第101話 迫る大波!
ジョゼの無事を祝う宴が済んだあくる日の朝方のこと。
王都ベイキングダムの中心にあたる王城の一室では、一人の少年がぼんやりと光る一人の旧神の前でうなだれていた。
「昨日は随分とお楽しみだったようだなクレイ」
「ハイ」
「まさか我々を一晩中放ったらかしにするとは思わなかったぞ」
「エエ」
「まだ成人もしていない子供を夜の街に入り浸らせてしまうとは……テイレシアのシルヴェール陛下に何と申し開きをすればいいのだ」
「俺も成人してないってだけで捕縛されるとは思ってませんでした」
「文句を言うならメイヴにしておくことだ。あやつが再び姿を現すようになってから、教会の者どもの締め付けがやたらと厳しくなったのでな」
「そうなんですか」「そうなんです」
そわそわとどこか落ち着かない様子だったクレイは、即答してきたルーの圧に負け、カウチの奥深くに座って居住まいを正す。
「事情は把握した。どうせエンツォたちを迎えに行くという目的にかこつけて、宴でディアン=ケヒトに会わないように逃げ出したのだろう。責めはせぬが、お前は既にテイレシアの顔の一つだと覚えておくことだ。このような機会を利用し、他国の重鎮に顔を覚えてもらわずしてどうする」
「ごめんなさい……」
素直に頭を下げるクレイを見て、ルーは溜息をつく。
「謝罪するなら表情もそれなりのものを作っておくのだな。どこから誰が見ているか分からぬぞ。出国手続きと乗る船は確保しているから、忘れ物がないかどうか皆に良く確認しておくように」
ルーの指摘を聞いたクレイは慌てて表情を引き締め、テイレシアに帰国する準備を整えるために部屋へと逃げ……戻って行った。
翌日の正午前。
クレイとサリムの姿は、ローレ・ライの波止場にあった。
「つまり思いっきり舌を出している顔をルー様に見られてしまったと?」
「油断してたよ。ルーさん太陽神だから光の屈折……えーと、普通なら見えないところも色々と捻じ曲げて見ることができるんだ。ベル兄もある程度ならできるらしいけど、ルーさんの術には遠く及ばないみたい」
「なるほど」
「しっかし、いつどこから見てるか分からないなんて最悪だなぁ……監視社会じゃんか。でもゴシップニュースなんかを集めるには最適なのか?」
得心がいったように何度も頷くクレイ。
「ルーさんってタブロイド誌の編集者とか向いてるかもね。陰湿だし」
「また怒られても知りませんよクレイ様」
慌てて周囲を見渡すクレイを見て苦笑するサリム。
「それじゃそろそろ乗船しますか。そのルー様が痺れを切らす前に」
「そだね」
クレイとサリムは頷き合うと、船を止める杭に乗せていた足を降ろし、沖に停泊している大型船へと忙しく往復している小舟の一つへ向かう。
しかし小舟ゆえに一度には乗れず、クレイは先に仲間たちを乗せると桟橋から手を振り、自身は見送りに来ていたルーの隣に移動した。
「ジョゼやサリムたちと一緒に乗らなくて良かったのか?」
「ちょっとルーさんと話したいことがあってさ」
「そうか。あまり時間は無いが、答えられるだけのことは答えよう」
ルーの返事は厳格であったが、内にはクレイを思いやる優しさがあるものだった。
「強さとは、強いとは何なのか、か」
「天使になって、俺は前とは比べ物にならないくらいに強くなった。それなのに以前より仲間を危険な目に遭わせるようになってさ……そうしたら強いって何なのか分からなくなっちゃって」
「なるほど」
ルーは離れていく小舟をチラリと見ると、顎に手を当てて考え込む。
だがその表情はあまり深刻なものではなく、答えを得ている者がどうやって他者に説明するか、言葉を選んでいるだけに見えた。
「一言で言ってしまえば、強さというものは幻想だ」
「幻想?」
「対とする対象があって初めて存在を現すもの。つまり単独では何も意味を成さないものと言うことだ」
「うーん……?」
必死に悩むクレイを見たルーは、先ほど悩んでいた時よりよほど深刻な表情になり、そして一つの答えを得たのか軽く首を縦に振る。
「強さとは力の大小を表す規準でしかなく、しかも比較する対象によって変化するあやふやなものということだな」
