神、バアル=ゼブルの格付けを下げる。
しかしむしろ潔癖、高潔と言った神などいないと断言できるほど周囲の旧神たちが女性に対して貪欲、つまり欲望に忠実なことに思いをきたした彼は、そのランクダウンを保留にした。
(あのルーさんですら王妃様の母親一筋だったって言うし……それにしても神様って妙に人間っぽいよな。何だかよく分からない存在……存在という言葉で表せるかどうか分からない主は別として)
神とは何なのか。
人のルーツが何なのかを疑問に感じているアポローンと同じように、神のルーツが何なのかを疑問に思ったクレイを柔らかい現実が襲う。
[どうしたのだボウヤ。まるで食事が進んでいないようだが]
「お姉さんが綺麗だから緊張しちゃって」
再び腕に押し付けられたアナトの乳房にもクレイは少しも動じることなく答え、その態度を見たアナトは感心したようにまばたきをした。
[ほう……このアナトに迫られてまるで動揺せぬその鋼の精神、内に秘めた力、どれをとってもあのアルバトールを思い出すいいボウヤだ]
「ありがと」
クレイは答えると、間近に迫った女神アナトの顔をじっと見つめる。
「……お姉さん、俺と前に会ったことがない?」
そして次にクレイが口にした言葉に、周囲はシンと静まったのだった。