15年目の高揚 8
アンナやエリナとの小休止を終えた僕は、その足でツェレファイスの駅へと向かった。通学用の鞄は畳んでリュックサックの中へ、いざ客車へと乗り込んだ時、僕は吃驚した。
「どこ行くのお、アル」
間延びした芝居ったらしい声は、アザレアのものだった。何しに来たんだと僕が問い詰めるより先に列車は走り出し、彼女は含みのありそうなにやけ顔で、僕のとなりの席にどっかりと座り込んだ。図々しいというか、幼馴染にしては馴れ馴れしすぎやしないだろうか。僕にだってパーソナルスペースというものはあるというのに。
「ね、ね、どこ行くの。何しに行くの」
「そんな遠くにまでじゃないよ」
「じゃ、どこ?」
「リ、リミノクスだよ。すぐそこさ。学校で課題が出たから、その関係だよ。アザレアが見て面白いと思うようなものは多分ないよ」
「アル、遠回しにあたしのことバカにしてる? てかバカだと思ってるでしょ?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「いいじゃない、可愛い幼馴染を連れて、潮風に吹かれながら夕陽を眺める放課後っていうのも……あたしカッコイイ男の人にそういうことされた超嬉しいと思うんだけど、アルはどう思う?」
「言いたいことがよくわかんないよ……」
いいじゃないリミノクス、あたしも市場でお買い物しよっと。アザレアはあっけらかんと言ってのけた。大した計画もなく、ただ僕にくっついて乗車してきただけなわけだ。
「アルはあたしを喜ばせたいとか思ったりしたことない?」
「少なくとも今日起きてからは、ないね」
「何それひどい!! わざわざお弁当持たせてあげたっていうのに!! まさかおいしくなかった!? このあたしのシュリンプサンドとオーロラソースが口に合わなかったって言うの!? いつからそんなに舌が肥えたのアル!? まさか女の子!? あたしよりも料理がおいしい彼女でもできたの!?」
「そんなんじゃないよ、何言ってんのさ!? あれは、その……ちゃ、ちゃんと食べたよ、あれは美味しかった」
「あれは?」
「ああもう、昨日のも一昨日のも美味しかったよ」
「昨日はアル学校さぼったじゃん。食べてないじゃんあたしのごはん!」
「揚げ足取るようなこと言うなよ、子供じゃないんだから……」
「子供だもん、まだ十六歳にもなってないもん。アルだってそうでしょ、自分が頭いいと思ってあたしがバカみたいによく言うけどさ、それってすっごいガキっぽいからやめた方がいいよ」
「わ、悪かったよ、変なこと言ったんなら……あ、謝るよ」
「素直でよろしい。あたしだからこの程度で済むんだからね、他の女子にそうやって上からつまんないマウント取るようなったら人間としておしまいだからね」
なんてキャンキャンと煩わしいんだ。客車に僕ら以外の乗客の姿が見えないのだけが救いだった。こんな情けない姿を衆目にむざむざ晒けて得する事なんか何一つないというのに。
僕はやたらと元気の有り余った男児みたいな幼馴染の手を取った。その中に、包み紙に入ったチョコレートを無理やりねじ込んだ。アザレアの手は赤ん坊みたいに暖かくて、それで柔らかかった。
「な、なにこれ?」
「弁当の……その、お礼だよ。なんだかんだ言って……た、助かってるわけだし」
さっきのアンナとエリナとのお茶会で貰ったお茶請けだ。学校内の購買部で売られていて、一粒あたり並の紅茶葉五百杯ぶんの値がつくお上品極まりない高級チョコレートである。いつもアンナは僕をお茶に招くときはこれをお茶請けに出してくれるので、彼女にばかりは従姉さんと並んで頭が上がらない。リミノクスについたらお返しのお土産でも買っていこうと考えていたところだ。
「開けていい?」
「いいよ」
両の碧眼をきらきらさせながら、アザレアは包みを開いた。辺りに鼻孔を優しくくすぐる甘い香りがふんわりと漂って、アザレアは柔和な笑みを浮かべた。
「へへ……ありがと、アル。これ……貰いものでしょ」
「い、嫌なら返せよ」
「絶対やだ! あたしチョコ大好きだもん。一度貰ったものは病気以外返してあげないんだから」
一口で大玉のチョコを咥えこんでしまった。本当にちっちゃい女の子みたいな仕草するんだから。
やれやれ、僕は頬杖をつきながら、過ぎ去っていく正午過ぎの田園風景に目を向けた。
アザレアと最初に出会ったのは、三歳か四歳ごろのことだった。
ちょうどモルペリアにスマホの要望を出してから、退屈で死にそうになっていたころだ。シルヴェストリの実家が新しく雇った家政婦の連れ子、それがアザレアだった。
