夢はあなたを覗き込む 5
「び、病院……?」
「何なら、アタシが付き添いで一緒に行ったっていい。駅から歩いてすぐよ。あそこには心療内科があったはず。何もしないで悪化させるより、ずっとまし」
「僕はおかしくなんかなってない」
「アタシだってアンタが言ってることを全部夢だなんて思ってない」
「ゆ、夢だよ! そうとしか、思えないじゃないか」
そうであってほしい、愛情ルミナもニセルミナもなにもかもが夢や幻であってほしい。散々居もしない神様に懇願してきた事柄だった。それが夢なのか、それとも実在するのかすら定かではないのだから。
「そのおかしな夢を見せつけてくるのはどこの誰? アンタの、ここでしょう」
エリナは至って真面目に、僕の額に人差し指を押し付けてきた。
「アンタは人と違う才能を持って産まれてきた。それについては、アタシなんかよりメリッサさんのほうが詳しいでしょうね。もしかしたらその弊害で、そんな奇妙な夢に悩まされるのかもしれない。別にアンタが、件の殺人鬼とは違ったイカレ野郎なんじゃないかって言ってんじゃないのよ。そいつが胃癌を患っているのだとしたら、アンタの場合は単なる胃潰瘍で今のところは済んでるんじゃないかってこと」
「僕は、正常だ」
「だから、診てもらわなきゃわかんないでしょうが。いい、脳みそだって人間の内臓のひとつでしょ。不具合が起きてるなら治せばいいの。松果体にある魂に悪魔が憑りついた、だなんてホラ話で患者を判断する医者なんて今日日いないわ。そういう手合いも、もちろんアタシも、誰もアンタを気狂い扱いなんかしやしない。何もね、行ってすぐ頭蓋骨割って脳みそ直接いじくられてくればいい、だなんて無責任なこと言ってんじゃないの。なんだか普段に比べておなかが痛い、だったら胃薬でも処方してもらってきなさい。それと同じことよ。アタシの言ってること、わかる?」
まくし立てるエリナに、僕はやや萎縮してしまった。そのおかげで、乱れた鼓動と呼吸が穏やかに静まっていくのを感じた。
「そういう、ものなのか……?」
「そういうもの。とすれば、奉納演舞の件もキャンセルね。アタシからメリッサさんに伝えておけばいいかしら」
「い、いや、いいよ。自分で、言うから……」
いやに面倒見のいいエリナに、僕はどうにも接し方と距離感を判断しかねていた。
エリナの主張には一理ある。むしろ、ここまで腑に落ちる対応をされたのは初めてだった。自分がなにがしかの偏執病を軽く患っているという可能性を、角を立てずに指摘してくれたのは有難かった。憑き物が落ちた、とまでは行かずとも、エリナの冷静な語り口に僕はわずかに平静を取り戻せた気がした。
「まったく、体調悪いのにふらふら出歩いたりするんじゃないわよ」
週明けには診察のアポ取りに行くわよ、エリナはそう僕に言い切った。
「あ、ありがとう……正直、そんなに親身になってくれるなんて、思ってなくて」
「物見遊山で面白がるような薄情者とは違うの。付き合う人間くらい事前に選ばせてもらってるわ、お互い手助けするに足る人種をね」
そう断言してみせる小柄なエリナが、今の僕には何より頼りに思えて仕方がなかった。
何をするわけでなく、ただただ人の流れを目で追うだけの時間が安穏と過ぎていく中。
僕は、隣で佇むエリナに切り出してみた。
「実習棟の幽霊って、知ってる?」
「何よ、藪から棒に」
「噂でさ、聞いたんだ。アザレアから」
「ガセよガセ。誰もトイレで血まみれにされちゃいないし、一段多かったり少なかったりする階段から異次元に迷い込んだりなんかしてないわ。そういう話をいちいち真に受けたりするから、殺人鬼の妄想なんて見たりするのよ」
「その、噂の出処って知ってる?」
「知らない。興味ないわよ、軟派な連中がおもしろおかしくいじくり回す噂の一つの過ぎないわ。どうせ噂に尾びれだの背びれだのをくっつけるなら、もっと楽しい噂にすべきなのよ。それこそ、納魂祭の世界樹に願いを……」
「ジルケ・ヘラーについても?」
僕がその名前を出すと、僅かにエリナの頬がぴくりと引き攣った。
「アンタ、それが誰だか知ってるの?」
「名前しか知らないよ」
エリナは目元を手で覆い、俯きながらぶつぶつつぶやき始めた。
「そっか……そういやアンタとアザレア、春からの外部生だったっけ……」
「何年か前に、事件があったんだろ。ジルケ・ヘラーが……自殺する事件がさ」
「呆れた。本名まで軟派どものおもちゃにされてるってわけ? あんまり趣味のいい遊びじゃないわ。もしかして、エリオットあたりから吹き込まれたの?」
イエスともノーとも取れるよう、僕は頷きながら曖昧に首を振ってみせた。
教師のやる箝口令の真似事とやらもアテにならないものね、エリナは皮肉ったらしく肩をすくめた。
