第105話 義母上の思い出!
「テリーヌをクレイから遠ざけるのだアリア!」
シルヴェールの指示が飛ぶ前にすでにアリアは型枠に蓋をしてクレイから遠ざかっていたものの、クレイの体調は激変したままであった。
「ひっ……いぃ……」
天使の王メタトロンをその身の内に宿し、かつての物質界の覇者ドラゴンですら臆さずに立ち向かっていったあのクレイが。
まだ成人していないにも関わらず上級魔神を打ち滅ぼし、更には旧神バアル=ゼブルを撃退するなどの数々の功績をたててきたあのクレイが、頭を抱えて床にうずくまり、冷や汗を流しながら震えていたのだ。
「どうしたのクレイ! ちょっと待って今すぐに癒しの泉を……」
フィーナは慌てて食事中に指を洗う水を入れてある、ランス・ドワと呼ばれる陶器製の器に両手を入れ、汲んだ水をクレイにかけようとする。
「それには及ばんフィーナ。やはりまだ駄目なようだな」
だがシルヴェールが落ち着いた声で止めるのを聞いたフィーナは、訳が分からないといった顔で、未だ体を丸めて震えているクレイを心配そうに見つめた。
「あの、これは一体……クレイに何が起こったんですか?」
「ん? ああ……すまぬが誰かベルトラムを呼んできてくれぬか。おそらくアルバたちの寝室にいるはずだ」
「すでにアリア様が向かわれました」
「サリムか。なかなかに目端が効くようになったな」
発した指示に、クレイに付き添っていたサリムが答えると、シルヴェールは溜息をつきながらクレイの背中を撫でた。
「クレイ様はどうなさったのですか陛下。このようなお姿、私は初めて見ました」
「……そろそろ言わねばならぬか」
シルヴェールの長い長い溜息。
その長さで費やした時間を穴埋めするかのように、単純な理由が彼の口から発せられた。
「昔、クレイは我が妹アデライードが作ったテリーヌに襲われてな。それ以来ゼリーのような性質をもった物をことのほか苦手としているのだ」
「はい?」「え?」
フィーナはキツネにつままれたような顔で生返事をし、そのような態度を国王にとるわけにはいかないサリムは、呆然とした顔のまま無言でクレイを見つめた。
「えーと……テリーヌに襲われ……? 申し訳ありませんシルヴェール叔父様、私まったく理解できません」
「ゼリー……」
フィーナとサリムは戸惑った様子でシルヴェールを見つめ、その後に床で震えるクレイに向かって首を傾げる。
「ヴォロンテの家系に生まれる女子のみに宿る力、それに起因するもののようでな。それによって変化した料理はガビーはおろか、ヘプルクロシアで熾天使となったアルバトールすら抗しえなかったほどのバケモノだ」
「まさか、あのフォルセール候がですか!?」
サリムの叫びにシルヴェールは沈痛な面持ちで頷き、そして不安を消そうとして腰にいつも下げてあるジョワユーズを探し、無いことに気付いた彼はそこにある腰ひもを代わりに握りしめた。
「そのバケモノに、まだ赤ん坊だった頃のクレイがたまたま襲われてしまってな。それからトラウマになったらしく、未だに立ち直れずにいるのだ」
心苦し気に話すシルヴェール。
そんな姿を見たフィーナは、その美しい顔に優し気な笑みを浮かべてなんとか元気づけようとする。
「そんなことがあったとは、私知りませんでした……あ、でもこの状態のクレイって母性本能をくすぐられて凄くいいですね」
だがその慰めの言葉は少しばかりズレており、シルヴェールは苦笑しつつもフィーナの心づかいに何とか感謝の意を表そうとする。
「結婚願望が出てきたかフィーナ? それならクレイ以外の未婚男性であれば誰か紹介してもいい。ブルックリン家と関係が深くなるのは願ったり叶ったりだからな……来たか」
そしてシルヴェールは、待ちかねていた一人の執事の名を呼んだ。
「待っていたぞベルトラム。クレイを頼む」
「お待たせして申し訳ありません陛下、ただちにクレイ様の治療に取り掛からせていただきます」
いつの間にか姿を現していたベルトラムを見たシルヴェールは、アリアが見えないことを少し不審に思うも、それだけ急いで来たのだろうと考えてベルトラムの光る指先が触れられた先、クレイを見る。
その時にはもうクレイの震えは止まっていたが、体は未だ床にうずくまったままであり、先ほどのショックから立ち直るまでにはまだ時間が必要に見えた。
「発作は治ったようだが、念のために宴は辞退させた方が良さそうだな」
「それがよろしいかと」
シルヴェールの提案に対し、即座に賛成するベルトラム。
またもやクレイは宴に出席できないまま終わるのか。
「いや……ちょっと待って……よっと!」
しかしベルトラムが床にうずくまったクレイに肩を貸そうと近づいた瞬間、クレイはさらに体を丸め込んだ後に大きく深呼吸をし、勢いよく立ち上がっていた。
「クレイ様、あまり無理をなされてはいけません」
「賓客の応対はこちらでやっておく。部屋に戻って休むのだクレイ」
