第108話 信じるということ!
その日の正午過ぎ。
クレイの紹介状を持った、一人の美しい元魔族の女性が国王に謁見を求め、即座に執務室に通されていた。
「本当によろしいのですかなセファール殿?」
[はい。陛下とベルナール様がお望みとあらば、のお話ですが……]
「こちらとしては願ったり叶ったりの話だ。だがどうして急にそのような申し出を?」
[クレイ様に色々とお教えいただきまして]
「ふむ」「ほう」
執務を手伝わせてもらいたい。
そう言って訪ねてきたセファールを見たシルヴェールとベルナールは、その真意をうかがうべく修道服を着たセファールの美しい顔を見つめ、すぐに二人は諦めたような、あるいは疑った自分自身を恥じ入るような溜息をついた。
「お時間はいつ取れますかな?」
[必要であれば今すぐにでも。最近はお店の方も手持無沙汰ですから]
寂しそうにセファールが承諾すると、すぐにシルヴェールが首を振った。
「時期が時期だけに仕方がないこともあろう。しかしそなたの腕と人柄があれば、店に客足が戻るのも遠い未来ではあるまい」
[ありがとう存じます]
「それまでの短い時間ではあるが、好意に甘えさせてもらうか」
「すぐに妃とレナが新しい服を立て続けに欲しがるでしょうから、それほど時間は無いかも知れませんな」
シルヴェールとベルナールは内心で小躍りしつつもセファールを気遣う様子を見せ、そしてすぐに申し訳なさそうな顔になると周囲に積み上がった被害状況などの書類を指差す。
「ではセファール殿にはまずこれらの書類を仕分けてもらいたい。条件はこの紙に書いてある」
[はい陛下]
「それと肝心の報酬だが、こちらはおって沙汰しよう」
[いえ、報酬は……]
遠慮するセファールの返答を、シルヴェールは再び首を振ることで妨げた。
「勤労に対する報酬は、それを評価する人間の公平性も対外に宣伝するもの。すまぬが受け取ってもらわねば、この国の信用に関わる問題となる」
[かしこまりました陛下。元魔族である私を受け入れてくれた陛下たちと、この国の民のために、微力なれどこの身を捧げさせていただきます]
「うむ」
こうしてセファールは、再び忙しい日々を送ることとなる。
その日の夕方。
[では失礼いたします陛下]
「うむ。では明日も頼むぞセファール殿」
セファールが執務室を辞すると、後に残ったシルヴェールとベルナールは今日一日だけで済ませた仕事の量が、三日分に相当するものだったことを確認して苦笑いを浮かべた。
「仕分けだけで良いと頼んだはずだったがな」
「悪筆はともかく誤字脱字、それに加えて提出された数字がおかしいことまであっさり見抜くとは思いませんでした。さすがは……あの王都でフェルナン閣下のお手伝いをされていただけのことはありますな」
「うむ……」
しばらく執務室の時は止まり、そしてシルヴェールが何気なく上げた右手が、行儀悪く頭をかくことによって再び動き出す。
「しかしセファール殿とは思いつかなかった。お前がかつてアルバと共に命懸けで王都に潜入し、掴んできた情報は把握していたと言うのに」
「人と魔族。決して消えることの無い境界を有する二つの種族。気にしないように心がけてはいたものの……やはり心の奥底ではわだかまりがあったのでしょうな」
「百メートル先が見える程度の霧ですら、人が外に出ようとする気持ちを妨げるもの。それからしてみれば、目に見えぬ、心にも留まらぬ程度のうっすらとした境界が、人の思考を妨げるものになったとしても不思議はないのかもしれん」
シルヴェールは再び頭をかき、机に座り込むと天井を見上げた。
「我々がそれを乗り越えられず、クレイが乗り越えられたというのは少々シャクではあるがな」
「年少者は人の間で生きた時間が少ないゆえに、色々な慣習、常識を知りませぬ。よって年を取るにつれ、必然的に人に纏わりついてくるもの……しがらみというものに囚われることも無いのでしょう」
「あるいはセファール殿に直接会ったもののみが思いつく考えと言うものか。現場、現物、現実……セファール殿も来てくれて仕事もはかどるようになったし、そろそろ私も城下を自分の目で見て歩くようにするか」
