15年目の高揚 6
アンナ・ヘーゲマンという名の少女がいる。
腰まで伸ばした髪は翠がかった艶色で、背は僕よりも高い、貞淑な雰囲気を醸す女生徒だ。僕と同じ高等部の外部生で、北の国からやってきた外国人だという。物静かな雰囲気はまるで人形みたいで、赤の瞳が輝く顔立ちも、雪原に住まう兎を思わせて愛らしい。海原のような髪の隙間から伸びる外耳は横に長く、少々肉厚で垂れている。北国に住まうエルフなる種族の特徴らしい。
その口調のアクセントにはどことなく訛りがあって、古語の講義で指名を受けて教科書を読むと、同じクラスの教養のない一部の連中が茶化しにかかる。よほどヒマで仕方がないのか、それとも親が支払ったのであろう安くはない授業料を踏み躙ってまで他人を貶めたいのか、そうした変わった性癖の連中の玩具にしばしば相成っている。目ざとく観察していたわけではないが、気が付けば彼女はよく教室や廊下の片隅で愉快さとは程遠い交流活動をさせられている。
なるほど。所変わっても、人間がいる限りイジメとやらはなくならないわけだ。
そして今日もまた、両親からまともな愛を注いでもらえなかった連中が、アンナ・ヘーゲマンのもとへと群がっていく。四限目の講義を終えてメリッサ従姉さんからのもとへ向かう最中、僕は廊下の窓からたまたまアンナの小さな姿を目にした。
いかにも素行の悪そうなタイプの生徒が徒党を組んでいるというのは、古今東西同じらしい。アンナはそんな連中の中でも、とりわけ腕っぷしが大して強くなさそうなグループのターゲットにされていた。学力と民度は比例しないのか、僕はなんだかやるせなくなってしまった。
僕はチンピラ連中に感づかれないように、アンナが腕を引かれて連れていかれた薄暗がりへと向かった。尾行を続けると、中等部棟の倉庫の裏口へとたどり着いた。
正義感と呼べるほどのものでもない、気紛れにも近い感情によるものだ。人間がするべきことをただやっているだけ。それだけは、オタク野郎の僕にも理解できる。あんな努力も知らない汚らしい連中が、彼女を辱めていい場所なんてあるものかと、そう思っただけだ。
そんな集団に、身内の一人が混ざっているとなればなおさらだ。
「エルフちゃんさ、いま彼氏とかいんの?」
「いるわけねぇじゃんこんなミミナガの根暗にさ」
「じゃさじゃさ、俺が彼氏に立候補してもいい? 月こんだけくれたら、俺死ぬまでエルフちゃんのお友達になったげるよ」
下卑た風貌に囲まれ、低俗な文句を吐きかけられるアンナ。あの手の連中は、品性も貧しければ経済状況の貧しいのだろう。そういう手合いに限って、考えもせずに民族主義を高尚なものだと勘違いして祭り上げるんだ。そうでなければ、ミミナガなどという差別用語を使ったりはすまい。
「目的は光り物じゃなかったのか? お前の女にしたいんならそれでも構わないけどな。手短にやれ」
男どもの頭目らしきポジションの生徒が、自己顕示欲丸出しの生徒の軽口を諫めた。彼だけは他のメンツと違って制服を着崩したりはしていないし、立ち居振る舞いも上品に見える。そう、見えるだけだ。ともすれば怜悧な美丈夫にも見えるが、その実態はこうした最底辺の男衆を顎で使う、いわゆるグループの元締めみたいなものだ。象牙色のオールバックが何とも仰々しく、また不敵に輝いていた。
ドミニク・バルヒェットというのが、あの男の名前だ。僕との関係は、メリッサと同じ従兄弟にあたる。温厚で誠実な性格のメリッサとは真逆で、いまどき探すのが珍しいくらいのレイシスト。早い話が、行き過ぎた実力主義者なのだ。人間、すなわち僕らのような猿人こそがヴァラキアを治めるに相応しい人種であり、アンナ達をはじめとするエルフにくれてやる土地も金も食物もない、という思考の持ち主なわけで、当然ながら彼は僕のような劣等生も同じ人類としては見ていない。
