虚実は神樹のみぞ知る 1
ジルケ・ヘラーの名前を出した途端、僕に先だって上機嫌に歩を進めていたメリッサ従姉さんは露骨にその細い眉をひそめてみせた。その怪訝な表情を目の当たりにして初めて、僕は口を滑らせたことに遅まきながら気づいた。
日曜日の校舎には、僕と従姉さんのほかに人の気配は感じられない。常に学生が籠りきりになっている実習棟や研究棟の大学部区画からは、それなりに距離がある。時折、敷地内のクラブハウスから拙いチェロやヴァイオリンの演奏が静寂に混じって聞こえてくるくらいだった。高等部の教室棟から渡り廊下を介して繋がる学内図書館、その入口である栴檀の観音扉の前で彼女が足を止めると、年季の入った木の床板が一際大きく軋んで、その音がやけに鮮明に耳に届いた。
「どうしてあなたが、彼女のことを知りたがるの?」
ブラウンのポニーテールが弧を描いて翻り、彼女は伏し目がちに僕を問い質してきた。休日にもかかわらず、僕も従姉さんも平日と変わらない喪服めいたいで立ちだった。会話の内容は、先日のエリナとの応酬と同じようなものだ。無論彼女を信じさせるために必要な修飾を用いた説得をしてみせたものの、そもそも僕はジルケの自殺について疚しい理由で調べているわけではない。
とはいえ、エリオットやジルケが危険な転生者かもしれない、などといった世迷言を洗いざらい周囲に喋ってしまうわけにもいかない。口外すれば当然、どうしてそんな確証を持った物言いができるのかという点で疑われる恐れがあるからだ。僕が転生した人間であることと、モルペリアの存在を詳らかにするようなことはやはり避けたかった。
そこで僕は、ジルケの個人情報を手に入れるべく、生徒会役員たるメリッサ従姉さんに取引を持ち掛けた。奉納演舞の出演承諾を条件に、教務課や学内図書館の閉架資料の閲覧を僕は要求したのだ。
壁越しに耳にしたであろう、数年前のエリナの記憶と考えれば、いかにも頼りない手がかりに他ならない。しかし、今はとにかく、この線を当たってみるほかないと僕は思っている。発狂したジルケ・ヘラーが頻繁に口にしていたという、『自分はこの世界の人間ではない』という妄言についてだ。単なる悪化したパラノイアにしても、自分以外の転生者探しに躍起になっていた僕にとっては、縋り付かずにはいられない糸口の一つなのである。
エリナや、新入生もいいところのアザレアよりも学内の情報や出来事について深く精通している人間といえば、僕の交友関係の中には一人しかいない。メリッサ従姉さんに取引に関する白羽の矢が立つのは、半ば必然のようなものだった。お誂え向きに、取引になりそうな材料として僕は奉納演舞への出演をかねてより打診され続けてきた。彼女の真意はどうあれ、これをうまく利用しない手はないだろう。
「一昨日の当てつけってわけじゃあ、ないよね」
「根に持ってたりとかじゃないよ、従姉さんに迷惑をかけるつもりはないから」
「そういう問題じゃなくて!」
「面白半分に自殺者で遊んだりするつもりでもない、知りたいことがあるだけなんだ」
従姉さんは唇を噛み噛み、低い声で反論してきた。
「別にあなたが人を小馬鹿にして喜ぶような人間だなんて思ってない」
僕は背中のリュックサック内でそれなりの重量を主張する古雑誌の束の存在を意識してしまった。行きつけの古書店と雑貨屋、そして図書館を巡ってかき集めてきた、三流ゴシップ誌のバックナンバーだ。納魂祭を目前に控えた時期での、名門校における一大スキャンダルだ。いかに学長や経営陣が箝口令を敷いたところで、人の口に戸を立てられはしない。情報の正確性は置いておくとして、今の僕には必要なものには違いなかった。
そうは言っても、内容は低俗極まる安いパルプの風俗誌に他ならない。無軌道で不道徳としか形容のしようがない、誠実さの欠片も感じられないような、三文記事の羅列を纏めた紙束である。背中の重みがそのまま罪深さに比例しているかのように僕は感じて、胃の奥がきりきり痛んだ。
「困ってる人を見捨てないこと。命を大切にすること。誰かを傷つけたりはしないこと」
先日、目の前の彼女に誓わされた三つの訓戒が脳裏によぎった。僕が、たったの一日すら守ることができなかった約束だ。今となっては確かめようがないけれど、確かにあの時僕はこの三つの約束を反故にしてしまっている。アザレアを見捨てて、ルミナ・サバトをおもちゃにして、四象の槍を磨き上げた。それに加えて、つい昨日僕はエリオットを暴力をもって恐喝した。従姉さんが何一つあずかり知らぬうちに!