「……」
ベルナールは溜息をつくと、シルヴェールにまず自分の体格を誤魔化す魔術を身に着けるよう諭すのだった。
一週間後。
「それでは行ってまいります陛下」
「行ってまいります父上」
クレイとジョゼは、特使としてヴィネットゥーリア共和国へと向かう報告をシルヴェールへしていた。
「今さらお前たちにあれこれと言うことは無い……と言いたいが、今度の旅はヴィネットゥーリア共和国。ヘプルクロシアのように同盟国ではない、いわば敵地も同然の国に行くということだけは心に留め置くように」
「はい陛下」
明るく返事をするクレイを見たシルヴェールは満足そうに頷き、そしてニヤリと口の端を軽く吊り上げる。
「それとお前の決めた随員のほかに連れて行ってもらいたい者がいる。先ほども言った通り、敵地では旅慣れた者の助力が必要だろうからな」
連れて行ってもらいたい。
シルヴェールがそう前置きをしたことにより、クレイは先だってのヘプルクロシアには着いてこなかった人物と推察する。
「ベルトラムはアルバ候に付き添うとして……エンツォさんじゃないんですか?」
「ヴィネットゥーリアは運河が網の目のように張り巡らされ、主な交通機関と言えば小舟の一種であるゴンドラを使う都市。エンツォを付き添わせるわけにはいかぬだろう」
土の精霊力を通常ではあり得ない量で魂の根源に宿しているエンツォ。
彼はそれにより他の精霊を交えて使う魔術を行使することはできないが、自己強化や装備する武具の強化を自然に使うことができる。
しかしながら、土と言う属性に特化した彼の肉体は極端に密度が高く、重いために水に浮くことができない、つまり泳げないのだった。
「あー……確かにヘプルクロシアに向かう船の中でも、海の上をことのほか苦手としてるって言ってました……」
そばにいるだけで人を安心させる存在感を持つエンツォが来ない。
少し心細くはあったが、誰しも一人立ちしなければならない時期というものが来るのだ。
クレイは息をつき、覚悟を決めてシルヴェールの言葉を待つ。
「よってエレーヌを随員とする」「絶対にお断りします」
クレイは息もつかせず即答した。
誰しも一人立ちしなければならぬ時期があるゆえに。
シルヴェールの言に逆らう覚悟を決める時間も惜しいとばかりに、クレイは即答していた。
「勅命だクレイ」
「道中の身の安全……じゃなかった、あまりにフォルセールの守りを薄くし過ぎるのは良くないと思います!」
必死に反論をするクレイの言葉を遮ったのはベルナールだった。
「城内の安全を確保するため、エレーヌに外の空気を吸わせる必要があるのだクレイ」
「以前アランさんもそんなことを言ってましたけど、城内の安全を守るのが騎士団の役目じゃないんですか!?」
「お前の言う通りだ。しかしお前がヘプルクロシアに行っている間、そのアランからの苦情が毎日のように届けられてな。周囲への有形無形の八つ当たりがひどいから何とかしてほしいと」
そのベルナールの言葉にクレイは一つ冷や汗を垂らす。
「……えーと? それって俺が留守にしてたから……?」
「しばらくお前が討伐隊についていった後、さらにヘプルクロシアへ旅立ったからということもあるだろう」
「もう何百年も生きてるのに……」
クレイがそう言うと同時に、ベルナールの目がギラリと光る。
言ってはならない一言をクレイが発するのを聞いたベルナールは、この先クレイが何かワガママを言い出した時のために今の発言を言質としてとり、気付かない振りをしてクレイの説得を再開した。
「ここで更にお前がヴィネットゥーリアに行けば、騎士団が内側から崩壊することになりかねん。本来ならエレーヌを減俸の上に自宅謹慎としたいところなのだが、それでは騎士団の負担が減ることはあっても無くなりはしない。しかしお前の随員とすれば八方丸く収まるのだ」
「えー……えー、と……? うー……随員の件、承知いたしました……」
真顔で騎士団の崩壊を予言するベルナールを見たクレイは首を捻り、解決策をなんとか思いつこうとし、しかし人の感情を制御することの難しさを知っているクレイは、肩を落として承諾をした。
「うむ、それでは旅の無事を祈っているぞ」
