それはスタッフが片づけてくれたみたいに 2
平日に比べて、往来の多少少なくなった街を自転車で駆け抜けていく。目当ての書店までそう遠くはない。
マロニエの木々の木陰を潜りながら駐車できそうな場所を探していると、無遠慮に現実感をかき乱す光景が僕の目に飛び込んできた。
開けた街道の、歩道に面したオープンカフェの一席に、彼女はいた。日ごとに強まる夏の日差しを遮る白のパラソルの下で、アンナ・ヘーゲマンは読書に勤しんでいた。清潔感のある白のブラウスに紺のプリーツスカート。普段キャンパスで見かけるしなやかな長髪はハーフアップにアレンジされていて、その顔をはっきりと目にするまで、彼女が知己の仲であることに気づけなかった。
「どう……して……?」
堰を切ったように、僕の心臓が鼓動を高鳴らせる。何度目かの忌まわしいフラッシュバックが視界にちらつく。悲鳴。鮮血。胸骨。臓腑。糞便。遺骸。昨夜遭遇したばかりの悪夢、その一切合切が凝縮された、おぞましい一握の混沌。目をこすっても、深呼吸をしても、僕の視界を覆う鈍色のフィルターは取り払われなかった。狐に摘ままれているような気分だ。この世界の狐が魔術を使えるのかどうかはわからないが、地に足の着かない奇妙な浮遊感は、およそ快いものではなかった。
どうして君がそこにいる? 動けたはずがないだろう、俎板に縫い付けられた食用魚でしかなかった君が。蘇ったのか? 夥しい量の体液と臓物を路上に撒き散らしておきながら、通りすがりの賢者か何かに治癒の軌跡かなにかをかけられて、元通りになったっていうのか? それとも、ゾンビ? そのほっそりした腰回りの下には、痛々しくぽっかり抉られた腹腔が残ってるんじゃないのか?
「アルフレートさん」
僕が向かいの歩道でぶつぶつ逡巡しているところを目にとめたのか、アンナはこちらに小さく手をひらひら振ってきた。シカトするというわけにもいかず、僕もまた手を振り返す。すると彼女は、周囲に目を配るような仕草をしたかと思うと、僕を手招きし始めた。僕は恐る恐る、自転車を押して彼女の傍へと足を向けた。
アンナに促されるまま、僕はテラスの一席に腰を下ろした。店内からやってきた、ツェレファイス学園生だろう若いウェイトレスに、アンナは二人分のエスプレッソをオーダーした。
「アルフレートさん、お好みは?」
「あ、じゃ……ブ、ブラックで」
「私も同じものを。会計は同じで」
てきぱきとオーダーを進めてしまうアンナに一言入れようとしたが、彼女の片手に制されてしまった。踵を返したウェイトレスが注文を店内に持ち帰ると、彼女は言った。
「少しは先輩面させてもらえませんか?」
「でも僕、ただ通りかかっただけなのに、悪いよ」
「構いません。お急ぎのご用事でないようでしたら、ご一緒にどうかと思っただけです……少し私、卑怯でしたね。ごめんなさい」
「それは、別にいいんだけど」
アンナは手にしていた文庫本に栞を挟み込み、手元に閉じて置いた。目の前のアンナの肌に、血の気の抜けた襤褸めいた青白さはない。ブラウスには血の一滴、茶請けの焼き菓子のカスはおろか、コーヒー汚れだって着いていない。やや伸ばしすぎている指先の爪には欠損ひとつなく、肌にしろ、薄桃色の唇にしろ、元より色素の薄い性質ではあっても、彼女をゾンビと呼ぶにはあまりに健康的で身綺麗すぎた。
「アルフレート、さん……?」
さっと彼女は、自分の爪先を手の中に隠してしまった。アンナの仕草を目にするまで、あまりまじまじ見つめていた自覚がなかったので、僕はどうにも答えに窮した。
そんな僕を見かねてか、アンナは助け船を出すかのように口火を切った。
「アルフレートさんは、お散歩ですか」
「そんなとこ。ついでに裏通りの雑貨屋……パンドラ・ボックスって店だよ、ちょっと雑誌が入荷してるか見ておきたくて。大した用じゃないから、その……誘ってくれて助かったよ」
「まあ……」
アンナは白い頬を桃色に高揚させ、顔に両の手を当てて目を伏せた。エリナほどではないにしろ、彼女もまた独特の感情表現の方法を持つ人間だと思った。大人びた彼女らしからぬ幼い行為にも、僕はいささかの胸騒ぎを抑えきれないままでいた。
「あ、あの、ところでさ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい……何でしょう?」
「き、昨日……さ。リミノクスに行ったよね? 列車で」
「リミノクスに? 私が、ですか?」
「そ、そう。僕に借りた本を返しに、わざわざ僕を追いかけてさ」
「私が……ですか? 昨日……?」