「エリナは、どれくらいそのことについて知ってるの」
「アタシだってそう大したことは知らない。あまり気持ちのいい話でもないし。そう深く首を突っ込みたがる方がどうかしてる。アンタも、悪戯に死人をおもちゃにするようなことはするもんじゃないわ」
「面白おかしく広めたりしようってんじゃないさ。ただ、たださ」
「ただ、何?」
「彼女も……その、心を病んでたって聞いたんだよ。今の僕なんか、比べ物にならないくらい……それで、シンパシーってわけじゃないけど、ちょっとでも彼女のことを知りたくなって」
「まあ……そう、ね」
僕の出まかせに対してエリナは返答に窮したのか、濁しながら言った。
「どの部屋に住んでいたかは、さすがに知ってるわ。でも、寮を引き払ってからの住まいのことはわからない。学校側に記録が残っていれば、調べられるだろうけど……アタシが分かるのはそこまで。でもアンタはジルケ・ヘラーにはならないわ。アンタは、彼女とは違う。上手く言えないけれど……少なくとも、アンタは彼女みたいに独りぼっちじゃあないもの」
「どういうこと?」
「彼女は、脳みそっていう臓器が患った病気をずっと放置し続けた。それに気づいてくれる周りの人間もいなかった。あの物好きエリオットを除いてね」
エリナは教え子を諭す教諭のように、柔和な口調で僕に語り掛ける。
「アンタは、自分の人生の主人公であろうとしてる。主役であることをやめたり、放り投げたりはしていない。アタシにはそう見えるもの」
「は……?」
エリナは二つ結びにした黒髪の先端を弄びながら、なおも続けた。
「ジルケ・ヘラーは、きっとそうは振舞えなかった。自分は主役じゃないと決めつけて、人生の端役を用意しなかった。舞台上に、誰一人として共演者を引き上げようとしなかった。昔から、そうだったみたい。ある日を境に、彼女は自分から両親と縁を切って天涯孤独になった。それからは寮に籠って、ずっと何かの研究に没頭し続けた。いつしかエリオットなんていう共演者を気まぐれで起用してみたはいいものの、結局彼女は死を選んだ。いい、アルフレート。自殺っていうのは、病死と同義なのよ。孤独は心を腐らせるの。傲慢は脳を病ませるの。ゆえに人は、時として自ら命を絶ってしまう。末期の癌が正常な細胞を食い荒らしていくのとまったく同じ。ジルケ・ヘラーは不幸だったわ。この学校の誰よりも、恵まれない死を迎えてしまった。あとに残るのは、ひしゃげた肉と骨の残骸だけ」
僕はエリナの白い喉元を見つめ続けていた。反論のための言葉が出てこなかった。滔々と語るエリナの言葉を、僕はただ無為に聞いていた。
「心を蝕む病魔は、いずれ人間を脳みそから追い出してしまう。この悲劇の主役を降りれば、無辜の観客として客席で観劇に勤しむことができる。あたかも、脳みそっていう内臓には人格が宿った魂ってものが収まっていて、死ねばこう、ふわふわ魂は身体から抜け出して違う世界に辿り着けるんじゃないかって。でも、それは単なる錯覚でしょう。心を病ませる癌が見せる、幻でしかないの。ジルケ・ヘラーは、そんな幻に打ち克つことができなかった。主演女優のジルケ・ヘラーは、眼前の客席目掛けて飛び降りたのよ。客席なんて存在しないのに。舞台の真下は断崖絶壁でしかないのに、ね」
「に、逃げることは……そんなに悪いことだっていうのかい」
「逃げる?」
「まるでエリナは、自殺は……逃げだって、言ってるみたいじゃないか。選択肢の一つとして、考えてみてもいいじゃないか。それこそ、個人の自由だよ」
「アンタは、自殺したいと思ってるの? それならアタシがそれを止めるわ。言ったでしょう、アンタはジルケにはならない、なれないのよ。アンタが立っている場所は、きっとジルケとは違う場所だもの。アタシが止められなくても、きっとメリッサさんやアザレアたちがそれを止める。きっとね。それが運のいいアンタと、不幸だったジルケの決定的な違いだわ」
「き……今日はやけに買いかぶるじゃないか」
「事実を言っているだけよ。アンタには、最高の抗癌治療薬も同然の環境がついてるの。アンタが主役をやめる必要なんて、どこにもないんだから」
エリナは照れ臭そうにそう言った。
「それにさ、さっきは散々それっぽいこと言ってたけど、アタシ個人としては、彼女のことは苦手だったのよね」
「ジルケ・ヘラーのことが?」
「気の毒だとは思うけれど、彼女が寮を出てくれてホッとしてくれたところ、あるから」
喉に小骨でも刺さったかのような口調で、エリナは言った。
「部屋に籠って、大声でたまに叫んでた。ここは私のいるべき世界じゃない、私はここの住人じゃないって。まるで、自分が別の世界から来たみたいに、ね」




