第119話 マルトゥはいずこに!
クレイが馬車に戻ろうとしていた時。
≪いきなり連絡を寄越すなんて、どうしたんだいヘルメース≫
≪問題が発生した≫
近くにある林の中で、ヘルメースは念話による臨時報告をアポローンに行っていた。
≪しかし君が解決できない問題なのだろう? 私に相談されても、うまく助言できるかどうか≫
困惑したように答えるアポローンだったが、それに答えるヘルメースの声も珍しく困惑したものだった。
≪どうも僕以外にもメルクリウスがいるようなのだ≫
≪……ふむ? もう少し詳しく説明してくれないかヘルメース≫
ヘルメースから幾つかの疑問や疑惑がアポローンに送られ、それらを受け取ったアポローンの頭に一人の旧神の名が浮かぶ。
≪君にそっくりな旧神を私は一人知っている≫
≪あの男か≫
≪そうあの男……ん? 君もバアル=ゼブルに会ったことがあるのかい?≫
≪会ったことは無いが、僕にそっくりと言うだけで十分ではないか?≫
≪同感だ。君と同様、面白い男だよあれは≫
送られてきた念話の内容に、アポローンの人の悪そうな笑顔を思い浮かべたヘルメースは、軽く肩をすくめて返事を返す。
≪今回の件も僕に被害があるわけではない。むしろ僕の名声を上げるものではあるのだが……自分でやった訳でもない功績で誇るのは、僕の自尊心に関わるな。更に上書きするような何かを残さねば≫
≪旧神ヘルメースの名に懸けて、かい?≫
≪そういうことだ。それではクレイが僕を探しているようだから、今回の連絡はここまでとしよう≫
≪分かった≫
≪それと君が時々思い悩む人間の正体についてだが、この旅で少しでも分かるように探りを入れておく。フォルセールでは周囲にいる天使たちの目があるからな≫
≪では頼むよヘルメース。カイレ≫
≪カイレ≫
ヘルメースは念話を切ると、すぐ近くまで来ているクレイの探索の目の数々から素早く逃れる。
(いや、これはメタトロンの眼……だな)
世界の奈辺を見通し、余人の思惑を見抜くと言われるメタトロンの眼。
旧神の中でも屈指の速度をもつはずの自分を、あっさりと捉えかねないその眼の能力にヘルメースは舌を巻いた。
(使いこなせているなら良し、だが使わせてもらっているだけなら……)
自分がどこにいくか伝えておらず、またクレイがいる場所より離れてからそれほど時間が経っていないと言うのに、すでに詳細な位置を把握したと言わんばかりに執拗に追いかけてくる眼にヘルメースは閉口し、彼に与えられた翼付きのサンダルと共に全力でその場を離れた。
しばらく後。
「あ、やっと戻ってきた。お前どこ行ってたんだよヘルメース」
「何度も言っているが僕はゼウスの伝令役でもある。君に協力をするとは言ったが、それは僕の仕事を放棄することまで含んでいない」
「分かった。今度からは誰かに一言言ってからにしてくれ」
「そうしよう」
平然と答えるヘルメースを見たクレイは不機嫌そうに頬を膨らませ、そして何かが足りないと言うように周囲を見渡す。
「アルテミスは?」
「君たちと一緒ではないのか?」
「え、何やってんだよ……出発の時間はもう過ぎてるのに」
肩を落とすクレイを見たヘルメースは、姉でもある狩猟の女神の気ままな性格を思い出して苦笑する。
「魔族がフォルセールに侵攻してきた時、領境の森で彼女の猟犬がひどい目に遭ったという件に関係があるかもしれない。僕が探してくるから、君たちは先に出発していてくれ」
「頼む。ヘルメースたちの同行は協力であって強制では無いけど、共同の旅ではあるんだからな」
「言っておこう。それと僕たちだけの時はいいが……」
「メルクリウスとディアーナ。悪かったよメルクリウス」
「誰にでも間違いはあるものだ。それでは行ってくる」
メルクリウスがそう言って軽く地面を蹴ると、彼の姿はたちまち霞のように消え、次の瞬間には遥か彼方へと跳躍した後ろ姿があった。
「……なるほど、あれじゃメタトロンの眼でも見つけ出すのは難しいな」