「あやふや……つまり実体がない?」
「そう、そして力の大小すら重要ではない。小さい力でも合わせて束ねれば、器を持ち上げて水を溢れさせたりできるし、弱い力でも急所を突けば、難解な物事を解決する要素となりうるのだからな。例えばこのように」
次の瞬間、クレイの身体を衝撃が貫く。
なぜならクレイの目の前には、ヘプルクロシア旧神の中でも間違いなく最強である男の頭が下げられていたのだ。
「クレイ=トール=フォルセール殿。息子のことをよろしく頼む」
「えっと……」
身体に走った衝撃にクレイの思考が追いつくまでに少しの時間を必要とし、口を開いて返事をするには多くの時間を必要とした。
「……何だかズルくない?」
「ズルいとは?」
「だってそれって、強い信念のもとにできる……強い意思を突きつけて、相手の意思を捻じ伏せるやり方じゃないの? 強さの大小は重要じゃないだなんて、さっきまで言ってた人がやることじゃないよ」
困惑したクレイの答えにルーは頭を上げ、これからの成長が楽しみであると確信できるほどの潜在能力を持つ少年に微笑んだ。
「そうだな。だが私が今やったことは少し違う」
「違うって?」
「君はすでに私の願いを承知していた。私はその決定に感謝し、見合う礼をしただけだ。それを強さの大小の問題にすり替えるのは、君がまだ自分の立ち位置を理解していないからだろう」
「立ち……位置……」
「小舟が戻ってきたようだな」
その言葉を聞いたクレイは、物思いに沈みそうになった頭をすぐに現実に戻す。
しっかりと前を向いたクレイの表情を見たルーは、頼もしそうにその横顔を見つめた。
「君は功績をあげたのだ。かつて君の義父アルバトールが残したものには及ばぬにしても、我々トゥアハ・デ・ダナーン神族が全幅の信用を君に寄せるほどの功績をな」
「え、今までは信用されてなかったの?」
「君の義父であるアルバトールが以前ヘプルクロシアに残した実績から、養子である君も信頼はしていたが信用はしていなかった。今は君自身が残した実績によって君を信用するようになった。ただそれだけの話だ」
「あ……」
「誇りたまえ。君はこのルーの頭を下げさせるだけの実績を、このヘプルクロシアに残したのだ」
「分かった! ありがとうルーさん俺の話を聞いてくれて!」
クレイはパッと顔を輝かせると、すぐにルーに頭を下げて礼を返す。
「では達者でな」
小舟が接岸したのを見たルーは、やや名残惜しそうな口調で見送りの言葉を発する。
そして今度はルーが驚く番であった。
「またお会いできることを確信し、お別れの言葉は申し上げませぬ。再び御身と再会する、それまでご壮健であることを、このクレイ=トール=フォルセール、心より願っております」
見事なまでに礼にのっとったクレイの挨拶に、ルーは舌を巻いた。
「……やはりお前は信用できぬ男のようだ」
「何でッ!? 礼には礼をもって返せってベルナール団長に教えられたから、その通りにやっただけなのに!」
「冗談だ。皆が待っているぞ」
楽しそうに笑って沖の船を指差すルーに、クレイはふくれっ面となり。
「うん、それじゃあ……と言う前に」
港に立ち並ぶ倉庫の影に潜んでいた、一人の女性に笑顔を向けた。
「行こうエメルさん。皆が待ってる」
「……気付かれてたんですね」
「気付いてたし、あらかじめ予想もしてた。だからエメルさんをテイレシアに連れていくことは、もう決まってることなんだ」
少し間を空けた後、エメルと呼ばれた女性は遠慮がちに倉庫の影から姿を現し、クレイたちに近づいた。
「でも、あの……私は教会から忌み嫌われている吸血鬼ですし……」
目を伏せたままエメルがそう言うと、クレイはニカッと歯を見せた。
「フォルセールで元魔族のセファールって人が服のお店をやっててさ。凄く人気があって、そのせいでいつも人手不足なんだ。でもオーナーが元魔族ってこともあって、なかなか働き手が見つからないらしくてさ」
クレイが言った内容に、エメルの伏せていた目が上がる。
「エメルさんにセファールさんのお店を手伝ってもらいたい。いいかな」
「はい……はい! お願いしますクレイ様!」