「もったいないお言葉です……それでは行ってまいります」
クレイは力なくそう言うと、扉を閉めるのも忘れて部屋を出ていき、その姿を見たジョゼは代わりに扉を閉めると慌ててクレイの後を追った。
「予想通りの反応でしたな」
「こちらの気づかいに早く気付いてくれるといいのだが」
「大丈夫でしょう。クレイは横着者ですからな」
「気付けば良し、気付かなくても効果はあるだろうとは言え……やはり気になるな」
「気になるというより、見ものと言った方が正しいでしょう」
ベルナールがそう言うとシルヴェールは人の悪い笑みを浮かべ、そしてセファールが到着する前に彼女が昨日すでに作成していた今日の執務予定の計画に目を通した。
「うー……」
「元気を出されてくださいクレイ兄様」
執務室を出てからずっと悩んでいたクレイは、ジョゼから慰めの言葉を受けていた。
「そんなこと言ってもなぁ……大事な交渉をするためにヴィネットゥーリアに行くのに、なんでトラブルメーカーばっかり増やすんだろ」
「兄様が成長するため、主がお与えになった試練ですよきっと」
ジョゼの慰めを聞いたクレイは余計に落ち込み、うつむきながら廊下を歩く。
「って言うか、エレーヌ姉って本当に旅慣れてるのかな? 確かにエルフの里からここに流れてくるまでかなり旅はしたみたいだけど」
「えぇと……姉君であるエステル様に聞いてみては?」
「そうだな。けどもう皆に今日出立するって言っちゃったから時間も無いし、とりあえず本人にいくつか質問して確認するだけにしよう。早くしないとアルテミスが大熊のカリストーさんに乗ってこっちに来ちゃうよ」
「ふふ、そうかも知れませんね……あのお方は図々しいですから」
「と言うかオリュンポス十二神ってヘスティアーさんを除く全員が図々しい……あれ王妃様。部屋の外を出歩いてて大丈夫なんですか?」
ジョゼと話しながら廊下を歩いていたクレイは、前方にクレメンスがいることに気付いて軽く会釈をする。
「少しジョゼに話しておかなければならないことがありましたからね」
「何でしょうお母さま。すでに旅の留意点はお教え願ったと思っておりましたが」
ヴィネットゥーリア共和国へ公務で向かうジョゼもまた、自分の母ではなく王妃という位にある女性に対して会釈で敬意を表すると、早く旅立ちたいという暗喩を込めた返答をクレメンスへ返す。
「旅については教えました。ですが母は、うっかりして向こうに着いてからのことを教えるのを忘れていたのです。とても大事なことを」
「向こうに着いてから?」
クレメンスは静かに頷き、娘であるジョゼの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「知っての通り今回の旅は同盟国ではありません。よって貴女が耐えがたい侮辱を受けることがあるでしょうし、知らないうちに相手を侮蔑する発言をすることもあるでしょう」
「なるべく慎んだ行動をとらせていただきますお母さま」
「貴女のことは信じています。おそらく貴女が相手に侮蔑の言葉を発することは無いでしょう。ですが相手がこちらの信頼を裏切り、交渉を有利に進めるために貴女を侮辱してくる可能性を考えて一つの作法……決闘に関する一つの決まり事、申し込むやり方を教えておきます」
「はいお母さま」
クレメンスは幾つかの助言をジョゼに与えると、クレイに静かに微笑んで軽く頭を下げる。
「娘をよろしくお願いしますクレイ」
「微力を尽くさせて頂きます王妃様」
クレイは頭を下げてそう言うと、館の外で馬車に乗って待っていたフィーナたちと合流し、人の姿から馬の姿に戻ったバヤールにジョゼと一緒に跨って、エレーヌに会うために騎士団の詰所に向かう。
「信じています……相手を信じる、か……エレーヌ姉を随員として連れていかせる理由……ん? ひょっとして?」
その途中、クレイは頭の中に一つの推論を思い浮かべていた。
「ジョゼ、ちょっとお願いがあるんだけどいいか?」
「何でしょうクレイ兄様」
「ちょっと思い出したことがあってさ。三すくみって奴なんだけど」
そしてその推論は、程なく悪だくみへと変化したのだった。