アンナの表情が怪訝なものへと変わる。僕の言ったことが、自分の中で上手く噛み砕けていないようだった。口元に指先を重ねて、伏し目がちにアンナは質問に答えた。
「いいえ……昨日の放課後のこと、ですよね? 昨日はアルフレートさんと別れてから、そのままエリナさんと一緒に寮へ戻りました。リミノクスどころか、駅の方には用事はありませんでしたので」
「寮に……戻った? そのまま!?」
「ええ……恥ずかしながら、読み進めたい小説がありましたから」
「う、嘘……だろ?」
「嘘なんて、わ、私……言いません……」
唇を引き結んで露骨に哀しそうな顔をするアンナには、厳しくそれ以上追求することはできなかった。内向的ながら生真面目で誠実な彼女を、少なくとも一方的に責め立てるようなことは、僕もしたくはなかった。動揺からか、彼女の切れ長の瞼を豪奢に着飾る長い睫毛が、孔雀の翼のようにまばたいていた。
「お借りした本を……いち早く読んでみたくて」
アンナは傍らのチェアに置かれたトートバックに手をやった。その中から、彼女は一冊の文庫本を取り出した。ソフトカバーの、僕にとっては見慣れた、実に俗っぽい派手な表紙だ。
機甲戦史Zガングナー。アニメ制作会社ライジングによる、大河SFロボットアニメ『機甲戦史ガングナー』シリーズのノベライズ作品である。シリーズ二作目『機甲戦史Zガングナー』を題材に執筆された小説作品で、アンナが手にしているのはその第5巻である。表紙にはフルプレートの騎士を思わせる風貌の二足歩行戦闘機ガングナーMk-Ⅱが額の二本角と純白の装甲を煌かせ、バックパックにマウントされているビーム・サーベルを抜刀せんとする一瞬を切り取ったイラストが鮮やかに印刷されている。
商業主義一辺倒になりつつあった玩具業界に一石を投じるような群像劇と、昭和期における日本のアニメカルチャーの方向性そのものを定義づけたとも評される勧善懲悪を廃した重厚なシナリオが今なお語り継がれる名シリーズのひとつで、現在でもアニメやコミック、ゲームといった多様なメディアミックス展開が行われている古参のキャラクターコンテンツだ。
僕は比較的新参のガノタ、いわゆるガングナーオタクで、機甲戦史ガングナー007世代なわけだけど、口の達者なネットの古参ガノタ相手にレスバトルで言い負かされないための、知識による理論武装は欠かせないわけで、しっかりとシリーズ初期のZガングナーに関しても目を通している。初期シリーズは比較的陰惨でシリアスな物語運びが特徴なのだが、宇宙移民と地球至上主義者たちによる泥沼の世界大戦の末になお勃発する組織内紛争を主軸に据えた、ハードで乾いた作風がアンナの心を掴んだらしい。週明けに貸したばかりのはずが、もう完読してしまったというのか。
「とても稀有な読書体験をさせていただきました。地上各地を転戦させられる少年兵たちの限界状況を描いた最初期シリーズの焦燥感も魅力的だったのですが、『Z』におけるもどかしい人間関係のやり切れなさは、『1st』と比較して物的に恵まれている主人公たちだからこそ陥りうる葛藤のそれといえるのですよね。仮初の平和の中に育った多感な主人公が戦うべき相手がレイシズムに染まった体制というのも、時代の変遷を描写するための表現として受け入れられました。筆者の諷刺に関する筆致が、より色濃く厳しいものに移り変わっているように思えます。私、こういったエンターテインメントに類する娯楽小説を読むときには、どの登場人物が筆者の代弁者として設定されているのか目聡く探すのが好きなんです。私、実は書籍はあとがきから目を通すタイプで、その作者の人となりと主張も関連書籍や学術誌に寄せた論文内の思想だとかもメモしておいて、それからその人が娯楽の世界で何を風刺して、何を主張していて、腹の内では何を考えるのか想像するのが好きなんです。どういった経緯でこうした結末を用意しようとしたのか、どういった家庭環境でこうしたキャラクターを設定するに至ったのか、逐一すべてを察した上で読み進めていくと、筆者が欲しがっているもの、充足していないもの、憎んでいるもの、愛しているものが何となくわかってくる気すらしてくるんです。もちろんすべて私の妄想に過ぎないのですが、文壇でいくらそれらしい式辞を述べられる偉い先生方が、意外と可愛らしい向上心や自尊心に囚われているのではないかとひとたび類推が及んでしまうと、これがなかなかやめるにやめられなくて、わかっています、あまりいい趣味ではないのですけれど。よくいいますよね、文書や本は他人の思想活動の運動場に過ぎないと。