「じゃあ決まり! 船に乗ろう!」
しかしその言葉にエメルの顔は再び曇り、桟橋と小舟の間にたゆたう海をじっと見つめた。
「あの……実は私……なぜか水がすごく苦手で……」
「あれ? 吸血鬼ってデュラハンと違って水は苦手じゃないよね?」
戸惑っているエメルをどうしたものか、クレイが考え始めた時。
「デュラハンではなく、あやつらが乗っているチャリオットを引く馬が水を苦手としているだけだ」
「きゃっ!?」
二人のやりとりを横で見ていたルーが腕を縦に振り、時空の裂け目を作り出すとエメルを抱きかかえる。
「そろそろ陛下の所へ戻らねばならん。時間が惜しいゆえに私が船まで送り届けてやろう」
「あ、ありがとルーさん……あれ最初から全員そうしてれば乗船の時間が短縮できたんじゃ?」
しかしルーの姿はすでに時空の裂け目の中に消えており、クレイの言った言葉は誰にも届かなかった。
「……え、俺だけ小舟に乗るの?」
「早くしてくだせえクレイ様。潮目が変わっちまいまさぁ」
「ごめんすぐ乗るよ。ちぇ、ルーさんどうせならエメルさんと一緒に俺も連れてってくれれば良かったのに」
手招きしているヒゲ面の船員にクレイはしぶしぶ頷き、小舟に揺られながら沖の船へ向かう。
その時エメルを船に送り届けて岸に戻っていたルーは、次第に小さくなっていくクレイの背中に呟くのだった。
「流石に未成年の青二才との別れが名残惜しい、とまでは言えぬからな」
そして自嘲の笑みを浮かべたルーは、船から垂れ下がった縄梯子を無視して飛び上がるクレイに苦笑し、再び時空の裂け目を作り出す。
「君の行く手には幾多の試練が存在しよう。それらの試練に備え、あらかじめ力を付けておかせるのが賢者の処方」
そしてルーは姿を消す。
「必要なものは船に乗せておいた。私から君への……はなむけだ」
それが何なのか、察したくもない笑みをその顔に浮かべながら。
そして船は出港する。
海面はやや荒れ気味ながらも、順調に航海は進んだ。
「しかしメイヴがあっさりと引き下がったのは意外だったな。俺がいない間に何かあったの?」
「女王メイヴと言えども、さすがに女神アテーナーは喧嘩を売るには分が悪い相手でしょう」
先ほどから二人は釣りをしながら談笑しており、クレイはサリムの言った内容に頷きながら、船長に借り受けた釣竿を振る。
「でもメイヴは執念深いから気をつけろって、ベイキングダムを出発する時に皆が言ってたしなぁ……げ、またサリムかかったの?」
「おかげさまで」
「……竿を交換しない?」
「さっき交換したばかりじゃないですか」
むすっとして黙り込むクレイにサリムは苦笑し、もう一度だけですよ、と言ってクレイと釣竿を交換する。
そんな二人に一人の幼女が近づき、呆れたようにクレイに話しかけた。
「クレイ、のんびりしてるところ悪いんだけど、アンタ飛べるようになったの?」
「まだ飛べない。と言うかカ・トゥ・カレー海峡は飛んだら防衛にあたってるティアちゃんに襲われちゃうんだろ? じゃあ飛ぶ練習をしたって意味なくないかガビー?」
「まぁそうなんだけどさー」
金髪の幼女ガビーは額を押さえ、のんきなことを言っているクレイを憐みの目で見つめる。
「アンタは飛んでも飛ばなくてもどうせティアちゃんに襲われちゃうんだから、飛んで逃げる練習はしておいたほうが良かったんじゃないの?」
「え? あー……え?」
「ヘプルクロシアに来る前から、アタシは飛ぶ練習はしておけって言ったからね? それじゃ」
ガビーはそう言い残すと、茫然とするクレイを置いて船室に逃げ込む。
「ちょっ!? ガビー!?」
「クレイ様、何やら遠くからビッグウェーブが迫っておりますね」
「それ一大事だろ! 何で冷静に説明できるんだよサリム!」
「乗るのはクレイ様のようですし。それでは私は釣竿を船長に返してまいります」
「俺も一緒に……うわあティアちゃん!?」
「久しぶりじゃのうクレイ! ヘプルクロシアで何やら男っぷりを上げたそうではないか!」
ビッグウェーブに乗るか乗られるか。
こうして死地に臨んだクレイは、とびきりの飛行術を身に着けることになった。