その姿を見たクレイは、メルクリウス――ヘルメース――という男が神であると改めて認識し直すのだった。
その日の夕刻。
ヴェラーバ共和国の首都、ヴェラーバの郊外でクレイとメルクリウスたちは再合流していた。
「随分と見つけるのに手こずったんだなメルクリウス」
「まさかオリュンポス山まで戻っているとは思わなかった。ヘーラーからの連絡が無ければ、見つけるのに後三日はかかっていたところだ」
そう言うとメルクリウスは、さめた目で地面を見下ろす。
そこには縄でぐるぐる巻きにされたディアーナが転がされており、それでも動きを止めずに芋虫のようにじたばたともがいていた。
「あたしの縄をほどけよメルクリウス! 黙ってたことは謝るからさ!」
「縛った方が持ちやすかっただけだし、確かに合流した後も君を縛っておく必要は無いな」
ディアーナの苦情をメルクリウスはすぐに聞き入れ、それほど複雑に見えない結び目をあっさりと解いて解放する。
「あたしでもほどけない結び目なんてよく作れるな」
「僕は盗賊の神でもあるからな。初手を間違えば容易に解けなくなる結び目くらいは用意してある」
痛々しい縄の後が残る両手首をディアーナは軽くさすり、脇に転がる荒縄を恨めし気に見る。
「今度から出かける時はちゃんと言ってくれよなアル……ディアーナ。何かのトラブルに巻き込まれてたらシャレにならないんだからさ」
「お前に言わずにオリュンポス山に戻ったのは悪かったよクレイ。でも帰ったのにはちゃんとした理由があるんだぜ?」
「理由ってどんな?」
「おう! 実はカリストーをこっちに連れてきて、マルトゥって奴の探索をさせようと思ったんだ!」
「おお! あの大熊座の伝説をもつカリストーさん!?」
かつてアルテミスの従者であり、絶世の美女であったカリストー。
当然のようにゼウスに口説かれてしまい、それに怒ったヘーラーがゼウスに呪いをかけようとするも弾かれ、弾かれた呪いによって大熊に変えられたというのがセテルニウスでのカリストーである。
ゼウスに口説かれた際にあれやこれやとあったので、それが原因で処女神であるアルテミスに追放されたのだが、時間が二人の仲を解決してくれたようだった。
「おう! お前も知っての通り、熊の鼻は犬より数倍いいからな! カリストーの鼻を借りればすぐに見つかるさ!」
「おお! さすが狩猟の女神アルテミス!」
クレイは胸に湧き出でた喜びを素直に表情に出し、突き上げた両手をぐっと握りしめる。
せっかく巡り合えた獣人の親子とすぐに離れるのは少し寂しいが、それでも親子の願いがすぐに叶うことに比べれば些細な問題であった。
「それでカリストーさんはどこにいるの!?」
加えて絶世の美女とも呼ばれるカリストーに会えるのだ。
現代の年齢で言えばまだ中学生の男の子であるクレイは、執拗に迫ってくるティアちゃんは別としてそれなりに女性への興味があり、そして憧れもあった。
「おう! あっちだ!」
ディアーナが東にある森を指差す。
「あっち!? あ、分かった熊が人里近くに現れたら皆怖がるし姿を隠してるんだね!」
「おう! 実は重くて持ってこれなかった!」
「意味ねえ! あっちって森の中じゃなくてオリュンポス山かよ!」
「おう! お、おう……ごめんあたしが悪かったから怒らないでくれる?」
クレイの顔を見てちょっと涙ぐむディアーナ。
よほど怖かったのか、少し半身になって逃げだそうとする彼女をメルクリウスが背後に庇い、何があったのかと近寄ってくるジョゼたちからディアーナを隠す。
「心配するなクレイ。既に手は打ってある」
「本当か?」
「徒歩で来いと言ったから一週間もあれば着くはずだ」
「ふざけんな一週間もたった後ならもうヴィネットゥーリアにジョゼたちが着いてるだろ!」
クレイは頭を抱え、恨めし気にメルクリウスとディアーナを見つめる。
しかし二人は好意でこの旅に同行してくれ、好意で協力の手段を求めにはるばるオリュンポス山まで行ってくれたのだ。
決してクレイを怒らせるため、わざわざピントを外した行動をしているわけではない……はずである。
