15年目の高揚 2
幸島直輝というのが、僕に付けられた名前だった。
そう、過去形。今は違う。
この大した面白味のない平々凡々なアジアの片隅の小市民的ネーミングの呪縛から、僕は十五年も前に脱している。
ヴァラキア共和国シルヴァニア郡の産院に新たな生を得た僕は、新たにアルフレート・シルヴェストリとしての人生を歩むこととなった。
僕の住まうこのヴァラキアのツェレファイスという地名、Webの検索エンジンに入力したって、ただの一件もヒットすることはないだろう。せいぜいそれっぽい造語を頻繁に使う、ラノベやゲームといったチャラチャラした中学生向けエンタメに関するサイトがいくつか見つかるだけ。でも、現に僕、アルフレート・シルヴェストリという一人の人間は、ツェレファイスの地で第二の生を送っている。
この世界に生を受ける少し前、僕は死んだ。
真冬の駅のホームで、誰に看取られることなく、二十と数年の薄っぺらい人生に幕を閉じた。煎餅布団で眠りにつくのと同じくらい、意識が消えて溶け去っていくのは呆気なく感じたものだ。
死の前後に関して、克明に覚えていることはあまり多くない。
実を言えば、死んでいながら自分の死因すらはっきりしない。
真冬のプラットホーム、ということだけは覚えている。妹と一緒に何年も利用した、馴染みの市営地下鉄のホームだ。汚水処理が万全でないから、雨が降るとかぐわしいドブのにおいが乗車待ちの客を包み込む、あまり誉められるところのない、そんな死に場所であった。
果たして僕は人混みの中で誰かに刺されて死んだのか、それとも寒さ故の心筋梗塞で死んだのか、それともうっかり線路に立ち入って電車にひかれて死んだのか。正直のところわからないし、知る手だてはない。
あったとしても、僕はそんなものに興味はなかった。
あっちの世界への未練なんて、ほとんどなかったんだから。
自慢じゃあないが、僕は友達を作るのが得意じゃない。そもそも、人付き合いそのものがそこまで好きじゃない。恋人だって、スマホやPCのHDDに収まっているJPEGをはじめとする画像ファイルの偶像を除いたら、いかにも僕は負け組のオタク野郎に他ならない。
ただ、その不名誉な評価は十五年前に払拭されたといっていいだろう。むろん完全に脱オタってわけでもないけど、僕にはネットの底辺でふきだまっている質の悪いB層どもが一生かかっても手に入れられないようなものを持ってるんだから。
朝日のまばゆさに目をしばたかせる。PCのディスプレイに表示されるデジタルクロックは、朝八時十分前を示していた。
「やば、遅刻だ」
眠気と肩こりが重く四肢にのしかかってくる。昨晩はPCにかかりっきりのまま眠ってしまったらしい。伸びをしながらあくびをこぼすと、チェアの背もたれがきしむと共に、ばきばき背筋が音を立てた。
洗面所に立つと、ダークブラウンの寝癖がそのままの自分の姿が鏡面にありのまま映し出される。不摂生でここのところ体重が減り続けている、もう十五年の付き合いになるアルフレート・シルヴェストリの寝起きヅラ。容姿は中の中、いや上くらいの整い方はしてるんじゃないだろうか。
「おはよ、なおき」
茫洋としているところに、鈴の音を思わせるようなか細い声色が聞こえてくる。この部屋で一夜を明かすと、絶対に彼女は声をかけてくる。
「おはよ、なおき」
「あ、ああ。おはよう」
背の丈は、小柄な僕の胸元あたり。十歳にも満たない程度の幼い少女。
産まれてから伸ばしっぱなしなんじゃないかってくらいに長い髪は、その毛色も相まって真夜中の海のように思えてくる。紫がかったブルネットを床に引きずりながら、きいきい音の鳴る安い丸イスに腰かけくるくる回っている。ポンポンやフリルがふんだんにあしらわれたクリーム色のパジャマが、相変わらずこの部屋には似つかわしくなかった。
廃院になった個人病院の一室で、よく僕はこうしてPCとにらめっこしながら夜を明かす。この少女もまた、物好きにも僕に便乗して徹夜して過ごすのが日課らしい。とはいえ、この部屋で彼女に出会うのは一週間ぶりのように思う。学校行事の準備とやらに付き合わされて、しばらくここに立ち入るのがおっくうになっていたのだ。
「おはようモル、久しぶり……あ、あのさ」
「なに、なおき」
「ナオキっていうの、いい加減やめてくんない?」
「なんで? なおきはなおきでしょう」
