第110話 善意の裏には!
「師匠?」
アポローンの沈黙にクレイが耐えきれず、質問の先を促す。
するとアポローンは軽く首を振り、まだ駆け引きと言うものに慣れていない愛弟子を優しく見つめた。
「発想を変えるのさ。結界がこの世界の法則を強めるものなら、他の世界に接続して聖霊の影響を弱めればいい。ただし君が使うには、ちょっとした契約が必要だ」
「契約?」
他の世界と言う言葉も気になったが、とりあえずクレイは今の会話を進めるためのキーワードを優先して質問する。
「冥界を治めるハーデースとの契約さ。人や生き物が死ねば別世界、つまり冥界へと赴くことになる。その世界を治めるハーデースと契約すれば、君も結界を吹き飛ばせるようになる」
「う~ん……」
クレイは考え込む。
「心配することは無い。ハーデースは寂しがり屋だから、君の時間が空いた時に少し話し相手になるというだけの契約さ。今回の旅先で体験したことをちょっと話したりするだけでいい」
「う~ん……それはいいんだけど……」
クレイは悩む。
「ふむ」
悩んでいる内容は、先ほどアポローンが言ったこととは別のものなのだが、それでも悩む愛弟子を見たアポローンは何らかの手ごたえを感じたのか、結論を先延ばしにした。
「何、それほど急ぐ必要は無いさ。実は他にも方法はあってね、結界を吹き飛ばさなくても結界を聖霊に解除させればいいだけの話だ」
「そっちを先に教えてよ!」
「ああ、ハーデースが寂しがっているのも事実なのでね。彼の妻であるペルセポネーが冥界に居るのは冬だけだから、離れたばかりの今が一番不安定な時なのさ」
悪びれずに答えるアポローンに、クレイはしかめっ面になった後に我知らず呟く。
「冥界か……人が死んだら聖霊の一部になるか天国に昇るって俺たちの教えとは全然違うんだね」
「うむ? だがそのサイクルの途中に冥界が挟まったとしても不思議ではなくはないかな? すべてを自分たちの教えの中のみで完結させるのは、少し節度に欠ける行為だよクレイ」
「なるほど」
何気なく言ったアポローンの一言にクレイはすぐに頷く。
あまりに素直なその反応を見たアポローンは思わず苦笑してしまい、だがすぐに彼には珍しく深刻な表情になって少しの間だけ考え込んだ後、遠い過去を見るような眼で夕焼けが広がる空を見た。
「そう、我らと比するべくもないほどに短命で無力な人間たち。だがその人間の信仰心が、なぜ我らのような存在に力を与えるのか? それも君に聞きたいことの一つではあるが、何もかも一度に聞いてしまうのは節操が無い。先に結界の解除を教えておくこととしよう」
「お願いします師匠!」
「いい返事だ。それでは結界を張った者の解析から教えることとしよう」
そして数分と言う短い時間に見えた訓練は終了し、クレイはその短い時間に見合わない疲労を表に出しながら、アポローンと一緒に戻っていく。
アポローンやヘルメースたちに割り当てられた家の中からは、すでに夕食と思われる豊かな香りが漂ってきており、クレイは思わず生唾を飲み込みながら家の中に入っていった。
「いい匂いだな。サリムが作ったの?」
「はい。と言いたい所ですが、実はジョゼ様に手伝っていただきました」
「へぇ……」
家の中には、芳醇な香りを放つ鹿肉の煮込み香草添えが待っていた。
他にも春先に採ったと見られる山菜の盛り合わせ、そしてデザートとしてブラッドオレンジなどが食卓に並んでおり、フォルセールでの食事に品数はかなわないまでも、クレイが見た限りでは質の方はまったく劣っていないものだった。
「……これは酸っぱくないわよね?」
「いや俺に聞くなよフィーナ」
そしてその手前には、慎重な顔であごに手を当て、オレンジを見下ろすフィーナ。
「だーいじょうぶ! このオレンジはアルテミスが準備してくれたものだから心配しなくていいわよフィーナ!」
「何でお前がここに居るんだよガビー! 教会の仕事はどうした!?」
そして料理の匂いに釣られておびき出されたガビーがいた。
「何言ってんのよ! アンタのお目付け役のアタシに断りなく国外に出ようだなんて十億万年早いのよ!」
「十億年も待ってたら誰も生き残ってないだろ」
「十億万年よ十億万年! 十億年とは格が違うのよ格が!」
そして意味の無い抗弁をするガビーにクレイは鋭い目つきを向け。
「なるほど。だがお前のその侮辱に対して十億年さんが怒ってるから、俺は今から十億年さんの代わりにお前をしこたま殴る」
「え」
ガビーをしこたま殴って食事をした。
「ううひどい……何でクレイを心配してこっそり着いてきてあげたアタシがこんな目に遭わなきゃならないの……」
「俺も殴りたくなかったんだけど、十億年さんを侮辱するお前を見たら俺の拳に燃える怒りが宿って抑えられなかったんだすまない」
その後、ガビーを庇うフィーナたちに気を使ったクレイは、ガビーと仲直りをしようとしていた。
「あ、あそ……てっきりアンタとセファールの店で会った時、アタシって気づかなかったことを根に持ってるのかと思ったわ。フィーナに聞いたけど、アタシの真の姿にアンタ見とれて呆けてたそうじゃない」
「じゃあその怒りを上乗せした分を今から殴ろう」