「……でも、二人がイユニさんたちのために動いてくれたことには感謝するよ。ありがとう」
そしてそう考えたクレイが礼を言うと、途端にディアーナが胸を張る。
「おう気にすんな! ルー・ガルーと言えば狩猟の女神であり、月の女神でもあるこのディアーナとまったくの無縁って訳じゃ無いからな! うまく行けば息子と合わせて三人も眷族が増える!」
「なんだって?」
「だから……お、おう? なんか凄い迫力だなクレイ。どこか昔のアルバを思い出して怖いからやめろください」
「威圧でここまでディアーナを怯えさせるとは、大した成長だなクレイ」
どうやらクレイは、フィーナたちを招いた晩餐会の次の日に執り行われた昇格の儀式で子の位階である能天使になったことで、自分でも知らないうちに潜在能力が上がってしまったようである。
「眷族にするなとは言わないけど、した場合はそれなりの見返りを貰うからねディアーナ」
「え、マジかよあいつら行くアテが無いんじゃなかったっけ」
「それとこれとは別だろ。イユニさんたちからディアーナを頼りにしたいって言えば別だろうけど、あの控えめな性格じゃ見込めないだろうね」
「おう分かった! んじゃ早速……」
「提案と言う名の脅しをしたらこの前のガビーの数倍殴る」
「お、おう……分かったから怖い顔やめて」
こうしてクレイたちはヴェラーバの町へと入っていった。
「おもてなし感謝いたしますフランキ元首」
「礼など無用ですジョゼフィーヌ王女。我々は主にメルクリウス様とディアーナ様をもてなしているだけですからな」
「それなら晩餐会の費用も出しやすい、ですか?」
「まだお若いながらなかなかに鋭い……何はともあれ、聖テイレシア王国とヴェラーバ共和国の未来に乾杯!」
ヴェラーバの町に入ったクレイたちが向かったのは、この国を治めている元首の下だった。
元首はいくつかの名門貴族から選挙で選ばれることとなっており、今の元首も一般市民を加えた選挙で選出されている。
しかし水面下での争いが激しく、時に行方不明と言う殺人まで発生する有様であり、選挙制度の屋台骨が揺らぎ始めているとの噂もあった。
(一つの家で代々受け継がれる王制でも清廉な名君が産まれ、多くの市民が選ぶ元首でも腐敗は生まれるのか……よく分かんないな)
晩餐会に同席したクレイはそんなことを考えると、ジョゼとフランキの会話の途切れめを狙って口を開く。
「ところでフランキ元首、一つ質問があるのですが」
「何でしょう天使様」
「こちらの町で取り扱っている奴隷について調べたいのですが」
「ほう……それはまた面妖な。確か聖テイレシア王国では、奴隷の保持は表向き認めていなかったと記憶しておりますが」
途端にそれまでご機嫌な様子であったフランキの目がぎらりと鋭く光り、放たれた質問の値踏みを行うかのようにクレイの顔を見つめた。
「先の天魔大戦で私掠船の制度を大々的に法整備したと聞いておりますが、獣人の奴隷も認めるようになったのですかな?」
「認めてはいません。ですがすべてを否定しても何も始まりません。貴国が奴隷商人たちの情報を得るために合法化したのと同じように、まずは奴隷と言う制度を知ることから俺……私の改革を始めようかと」
「なるほど。確かに我が国は奴隷の取引量、取引ルートなどが分かるように合法化しましたが……それは対外的には秘密であったはず」
フランキは素知らぬ顔で同席しているメルクリウスの顔を睨み付ける。
「推察することまで僕は禁じていない」
「承知しましたメルクリウス様」
フランキは警戒心を露わにした顔を、やや緊張感で満たしたものに変えてクレイへと視線を戻す。
「マルトゥというルー・ガルーを探しております。その獣人が知人と何やら顔見知りと聞いたもので」
「マルトゥですと!?」
そしてクレイの口からマルトゥという名前を聞いた途端、フランキは警戒心を猜疑心と変え、クレイが何を考えているかを探るべくじっと睨み付け始めていた。