「今の僕は、アルフレート。アルフレート・シルヴェストリだ。何度かこの話したよね」
「うん、した」
「だったらさ、アルって呼んでよ。アルフレートでも何でもいいから……幸島直輝はもうアルフレート・シルヴェストリに生まれ変わったんだよ。ナオキなんて人間は、もうどこにもいないんだ」
「いるよナオキは。あたしの目の前にちゃんといるよ。いなくなってなんかないじゃない」
「だからあ……」
わからん子だな。こういうのはけじめの問題だっていうのに。
ただ、朝っぱらからこんな小さな子に目くじら立てて声を荒げてもしかたない。何度か目の問答もほどほどに、僕は備え置きのピクルスとコーラをデスクの下から取り出し、朝食の支度を始めた。
「モルも食べる?」
半ば社交辞令のように聞いてみるが、女の子はやっぱりニコニコしながら首を横に振るばかりだ。
「神様は人間が作ったものなんか口にできないってか」
「神様? あたし神様なの?」
「そうじゃなかったらなんなのさ」
「あたしはモルだよ。ただのモルペリア」
「僕をこの世界に誘ったのは?」
「はぇ?」
「え、ええと……僕が死んだことに、一番最初に気づいたのは?」
「あたし!」
「そういうのを、僕の知ってる限りじゃ神様って言うんだよ」
この話も何回したんだかイマイチ覚えてない。
丸イスの上にぺたんと座ってくるくる回るすっとぼけ少女、モルペリア。15年前、僕が死んで初めて出会ったのが、このモルペリアだった。
ラノベでも古典小説でもよくある話だと思った。不慮の死を遂げた物語の主人公が、その誤った運命の帳尻合わせとして、やけに腰の低い神によって新たな人生を歩ませてもらう、そんな典型的なテンプレートの忠実な再現。
話し込んだところであまり要領は得られないものの、モルペリアが僕の魂をこっちの世界に転生させてくれたらしい。余計なことしてくれた、とは思わないこともなかったが、履かせてくれるゲタはそう悪いものではないので、十五年来の付き合いにしては良い関係を築けているんじゃないかとは思う。ただ、普段は僕がPCに向かっている間は丸イスに座ってじっとしているばかりなので、その本心が何を思っているかまではわからない。
甘すぎるピクルスと果汁っぽい瓶コーラで朝食を済ませると、新規メッセージの受信を示すフキダシ型の通知アイコンが表示されていた。
「またアキヨシか……?」
チェアから立ち上がりかけた腰を元に戻し、メッセージを開く。思った通り、知人のアキヨシだ。Atuberブームの勃興、つまり二、三か月前からしきりに僕のアカウントにスタンプなりメッセージなりを送り付けてくるようになった。
初対面はツイッターのDMでのやりとりだったと思う。もちろん、前世の幸島直輝が使ってたものとは違うアカウントでだ。最初は確か、ソーシャルゲームのクラン勧誘に関しての会話だったかな。チーム対抗戦ではリザルト目当てで露骨にプレイングをサボったりしないし、彼個人も割と話せる奴なので付き合いが続いている。
こいつの目的はイマイチはっきりしないが、思い当たる節はいくつかあった。
僕もAtuberの真似事をしていたことが一時期あったのだ。現地の特産品を使った郷土料理を作って、食レポ動画をアップロードしたことがある。身バレには十分注意しながら、細心の注意を払って撮影した。残念ながら再生数はほかの派手な連中に比べたら微々たるもので、その後には繋がらなかった。下種の勘繰りもいいとこだけど、アキヨシはおそらく転生者の話し相手ということを下心に抱きながらフレンド申請をしてきたんだろう。
「僕個人の金目当てだったら、すぐさまブロックしてやるんだけどな」
さすがに僕の個人資産まで把握してるはずないか。
異世界での生活にあたって先立つものが必要だと断じた僕は、ネットの知識を引用していくつかの特許をヴァラキアやその周辺国で取得している。シリアル菓子やジュースといった食品を異世界に自生しているものでアレンジし、幾度かの試作を経て特許を獲得したのが、いまデスクの下に私物としてひと箱ぶん備蓄してあるグレープコーラだ。炭酸水は既存技術で生成可能だったので、あとは現代人である僕の味覚を信じて世へと送り出すだけ。