でも人間の思考は千差万別ですし、運動場に生えている木々やその土壌、面積だって十人十色です、この主張自体に異を唱えるつもりはないのです、察するにこの論者は読書という行為そのものに目を向け、自身の思想を鍛えることを疎かにすべきでないという警鐘に過ぎないというのは火を見るよりも明らかです。無駄を廃して、その分野その分野のもっとも優れたる才能が編み出した結晶だけを己の思想の糧にせよという要請に他ならないのです。しかし私は在野の哲人から教えを乞うこともまた人間にだけ与えられた極上の特権に思えて仕方がないのです。諸民族における最上級の古典だけを摂取した秀逸な頭脳からは、このガングナー・クロニクルは発生しないでしょう。人間は考える葦、トリヴィアを熟れた果実のように扱うことのできる存在に産まれてその甘露を切り捨てるようなことはしたくないのです、そもそも人間に良書のみを選択できる能力が備わるなどという幻想こそ、それこそ思い上がりも甚だしい傲慢に感じて仕方がないのです。知性と思想を穢して犯す毒もまた教練と鍛錬に用いることのできる必要悪なのです、良書と悪書を嗜んでこそ健康で強靭な創作が成し得られる、つまりは文献や資料というのは自説の補強と割り切ることこそが濃密で有意義な読書体験にもっとも必要なものだと私は解釈しているのですが……」
「た、楽しんでもらえたようで何よりだよ」
ゆったりとした語り口から、徐々にエンジンが温まるにつれ、アンナの口ぶりは際限なく饒舌になっていった。マシンガントークを途中で遮られたことで、しばらく彼女はぽかんと口を開いていたが、やがてアンナは照れ臭そうに蚊の鳴くような声でそれを詫びると、再び目を伏せてしまった。
やがてウェイトレスがテーブルへとやってきて、僕らの目の前に真っ黒のエスプレッソを配膳した。人啜りすると、舌の付け根を刺す尖った苦さに僕は眉をひそめた。その様子を見て、アンナはなんだかもの言いたげに口元を少しだけ吊り上げていた。
「関心のあることだけ饒舌になるのは、不作法であまり褒められたことではない、そう自覚してはいるのですけれど」
「誰だって自分の好きなことは他人に言って聞かせたくなるもんだよ」
「こういったお話ができるのは、エリナさんやアルフレートさんだけだから……」
伏し目がちの彼女は、寂しげに微笑みながらカップを口元へと運んだ。ソーサーを手に、優雅にアンナは手元を傾ける。漆黒の液体から発する湯気の合間に輝く瞳の色は、緑色。メリッサと同じエメラルドの色めき。
緑色。
メリッサと同じ緑。
翠の瞳。水色のレインコート、フードの奥に光る色。
件の動画を思い出し、僕は奥歯を噛んだ。瞳を見つめられたのが気にかかったのか、アンナは自分の目元をそれとなく中指でなぞってみせた。目脂でも付いているのかと思い込ませてしまったのだろうか、僕は少し申し訳ない気分になった。
機甲戦史Zガングナー第六巻。この文庫本に、奇妙な違和感があった。先日貸し出したのは、同シリーズの第一巻から第三巻までの三冊のはずだ。彼女が第六巻を所持しているのを見るに、貸し出しの際に僕が巻数を間違えて渡してしまったということになる。
「その六巻……週初めに、僕が貸したやつだよね?」
アンナはきょとんとした表情で僕を見返し、間を置かずに答えた。
「いいえ。これは昨日アルフレートさんが私に貸してくれたものです。不都合がおありでしたら、今すぐお返ししますけれど」
何度か読み返したいシーンというのは、どなたにもありますものね。アンナのその返答に、僕は上手くもない愛想笑いを返した。冷や汗が首筋から背中へ緩慢に伝って行くのを感じた。
エリナの話によれば、アンナは返却しそびれた本を返しにわざわざ外泊する予定のあった僕を追ってリミノクスへと向かったとのことだ。この時点でアンナの手にあった書籍というのが、Zガングナーの第一巻から第三巻。しかし、彼女の話では昨日のお茶会で三冊のやりとりが行われたらしい。僕はメリッサ従姉さんからの呼び出しを受ける直前、アンナに第四巻から第六巻までを貸していたというのだ。その際、僕の手元に第一巻から第三巻までが返ってきたということになる。故にアンナには僕を追いかける理由などどこにもなく、リミノクスまでわざわざ足を延ばす必要もまた皆無なわけだ。
しかし、一体どういうことだ。リミノクスに行っていないというアンナの証言を鵜呑みにして考えると、当然彼女が殺される原因となるニセルミナとの遭遇自体がなかったことになる。目の前のアンナが嘘を言っているようには思えないし、昨夜の殺人とアンナを結びつける因果関係もまた霧中にずぶずぶと呑み込まれていく。僕が見たものは、全部夢か幻だったとでもいうのか?