彼女たちは昨今になってようやく権利回復の兆しが見えてきたハーフエルフというやつで、そうはいってもアザレアの母は僕の父親に雇われるまで、かなり苦労を重ねてきたらしい。
結局その数年後、アザレアの母は流行り病によってこの世を去った。僕の父は高名な治癒術士を呼んで治療をさせたけど、正直いって気休めにも延命にもならなかった。僕がこの世界の魔術に対して懐疑的になったのは、この一件が原因といって差し支えはない。もちろん魔術の形式が進歩し、技術が向上と発展を繰り返していけば、この命は助かったのかもしれない。
でも、糸の切れた人形みたいに沈み込んだアザレアに向けて魔術や信仰ができたことと言えば、亡くなった彼女の御霊が安らかに眠れることに向けて、祈りを捧げてやることだけだ。
もともとアザレアは僕以上に消極的な性格で塞ぎ込みがちな気質の持ち主だった。ただ、今のような快活で、悪く言えば他人に構いすぎる人格になったのは、母親を失ってからだったように思う。正確には、それからすぐにアザレアの魔術適性が判明してからだ。
アザレアの魂の属性は水だ。何の皮肉か、母の命を救う足しにはなり得なかった治癒術士に求められる素質こそが、アザレアに備わっていたというのだ。
肉親を失ったアザレアを見かねた僕の父は、彼女を養子に迎えることに決めた。現在のヴァラキアの法律下でハーフエルフ移民の帰化手続き申請が許可されるまでに、八年近くかかったらしい。養子縁組の申請は、まだ通過していない。未だ制度上では義妹と扱われてはいないが、家族も同然で最も近しい人間といえば、このアザレア措いて他いない。メリッサ従姉さんやエリオットの存在も、もちろんあるわけだけど。
「昔っからチョコ好きだよな、アザレア。お小遣い全部チョコに使ったこともあったろ」
「甘いものは何でも好きだけどね。人間って、食べる回数が一生のうちにどれくらいか決まってるって言うじゃない? だいたい長くて四十か五十年くらい……もうちょっと生きて六十年だとするとさ、もう計算簡単じゃん。それなのに、おいしくないもので食事の回数を無駄にしたくないじゃない」
「その割には変な食材取り寄せて劇薬作ったりしてるじゃないか」
「挑戦は食事のうちに入らないの!」
アザレアはぷりぷり怒った。
「だから、えーっと……食べることに関しては、真摯でいたいんだ。あたしも母さんもアルやメリッサさんみたいな生粋のヴァラキア人じゃなくて、ちょっと食べるのに苦労したから……意地汚いって言われたらそれまでなんだけどね。なんていうか、生きてるうちは少しでもおいしいもので人生楽しくしたいよねって、そう思ったんだ。だから料理も自然と好きになれたし……いろいろ、あたしにとって丁度良かったんだよね。不摂生で体壊しそうな男もここにいることだし」
「僕は健康体だ」
「自分でも食事に気をつけないと、一生あたしに面倒見てもらうことになるかもよ?」
いちいち何かと一言多いのがアザレアなんだ。黙ってればそこらの男がほっとかない程度には可愛いのに。ニタニタ勝ち誇ったように笑うアザレアはなんだか腹立たしいので、頭をくしゃくしゃかきまわしてやった。
窓の景色が木々と草原の落ち着いた緑色から岩場へと変わり、やがては夕陽に映える港町が姿を表した。水平線に沈みゆく橙色の太陽が、西から大地を鮮やかに染め上げていく。
ランドマークの大灯台がちかちか燐光を灯しだすリミノクスの街。夜を徹して海を往く船便を受け入れる、リミノクスはそんな夜の顔に変わりつつあった。
「ねえ、アル」
「何だよ」
「あたしのお母さんは、どこに行ったと思う」
「ぼ、僕に聞かれてもな」
僕が無宗教家なのは、アザレアだって百も承知のはずだった。
「昔のリミノクスはさ、結構荒れてたらしいんだ。お客をとった母さん、よく青痣作って泣いて帰ってきた日もあった。話したことあったっけ、あたし昔はあそこに住んでたこともあったんだよ」
「いきなり……なんだよ」
「大したことじゃないよ。ただ、ちょっと気になっちゃって。昔はさ、罪を赦されて、天国に行くためのお墨付きがお金で売られてたんだよね。神様じゃなくて、天国とは全然関係ないそこらへんのオッサンが、鼻糞丸めながら左手で書いたようなお札でさ」
いまいちアザレアの言わんとすることが掴めない。何だろう、世界史で習った宗教論争のことかな。