魔術の才には恵まれ、学業に関しても優れた成績をおさめている。にも関わらず、あんなサル山の大将に甘んじていられる性根だけはどうしても見習うことはできなかった。
ドミニクは最寄りの壁に寄りかかり、群がる舎弟の男ども越しに、アンナに問いかけた。
「俺は別にお前個人に恨みがあるわけじゃあない。お前に親を殺されたわけでも、お前に金を奪われたわけでも……そうだな。お前に去勢されたわけですらない。じゃあ、どうしてお前は俺に、俺たちにこんな目に遭わされてるかわかるかい」
アンナは声一つ上げない。答えない。
「当然、お前の耳が偶然長かったりしても、そんな程度じゃ俺たちは気分を悪くしたりはしない。少なくとも俺は聖人じゃあねえが、悪魔でもない。いいかい、いちばん悪いのはだ。エルフとかいう半端な人間もどきをこの世に遣わした神様だ。エルフに偶然産まれちまった、お前自身の産まれが一番の元凶なんだ」
ああ、頭痛がする。くだらん口上を合図に、堰を切ったように男の一人がアンナを抱きしめる。新雪のような素肌がドブ臭い舌に舐め回され、アンナはわずかに眉をゆがめた。もしかしたら何も起こらずに済むかと思ったけど、ここらが頃合いか。僕はドミニクたちの視界に入らないよう、それでいて可能な限り接近した。数は多いとはいえ、相手はいち生徒の寄せ集めに過ぎない。火炎弾の三つか四つ跳ね回らせてやれば、蜘蛛の子を散らすみたいに追い払えるだろう。
携帯用のヴォーパル結晶の存在をブレザーの内ポケットに意識し、思考する。火炎を纏った忠実なしもべの存在を正確に、それでいて手早く確実に編み上げていく――――
「で、お前はお前で、何やってんだ?」
不意にドミニクが発した言葉に耳を傾けた瞬間、僕はすでに彼に感づかれていたことにようやく気付いた。なるほど、腐っても優等生。僕の魔力を察知することくらいはできるわけだ。
やれやれ、僕はドミニクたちの前に姿を現してやった。
「従兄弟の顔を見つけたから、挨拶の一つでもしようと思って」
相手は取るに足らないか弱いレイシスト。そう思うと、途端に奴らの存在が小さく見えてくる。あがり症の僕でも、連中以下だなんてことはまずありえない。
「ほお、そうか。なるほど、やっぱりお前らそういう関係だったわけだ」
「そういうことって?」
「お前ら、友達いない寂しいぼっちの割によお。お互い隠れてやる事やってんだってな? 噂になってんぜ、ラリったまんまどこぞの教室だか倉庫だかでパコってるんだってよ」
「あのさ、そっちだけで通じる言葉だけで会話するのやめてくれる? 僕も、彼女も多分何を言ってんのかわかんないよ」
「クズ同士ナニを舐め合うのが傑作だって言ってんだよ」
「いやあわからない。お猿の遠吠えは講義じゃ習っちゃいないんだ」
僕の皮肉を受け取って、それがあからさまな罵りだと気づくことができたのはドミニクだけだったらしい。他の連中は首をかしげてドミニクの次の反応を待っているだけだ。
「で、劣等生様が俺に何の用なんです?」
「優等生様が道を外さないように、そうだな。忠告しに来てやった」
「生憎、四属性のどっからもお呼びがかからなかったクズから学ぶことなんか一つもねぇんだ。失せろ」
一生懸命ガンを飛ばして威嚇するドミニク。なんだか本当にサルみたいで愛着すら湧きそうだ。
「とっとと消えろっ、このクズやろーどもっ!!」
そのうち僕がサルたちをからかっているうちに、緊迫と弛緩の狭間を行き来していたこの場所を一つの叫びが引き裂いた。その直後、僕の背後から無色透明の岩塊が飛来する。高密度の塊に男どもは弾き飛ばされ、ドミニクもまたその直撃に遭ってしまった。
「女を相手に寄ってたかって、ああ情けない! この世の誰かがお腹を痛めて産んだ子がこんなにも情けないことに加担してると思うと、もうやってらんないわ!!」