アンナから文庫本を受け取り、カバーのかけ違えの線を当たってみるが、やはり間違いなくそれは第六巻だった。折れたり汚れたりしないよう、気をつけてはいるのですが。そんな言いづらそうなアンナの言葉も、どこか僕の耳を上滑りしていくようだった。本をアンナに返すと、僕はエスプレッソを一口すすった。
「では……まだ、読んでいただけていないのですね」
「読むって、何を?」
「いえ、あの……その、感想文、のようなものでしょうか。拙文ではあるのですが、感じたことをしたためたもので……よければ、アルフレートさんに読んでもらえたらと思って、本をお返しするときに挟んで……あ、厚かましいことをしてしまってごめんなさい、面倒なら捨ててしまって結構ですので」
「こっちこそごめん、その……気づけなくてさ」
帰ったら確認してみるよ、喉の奥で渦巻いている質問の数々を取捨選択しながら、僕はさりげなさに気を遣いつつ、彼女に問いを投げかけた。
「あのさ、ところでアザレアを見かけたりした? 寮でもどこでもいいんだ、彼女の顔を見たかな」
「ええ、日曜の夜に向けてシチューの仕込みをするとかで。寮の厨房にずっと籠りきりですよ」
ズキンと高鳴る心臓を押さえつけながら、僕は追及を続けた。
「それは……いつから?」
「今朝の……九時頃でしょうか? 一生懸命、リミノクスで買ってきた人参とかお芋を刻んでいましたね」
「アザレアはリミノクスに行ったって!?」
「ええ、アルフレートさんと一緒に……一緒に、行かれたんですよね?」
「えっと、ああ、まあ……ね。参考までに聞きたいんだけど、アザレアのやつ、なんかブツクサ言ってなかった? 僕がまたわがまま言っただとか、ホテルの部屋が汚いだとか……出かけた先で変質者に会った……だとか」
おかしな二人ね。僕の必死の解説を、さぞ微笑まし気にアンナは笑った。
「そうです、予約を取ったホテルの部屋に入った途端、壁がもぞもぞ蠢いてたんだって言ってました。最初は壁の模様かと思ったら、渦巻きや波の形に律義に並んだゴ……黒い虫、だったーって。ぼやいてましたね」
「そうか、聞いてたか。話のネタになると思ったんだけどな」
それらしく取り繕ってごまかす僕の表情は、さぞ引き攣っていただろう。
アザレアもアンナも生きている。
死んだはずなのに。殺されたはずなのに。
見ているものが、素直に信じられなかった。
僕の頭の中、どこかしらの部分が嘘をついているんじゃないかとすら思えてきた。
手放しで喜べない異物感が、胸の奥で鈍く胎動しているようだった。
「アルフレートさん……?」
「な、なに……?」
「ミルクとクリーム、もらいましょうか?」
朗らかなアンナの忠言に構わず、僕はカップを手に取ってブラックコーヒーを口に含んだ。熱かった。舌先の感覚が痛みと共にぼやけて薄れる。
果たしてこの温度は本物か。この痛みが、夢や幻でない保証があるのか。この熱が、この香りが、この苦みが、この色が、現実に存在するという証拠はどこかにあるのだろうか。何一つ、降って湧いた奇怪な疑問に対する答えを僕は持ち合わせていなかった。
この胃に沈殿する不可思議な不快感は、見栄を張ったオーダーに対する代償にしては、いささか余りあるものに思えて仕方なかった。