コーラの実の代わりに、ブドウや柑橘類の果汁で風味を加えられたそれは、うまくパテント料を定期的に送り届けてくれる金の鶏へと成長を遂げてくれた。おかげで僕は実家への体裁を繕いつつ、それなりに上等な生活ができている。僕の場合、ツェレファイスの学園へ進学するにあたっては多少の学費の上乗せが必要だったので、こうしたせこい金策を強いられたわけだ。
PCをスリープモードにし、デスクの傍らに放ってあったスマホを手に取る。アキヨシからのメッセージは、スマホからでも確認可能だ。これらの端末機器は、モルペリアの権能の賜物だ。要望を出してから五年ほどかかったが、前世で普及していた情報機械を実際にこうして用意してみせるあたり、やっぱりこの子は女神かその類なのだろう。ドラえもんのポケットとまではいかないが、未開の異世界で新しく人生を始めるにあたって、集合知にアクセスできる手段というのは必要不可欠だ。
意志を明確に発露させることができるようになって、すなわち二歳か三歳ごろ初めてモルペリアに要望を出して、PC一式を手渡されたのが七歳だか八歳だかの頃だったから、正直あまり使い勝手の良い能力でないことは確かだ。こんなに待たせやがってと詰め寄ったところで、当の女神様は「がんばったよ」「早かったでしょ」とかふんわり言ってのけるので、時間感覚が常人とは違うんだろう。
しかし腐っても女神。十歳の時分にスマホを不注意で紛失してしまった際、新たにもう一点の新品を用意してくれる程度にはアフターケアが整っていた。一度作ったものだから簡単だったとは彼女の言だが、この寝間着少女がどうやってイチからスマホなる精密機械を作り上げているのかは謎である。
さて、アキヨシからのメッセージはというと、何のことはない。
アクセル:2023/6/07/02:44
ごめん、明日あたりから夜更かしできなさそう
アキヨシ:2023/6/07/02:45
ん、おかのした
アキヨシ:2023/6/08/17:06
サバトの場所、特定されちゃいましたね。凸しちゃう感じ?
ちなみに、アクセルという発言者が僕だ。
受信時刻は昨日の夕方。その時間にはもうPCの前に座っていたはずだけど、気づかなかったってことはアプリのポップアップ機能に不具合でもあったんだろう。モルペリアから貰った機械は、たまにこういうポカをする。時計設定がおかしくなったり、一晩使うようなプログラムの更新が途中で途切れたり色々だ。性能は現行ハイエンド機に勝るとも劣らないので、口うるさく文句を言うのは憚れるのだが。
さて、アキヨシの文面に改めて目を通す。
こんな野次馬に愛想よく付き合ってやる僕も僕だが、向こうも伊達や酔狂だけで野次馬を全うしているくらいだから、さすがに情報入手の手練手管はさしもの僕でも目を見張るものがある。
ネット掲示板やSNSの巡回スクリプトを利用しての情報収集が基本の僕さえ、ルミナ・サバトの現場候補を知ったのはついさっきのことだ。となるとアキヨシの場合は、ネットのほかに何か有力なコネでもあるに違いない。きっと、アキヨシもまた僕と同じヴァラキアの異世界人なのだ。モルペリアみたいな神様の力で、僕と同じようにスマホやPCを得た転生者の一人だ。でなければよっぽどの暇人だ、僕の前世の世界じゃ社会に出たって一ヶ月もやっていけないね。
アキヨシからのメッセージはもう一通届いていた。やたらとサイズが大きい、動画の類だった。
アキヨシ:2023/6/08/18:26
20200309samsara04.mp4
こんなのどっかのサイトにアップして、アドレスだけ送ってくれさえすりゃあいいのに。帰ってから確認すればいいや。
僕は早々に着替えを終えると、なんとなしにモルペリアに聞いた。
「今日はここには戻らないけど、モルはどうするの」
「はぇ?」
「ここ、鍵閉めちゃっていいのかって聞いてんの」
「いいよお?」
またもわかってるのかわかってないのかわからない返事。さりとて、いちいちモルペリアのこうした態度を真に受ける必要はない。そこはさすがに神様だ、締め切った一室に閉じこめられて、干からびて死んでるなんてことはない。何度か施錠して帰路についてはいるが、再度ここを訪れたときには、いつもけろりとした表情で所定の丸イスに座っている。もしくは、煙か霧のごとく、部屋の中から姿を消していることも少なくない。
「じゃ、行ってくるよ」
僕は玄関横に放っておいた箱から瓶コーラを二つひっつかんで、通学用の鞄、そして新調したリュックサックの中に、一瓶ずつに放り込んだ。