「でもそれは、価値を認め合う人たちの中ではお金と同じで、きっとものすごい御利益のあるお札になったんだと思うし、そう扱って本当に心が救われた人だっているんだと思う。そうやって、このお札を買わない人間は人非人で、買えない貧乏人は悪魔にはらわた食い荒らされるっていう考え方が生まれてきたんだ」
「だから、その……そういうのは信仰とは違うって考え方の人が出てきて、ちょっとずつ……その、清貧につとめていこうって動きが主流になってきたんじゃ……ないの?」
大昔に習った授業の内容を、憶測交じりで口にしてみる。ペーパーテストで落第したことはないけど、この世界の歴史についてが完全に頭に入っているわけではない。そもそも、いかに魔術が優れた技術だといっても、往々の歴史が完璧に保管されているわけではないのだ。実際、ヴァラキア国外の歴史について専門的に学習する機会はなかったんだから。
「天国っていうのは他人と同じ価値をシェアしたようなものでも天国って言えるのかな」
「は?」
「天国って、とっても素晴らしい所なんでしょ? じゃなかったら、世間の皆はこぞって宗教家を名乗ったり、升天教者だってことを名刺みたいに主張しないもんね。それじゃああたしにとっての天国は、あたしと、あたしの本当に大切な人以外の誰もいない場所ってことになるんだけど」
「考えた事もないから、わかんないよ」
「アル、どうする? いざ天に召されて、最後の審判も好成績でパスしてさ。いざ天国だーって周りを見渡したら、見覚えのある人間が馴れ馴れしく『よおッ』とか話しかけてきて、今朝がたオナニーしたばっかりのきったないベタベタの右手でわしわし頭を撫で繰り回してくる、そんな天国だったら。そんなの天国って言える? 言えないよねぇ、あたしのことを気持ちよく出迎えてくれる場所じゃない天国なんて、そんなのもう地獄と変わんないもん!!」
けらけら噴き出しながら、さぞ可笑しそうにアザレアが続ける。
「それもう本当に勘弁してほしいって感じだよね、こんなクソみたいな世界からようやくおさらばできたっていうのに。神様通過しました、最後の審判オッケーです、さあ天国です好きなだけ飲み食いして幸せに過ごしましょうってつもりで、目を覚ましたら大して変わらない面々があたしのことを取り囲むんだ。街も、人も、国も、何にも何にも変わらない。だってみんなが信じてるおんなじ天国だから。おんなじ死後の世界だから。おんなじ地獄だから。考えることはみんなおんなじ、みんながみんな、みんなのことをウンザリだと思ってるから。他人となんてかかずらいたくないから」
「ア、アザレア――――」
「一分一秒でも早く、こんな掃き溜めから卒業してどこかに消えちゃいたいと思ってるから。奴隷を拾って飼主ヅラする成金野郎の情婦はもうイヤだから。自分一人で違う世界でやり直したいから」
「お、落ち着けって!! 何言ってんだよ、本当に大丈夫か!?」
「子供なんて邪魔。家族なんていらない。仕事なんて嫌。学校なんて行きたくない。全部全部全部、こびりついた垢みたいなものを洗い流してキレイになりたい、このまま薄汚くてみすぼらしいまま腐って消えていきたくない、せっかくここまで生きたのに!!」
壊れたラジオみたいにひとしきり喋り倒したあと、急に彼女は我に返ったらしく、照れ隠しのつもりで普段の微笑みをこちらに向けた。
「あたし……あたし、そんなつもりじゃ、なくて」
「アザレア……?」
「あ……ご、ごめん……ごめんね、なんかちょっと興奮しちゃって。自分でも何言ったかちょっとわかってなくてさ」
僕は、力なくうなずく以外の反応が示せなかった。幼馴染のまるで発作のような激昂に、僕の心臓もそれにあてられたかのように、激しく脈打っていた。
「や、やだなあたし。今なんか、すごい変な人みたいだったよね」
依然として、僕らの周りに乗客の姿はなかった。僕らだけの客車。僕らだけが、書き割りの背景で劇にでも興じているような錯覚すら感じた。
「ごめんね、ほんとごめん」
「具合でも、悪いんじゃないか……? 出かけたりして本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫……大丈夫、だから」
それからしばらくは、互いに無言の状態が続いた。走行音が無機質にリズムを刻みながら、徐々にリミノクスの駅が近づいてくる。
最後に、ぼそりと彼女は零した。制御できない昂りに突き動かされた余韻が残っているらしい、虚ろな目付きのまま。僕に聞かせるつもりのない、蚊の鳴くようなかぼそい声で。
「母さんはね。そう言って死んだよ」
そこに感情はなく、言葉を紡いだ直後には、見慣れた微笑みの表情が再び彼女の貌にあった。