やがて声の主が僕の前へと歩み出て、満身創痍のドミニク達の前に仁王立ちする。小柄な少女だ。彼女はアンナを相手に目配せし、こちらへと呼び寄せる。声が大きい代わりに、その身体はアンナとは対照的に慎ましい。細身の体躯が、そのブルネットのツインテールを巨大に見せている。アンナと二人で並ぶと、母娘にすら思えてきてしまう。
「てめェ、アルフレート。マジで俺ら相手に闘る気でいやがんのか?」
「いや、どうかな。僕は別に喧嘩する気で来たわけじゃないし……」
すでに子飼いの男連中は、小柄な少女の奇襲によって散り散りばらばらだ。先手を打たれたドミニクはバツが悪そうにこちらを睨み返し、僕らに背を向けて去っていった。
「えっと……助けてくれてありがとう、エリナ」
手持無沙汰も同然の僕は、傍らの少女――――エリナ・ノーザンクロイツに軽く頭を下げた。
得手の属性は風……とのことだが、地属性との複合技術を高いレベルで体得している実力者でもある。
「あんたもあんたで使い物になんなきゃ、アンナの友達でいる意味ないじゃない」
「ひどいな」
「ひどいです」
僕の反論に同調してくれたのか、アンナがようやく口を開いた。
「ひどい? 何がどうひどいっていうの、アンナ」
「最初に私を気にかけてくれたのは、アルレートさんです」
「そのアルフレートがメンチ切り合ってるだけでどうにもなんないから、わざわざアタシがしゃしゃり出る羽目になったんでしょう? ちょっとは反省なさい。この前見せてくれた『槍』でも見せて、少し脅かしてやれば済むことでしょうに」
「僕は別に怪我人を出したいわけじゃないからね」
まあ、既存の魔法円と詠唱頼りの連中なんかたかが知れている。ドミニク程度の底の浅い魔術師を相手にして、万一のことがあったら大変だ。奴のご両親に面目が立たなくなってしまう。別に僕は殺人者になりたいわけじゃないし、目下の目標は殺人者を検挙してやる事なんだから。
「とにかく、あの……本当に、ありがとうございます。アルフレートさんも、アンナさんも……」
「同好の士なんだ、当然の行いだと思ってよ」
「ま、まあ……あんたが一応体張ったってのは、事実なわけだからね」
ツンと跳ね除ける表情をしながら、エリナはようやく僕のことを許してくれた。アンナ経由で知り合ったため、付き合い自体は一番浅い。ただ、直情的な性格ゆえにもっとも分かり易いタチの人間だろう。決して気安いタイプではないが、義理堅く真面目な生徒なのは間違いない。
そんなエリナがどうして正反対のアンナと親交があるのかと言うと僕を含めての三人は、いわゆるオタク趣味の共有によって繋がりを得たのである。偶然僕の愛読していたラノベの表紙に惹かれたというアンナに本を貸した結果、見事にその愛らしくも無骨な一枚のソフトカバーがエリナをも一本釣りしてしまったというわけだ。ラノベの内容は、いわゆる巨大ロボットが宇宙戦争で活躍するSF大河モノであった。骨太なサブカル趣味を理解できるだけの心の余裕と能力を併せ持った人間がここに新たに二人。まったく、彼女らの爪の垢の一欠片でもドミニクたちに煎じて飲ませてやりたいものだ。
「あの……アルフレートさん。この後のご予定は何かありますか」
トイレで顔を洗ってきたアンナは、控えめに自分から切り出した。
「この後? メリッサ従姉さんのところに寄ってから、その後は一時間くらいフリーかな。どうかしたの」
「いえ、その……さっきの、お礼と言っては厚かましいのですが。お茶でも、いかがと思いまして」
「どうせヒマでしょ、あんた。付き合いなさいよ、年上が恥を忍んで誘ってやってるんだから」
それぞれ一学年上の先輩がたに言われたんじゃあ、無下に断るのも野暮というものだ。ご相伴にあずかることを了承して、僕はメリッサ従姉さんの待つ監督室へと足を向けた。