僕は奥歯を強く噛んだ。違う。違うだろ。
そんな感傷に浸ってる場合じゃない、そもそもアザレアやアンナは死んでないじゃないか。僕の今やっていることは、誓いに反するようなことじゃないはずだ。仮に二人を殺したニセルミナが僕の見た夢だとしても、本物の愛情ルミナを殺したレインコートの殺人鬼の問題が解決したわけじゃない。
とにかく今は、ジルケ・ヘラーの個人情報を手に入れることが先決なんだ。情報は多いに越したことはないし、不確実とはいえモルペリアの力を借りれば、危険を切り抜けることも不可能じゃないかもしれないんだから。
こんなとき、ルミナ・サバトの動画を見せられれば説明の手間が省けるのに。いくら悔やんでも、こればかりはどうにもならなかった。
先日、寮の部屋に戻ってから何度かノートPCとスマホの両端末で各動画サイトにアクセスしてみた。しかし、目的の動画はやはり閲覧することはできなかった。どれだけ試しても状況は変わらない。規約違反で消されても、また別のユーザーが同じルミナ・サバトをアップロードするイタチごっこは依然として続いている。惨劇をおもちゃとして消費する不謹慎なコメントが縦横無尽に飛び交うのも、依然と同じだ。
違うのは、僕だけがその動画を見ることができなくなっているということ。
動画サイトのサーバにアップロードされている動画データならまだしも、僕の所有するローカルストレージに保管された動画もまた、墨塗りの検閲に遭ったかのようになっていた。特定動画だけを削除する酔狂なウィルスでも流行っているのだろうか。加えてモルペリア製電子機器に作用するウィルスともなると、僕にはお手上げだった。
「私が言いたいのは、亡くなった子がどうこうって話じゃないの。あなた自身が、危ないことに巻き込まれやしないかが心配だってこと。つい一昨日、私言ったよね?」
従姉さんがここまで言うのは、先日のドミニク率いる不良集団との接触があってのことだろう。
「覚えてるよ、誰も見捨てないし、命を粗末にもしない、誰も傷つけない」
僕はウソをついた。この場を切り抜けられればそれでいいとでも言わんばかりに、僕の舌は実に饒舌にお小言を受け流すが如くの反論を吐き出してみせた。
「エリオットに……頼まれたんだよ」
「彼が? いったい、何を?」
従姉さんの口ぶりからして、彼女もまたエリオットがジルケと懇ろになっていたことについて、正確に認識している数少ない一人だと僕は思った。
「ジルケ・ヘラーとの関係を聞いたんだよ、本人の口から。今の季節になると、いつも彼女のことを思い出すんだと。けじめを付けたいとも言っていた。ジルケの葬儀なんかは、表立って執り行われたりはしなかったんだろう?」
従姉さんは緩慢に首肯した。
「身寄りのいない子だったの。それに納魂祭を控えていたから、警察も学校側も話を大事にしたがらなかった。お葬式も、教員や私たち生徒会の人間だけが参列して、それでおしまい」
「だったら従姉さんだってわかってやってくれないか。あんなちゃらんぽらんな男でも、彼女の支えになってやってたのかもしれないんだ。それに僕ら、同郷のよしみじゃないか」
全部が全部、口から出任せだ。こめかみから冷や汗が伝うのを感じながら、僕はひたすら口を動かした。
「マスコミの奴らだって、嗅ぎまわってたのは最初だけさ。エリオット一人に住まいやお墓を教えてやったところで、あいつらが喰いついてくることはないだろ。従姉さんにしてみればいい気はしないだろうけど、僕らは別に亡くなった彼女を冒涜する気なんてこれっぽっちもないんだよ。だから、頼むよ。従姉さんにしかお願いできないんだ」
従姉さんは短くため息をつくと、手にした銀の鍵束のうち一本を観音扉の鍵穴に射しこんだ。施錠を外し、彼女はゆっくりと扉を開けた。振り向いた従姉さんは根負けしたかのような表情を隠しもせず、やがて穏やかな声色で、僕を図書館へと招き入れた。
「もういいわ。おいで、探してあげるから」




