それはスタッフが片づけてくれたみたいに 1
時刻は午前十一時過ぎ。
二日連続で、僕はPCの前で眠りこけてしまったようだった。下げっぱなしのブラインドからこぼれる日差しは今日も眩しく、廃病院の一室の湿気を余さず乾かしていく。
「痛っ……てて」
上半身を起こすと、頭頂からまっすぐ釘でも打ち込まれたかのような激痛が走った。目の奥から痛みが高波を伴ってじくじくと波及し、吐き気が収まらなくなる。耳には空気の玉が潜り込んだような不快な圧迫感があった。僕は足下から瓶コーラを取り出し、一気にその中身をあおった。保管しておいた最後の一本だった。
昨日の昼から何も食べていないんだ、吐くものなんて残っていないはずだ。幸い一連の不調は時間を置いたら回復したので、キーボードの上に戻してしまうなんて失態は晒さずに済んだ。
「あ……?」
マウスを握って、僕はちょっとした違和感に苛まれた。喉に小骨が刺さったかのような、ほんの些細な座りの悪さだ。ディスプレイに映っているエックハルトの動画はそりゃ気味悪いし、アキヨシの態度も気に入るようなもんでもない。それらとは関係のない、もっとおかしな現象が目の前に鎮座しているような。
額に手を当てると、掌の皮膚には平熱の温度が返ってきた。やはりきちんとベッドでちゃんとした睡眠をとるべきだな。二度三度体をひねってストレッチすると、僕はディスプレイに向き直った。
アキヨシ:2023/6/10/02:26
エックハルトは死んでいる
「エルンスト・エックハルト……」
睡眠をとったことで、昨晩よりかは幾分クリアに物事を考えることができそうだった。
改めて、その怪人物の名前を口にしてみた。やはり心当たりはない、昨日視聴した動画で初めてその存在を知ったのだから。何より気味が悪いのは彼の顔かたちだ。不細工ってわけじゃない。なぜ、この男はエリオット・アイスラーと瓜二つの顔を持っているのか、ということだ。
他人のそら似で片づけられたらどれほど簡単だろうか。残念ながら、胡散臭いアキヨシや愛情ルミナとの繋がりを考えると、どうしてもその関連を疑わざるにはいられない。
僕ことアクセルとアキヨシの会話は、アキヨシによるエックハルトの死を伝えるものを最後に途絶えていた。仮にここで僕が癇癪を起こして事実を催促したって、望んだ答えが得られるかどうかは微妙だった。
一縷の望みにかけて、僕はエックハルトの名前を検索エンジンに入力してみた。同姓同名のドイツ人だかポーランド人だかの執筆したアカデミックな書類がズラリとヒットし、残念ながらあの電波ゆんゆんの怪しい外人に関する役に立ちそうな情報は得られなかった。
「エックハルトには……近寄るなって、言ってたよな」
アキヨシの弁から察するに、エックハルトもまた僕と同じ転生者である可能性が非常に高い。こちらの世界で愛情ルミナの肉体をエックハルトが手に入れたとすれば、アキヨシのこの提言にも頷けるところがある。エックハルトがどんな人となりだったにせよ、現状どうしようもなく危ない野郎だというのは十分に理解できる。
「そんなことまで僕に忠告して差し上げられるアンタは一体何者なんだよ……」
以前、僕はアキヨシは転生者ではないかという予想を立てたが、こちらと現実世界を広く俯瞰でもしているかのような物言いには、どうしても不審を隠せなかった。自分は味方だという主張をどこまで信じてよいのか、もしくはそれは単なる出まかせの虚言でしかないのか。推し測る術を、僕はまったく持ち合わせていなかった。
置き去りになっている問題としては、なぜエックハルトはエリオットの顔を持っているのかだ。もちろんどっちがどっちを模倣したかなんて分かるはずがない。エリオットとは昨日今日の付き合いではないし、その事実はメリッサ従姉さんにでも聞けば裏はとれる。
それじゃあエックハルトが何らかの手段を講じて、言っちゃ悪いが大した学術的功績もないいち学生に過ぎないエリオット・アイスラーの顔に近づくための整形を自分に施した理由というのはなんだ? 端整な顔立ちをしている男ではあるが、エックハルトにして何のメリットがある?