クレイの顔色はまだ若干悪く、それを見た二人はクレイを広間の外に連れ出そうとするが、クレイは力強く顔を振るとベルトラムに真っ直ぐな視線を向け、口を開いた。
「ベル……トラム、新しいテリーヌを持ってきてくれ」
「それは……いかにクレイ様の指示であろうとできかねます。また今度、体調が良い時を見計らってからでもよろしいかと」
「それじゃダメだ。今じゃなきゃダメなんだ。義母上の思い出に今まで背を向けていたってだけじゃない。今じゃなきゃ思い出せない、大事なことがある気がするんだ。お願いだよベル兄……」
「クレイ様……」
ベルトラムの目に、クレイの意識はまだ定かではないように見えた。
そして何よりベルトラムには、クレイが思い出したい記憶の中の一つに心当たりがあり、そして今の彼にはその記憶が何よりも恐ろしいものだったのだ。
だがそれでも、まっすぐな決断を下した主人を止められるベルトラムでは無かった。
「分かりましたクレイ様」
「待てベルトラム。如何にクレイが小さい頃より育ててきたお前とはいえ、さすがに今のクレイに続けてテリーヌを食べさせるわけには……」
「はい、クレイ様の教育係である私が全責任を負います。なにか変調があればすぐに何とか致しますゆえ、どうかお許しを」
「……分かった」
止めるシルヴェールの声も弱いもので、それはテリーヌの問題をいつまでも放置しておくわけにはいかない、そう周知されている証でもあった。
たんに食事をするだけに留まらぬ緊張が場を張りつめさせ、そこに顔を固くしたアリアが姿を現す。
「ベル兄様、新しいテリーヌを持って参りました」
「うむ。心配するな、アルバ様には後で私から話をしておく」
ベルトラムはやや震えるアリアの手からテリーヌを受け取ると、横目でちらりとクレイの様子を伺ってからゆっくりと振り返る。
そして身体の回転よりワンテンポ遅らせた、テリーヌを乗せた両手をクレイに見せると、何が起きても瞬時に対応できるように、ベルトラムは意識を目の前の主人に集中させた。
「……あり、がとう……ベルトラム」
だがベルトラムの心配は取り越し苦労に終わった。
クレイはベルトラムの持ったテリーヌを見て一瞬だけ体を震わせるも、すぐに意を決して口の中に放り込み、ゆっくりと飲み込んだのだ。
「美味しい……すごく美味しいよ! ベルトラム!」
「それはよろしゅうございましたクレイ様」
「本当に……良かった」
満面の笑みで報告するクレイへ、表情には現さぬようにしつつも隠し切れぬ喜びをベルトラムとアリアは体から溢れさせる。
「では宴の続きとしよう。アリア、厨房の者たちへの心づけは任せるぞ」
「はい陛下」
そしてシルヴェールは二人と同じく滲み出る喜びを噛みしめつつ、宴の再開を宣言したのだった。
数時間後。
「ふ~、やっぱりお客様を迎えての宴の料理はいつもと全然違うな」
ちょっとしたサプライズを交えた宴は終わり、名残を惜しんでいた参加者も三々五々と言った感じで帰宅、あるいは自分の部屋へと戻っていく。
「……あれは何だったんだろう。すごく大事な、忘れちゃいけない思い出に感じられたのに、やっぱり思い出してはいけないような記憶に感じられて……結局この手に掴むことはできなかった」
クレイもまた自室に帰り、サリムに今日はもう何もないと言い渡して控えの部屋に帰すと、一人で思索にふけっていた。
(アデライード義母上は思い出せた。俺がまだ本当に小さい頃に会っただけなのに、なぜかはっきりと顔や仕草まで思い出せた……だけどあの景色……あの意思は……おそらく俺を産んだっていう上級魔物の……)
そこまで心の内で呟いたクレイは窓に目をやり、庭にいくつか立っている木に群がるセイレーンたちも熟睡しているほど真っ暗闇になった外を見つめた。
(ごめんなさい村人さんたちって……魔物が人間に謝るなんて聞いたことがない……それに……)
「あああもう! 一体何なんだ!? ……あ、ごめん皆、何でもないよ」
思わず浮かんだ疑問を口に出して叫んでしまったクレイは、目の前で次々と部屋の光を反射して輝き始めた目の数々に謝罪する。
[クレイ、子守歌でも歌う?]
「あ、いや……ゆっくり寝てくれよセイ姉ちゃん。俺も明日は早いから、すぐに寝るから」
[うん、それじゃ皆で頑張って起こしてあげるね]
「あ、ハイ……オネガイシマス」
自分の不注意が招き寄せてしまったこととはいえ、翌朝の心地よい目覚めを想像したクレイはげんなりとし、ぼんやりと部屋を照らし出していたランプを消して寝台へ向かう。
(それに、俺のことをクレイ様って……じゃあ俺はやっぱり魔物の仲間なのか……? 答えてくれよメタトロン)
メタトロンは答えない。
彼も魂の眠りに落ちたのか、それとも都合が悪いことを言いたくないのか。
クレイは溜息をつき、そして日課である拳闘の素振りをこっそり行った後、ヴィネットゥーリアへの旅に必要な物資を考えながら眠りに落ちた。