クレイの言葉にガビーがサッと顔を青ざめさせると同時に、二人の少女が間に割って入る。
「もーやめてあげなさいよねクレイ。ガビーが怖がってるじゃない」
「今のクレイ兄様は少し変です。何でそんなに怒ってるんですか?」
「積年の恨みを晴らしてるだけなんだけど……と言うのは冗談で、ガビーの軽率な行動と発言が今回の任務に影響しないかなって思っただけ。できれば今からフォルセールに戻って欲しいくらいだよ」
クレイは溜息をつき、そして軽く首を振る。
「分かってるよモリガンさん。既に見えている脅威より未だ見えない脅威に備えろってことだろ」
そして虚空に独り言をつぶやくと、怯えているガビーにそっと手を差し出した。
「モリガンさんが、テイレシアの国力回復の任務に向かうなら、魔族の妨害があることも当然考慮しておきなさい、だってさ。後ガビーは私の大切な友達だから大事にするように、って怒られちゃったよ。それじゃよろしく頼むぞ」
「もーしょうがないなー。クレイがそこまで頼むんだったらお願いされなくも無いかなーなんてエヘヘ」
するとガビーはすぐに復活し、クレイの手を取ってはにかむ。
その姿を見たクレイはガビーの耳に口を寄せると、時々でいいから元の姿に戻るように頼み込むのだった。
その頃、すっかり闇に包まれた家の外では。
「若い者たちは賑やかでいいですね」
「フッ、我々の中でもひときわ若く賑やかな君が言うと説得力があるな」
「茶化すのはやめてくださいヘルメース。これでも昔よりはよほど酒を控えるようにしているのですから」
「さて二人とも、話があるというのは他でもない。クレイのことだ」
賑やかな家の中とは対照的に、三人の旧神が密談を行っていた。
「私としては今のクレイの力に関しては申し分ないと判断する。しかしそれは今の彼に問題が無いと言うことまでは表さない」
アポローンはそう言った後、他の二人の旧神の顔を覗き込む。
「もったいぶるのはよしたほうがいいアポローン。クレイと僕たちは明日この村を発つのだからな。そしてクレイの問題点に関してだが、僕とディオニューソスは既に話をしている。後は君とすり合わせをするだけだ」
「クレイは素直でいい子だ」
「僕もそれは同感だ」
「私もです。世間知らずと言って差し支えないかと」
三人はそこでお互いに顔を見つめ、軽く首肯する。
「先ほど私は結界の解除と言う餌でクレイを釣ろうとした。結果的にハーデースの面倒を見させることは出来なかったが、どうやらそれは偶然に過ぎなかったようだ」
「善意には善意、悪意には悪意。だが善意の裏に隠された悪意に対処するにはまだ経験不足。僕もその辺りは以前から気になっていた」
ヘルメースの意見にアポローンは微笑んで首を振る。
「君といういい見本がありながら、か」
「まったくだ。反面教師にはしているようだがね」
「トール家の血筋に連なっているわけでもないのに、やはり人は育つ環境によって影響されるということでしょうか
ディオニューソスはそう言うと、不思議そうな顔で他の二人を見た。
「しかし今のクレイは曼荼羅という不可思議な術を使い、自らの内に助言をしてくれる天使や旧神を宿しているはず。それらの存在に頼ればいいような気もするのですが」
「今のクレイの曼荼羅には力を使い果たした、あるいは憔悴した存在しか入っていないらしい。モリガンは健在のようだが、彼女の性格ではクレイと同じく人の裏に隠された顔を見抜くことはできないだろう」
ヘルメースが両手を上げてそう言うと、ディオニューソスが背中に手を回し、一本の瓶に入ったワインを持ってテーブル代わりの切り株の上に無造作に置く。
「お二人に頼まれていた品です。過去十年で最高と言われた去年のものを上回る出来栄えですよ」
「ほう」
「味見をしても?」
「ダメです」
アポローンの質問をディオニューソスは柔らかな笑顔で遮ると、緑一色に包まれたヘルメースを見る。
「本当に一本だけで良かったのですか? ヘルメース」
「だからこそ人の醜い面が見られる」
「なるほど」
ディオニューソスはヘルメースの短い説明ですべてを察し、十年ほど前から教会に貢いでいるワインの行き先、欲望と言うラベルが貼られたワインセラーを頭の中に思い浮かべ、げんなりとする。
「今回はクレイのお披露目を兼ねてカリストア教の総本山、カリストア教皇領にある聖ヴァティーナス大聖堂にも行くらしい。このワインをクレイが十人評議会と教皇に対してどう使うか、どちらに渡すのか見ものだな」
「まったくお人が悪い」
「我が弟ながらまったくの同感だよ」
ディオニューソスとアポローンの辛辣な意見にもヘルメースは顔色一つ変えず、切り株の上からワインを持ちあげておがくずを敷き詰めた木箱の中に慎重に据え付ける。
「ワインは生き物、だったかな? ディオニューソス」
「私が作ったワインはそうヤワではありませんよ」
ヘルメースに苦笑するディオニューソス。
そして話がまとまったと見たアポローンが、解散を宣言した。
「善意の裏に悪意を隠している者たちの対処。人の善意を利用する悪意に満ちている者たちへの処断。それをクレイに学ばせることを今回の我々の課題としよう。それでは解散」
そして三人は家の中へと戻っていった。