そもそもエックハルトは、エリオットの顔立ちをどうやって知ることができたんだ? 僕の分かる限りでは、エリオットが転生者と関わりを持ってAtuberをはじめとする活動をしていたことなんてないはずだ。この辺りは確認が必要な案件ではあるんだろうけど。
「ヒントが少なすぎるよ……」
モルペリアに聞くことができれば楽なんだけど。僕は背後を見やった。
元は診察室と待合席を隔てるパーテーションとして利用されていたであろう白カーテンだけが、年季の入った丸イスの傍らで静かに揺れていた。
警察にでも洗いざらい話すかと考えた。しかしルミナ・サバトの件に関しては、あそこまで熱心に現場を掃除してのける割に、肝心のニセルミナ――――アンナとアザレアを殺した奴が野放しになっているとなると、手放しに頼りにできるような組織には思えなかった。とはいえ腐っても治安維持を目的とした集団だ、一応僕はツェレファイス警察に関する情報をスマホに落とし込んだ。
となると、僕にできることと言ったら一つしかない。戦うことなんて考えている場合じゃない、とにかく身を隠すことだ。リミノクスから離れて、どこか堅牢な守りを要した場所に。とにかく事件現場から距離を取って実家に身を隠すこともできるだろうが、セキュリティの面ではこの廃病院に劣るだろう。場合によっては僕に近しい立場の人間をここに集めて籠城するんだ。エリナとメリッサ従姉さん。ドミニクは、気が向いたら助けてやろう。エックハルトとの関係性が不透明なエリオットについても保留だ。
「十二時か……」
人間どんな逆境に陥っても、腹の虫は鳴くものだった。買い置きのピクルスの瓶も残り少ない。気は進まなかったが、僕は一度寮の部屋に戻る支度を始めた。あちらの自室にはコンセントがないので、スマホと一緒に充電済みの携帯用バッテリーを鞄に放り込んだ。
「本屋にも目を通さなきゃな……」
こちらの世界のことを知るためには、わざわざ外出して周遊する必要などない。ネットにはAtuberファンの有志がまとめあげた、ツェレファイス地方まとめwikiなるサイトだってある。異世界人である動画配信者の発言から組み上げた、いわゆる舞台設定めいた情報の数々を、整合性のとれるように編纂した地図だってアップされている。
とはいえ、こちらで起きた事件はこちら側の人間が一番よく把握しているに違いないのだ。いかにネットの有志が情報収集に目聡いとはいえ、昨日今日の事件については現地の人間が発行するメディアソースの発行スピードに敵うはずがないのである。お下劣三流雑誌にしろ偏った思想の新聞にしろ、少しでもルミナ・サバトやニセルミナを扱う記事が載っているのであれば、今の僕にとってはとにかく有力な情報源に変わりないのだから。
廃病院からツェレファイスの繁華街までは、モルペリア製マウンテンバイクで十分もかからない。見た目は現実世界における黎明期のしょぼい自転車だが、こちらは八段変速搭載のスーパーバイクだ。そこらで乗合馬車を拾うよりもずっと早く市街を移動できる。
瑪瑙をあしらった古い尖塔が多く聳えるツェレファイスの下町を勢いよく駆け抜けて、小高い丘に差し掛かっても、疲れることなく頂へと走りきることができた。そこでは世界樹の幹に連なるツェレファイスの学園が一望できた。季節は初夏からじきに盛夏へと移り変わらんとしていて、視界の六割を占めるツェレファイスの神樹は、年若い青々とした新葉を深い森のように茂らせていた。
「いるんだったら御利益でもなんでもよこしてくれよ、神様……」
額の汗を袖で拭うと、僕は坂道を一気に駆け下りた。