禁断症状 1
喘ぎとも唸りとも区別のつかない声は、既に聞こえなくなっていた。
女の声を頼りに追跡する直輝が袋小路で目の当たりにしたのは、連日閲覧していた殺人動画の再現。初夏にも拘らず、周囲には体温をかすめ取っていく冷気が充満しているような気さえしてくる。
何度も視聴し、無責任な集合知たちの垂れ流す不謹慎極まりないコメントと共に娯楽として消費していたルミナ・サバト。目の前に広がる状況には、狂気と悪寒を薄れさせるおちゃらけたフィルタがかかっていなかった。
聴覚や嗅覚はいつにも増して鋭敏になっていた。寒気からか、それとも恐怖からか。手足の末端は氷のように冷え切り、細かに痙攣し始めた。両の脚は、胴を支えるための棒のようなものだった。関節は固まって動かせない。走っていた最中には気づかなかったが、さきほどゴミ捨て場に足を突っ込んでいたらしい。ズボンの裾にこびりついた野菜くずや腐汁が悪臭を発していた。その臭いに眉をひそめる余裕すらなく、嗅覚は濃い鉄の臭いを捉えるだけで精いっぱいだった。ぽかんと開いた口からも、解体されつつある眼前の哀れな獲物が放つ臭気が入り込んできていた。
ここ十数年、鯵の開きを食べることには久しかった。
もともと魚介類を好んで食す質ではなかったし、港町のリミノクスがいかに近いとはいえ、無理矢理アザレアに食卓に着かされるのを除けば、ほとんどお目にすらかからない。
石造りの白い壁に打ち付けられた彼女の有様は、ちょうど喉笛から鼠径部にかけてパックリ断ち割られていた。漁師が使う銛のようなものが、女の白い喉元を貫いていて、その肉体を俎板に縫い付けていた。露出した胸骨は力任せに開帳させられ、そこにあるべき肺腑はみすぼらしく萎れてぶらさがっていた。たっぷりとした大ぶりの乳房は、観音開きの扉のように左右あらぬ方向を向いていた。市場で見かける羊肉の塊みたいだと直輝は思った。血抜きが中途半端なので、舌の肥えた利口な猫たちの餌にはなりそうになかった。
夥しい量の体液と共にみずみずしい内容物が足元に飛び散り、冷気の中でほかほかと白い湯気を伴っていた。色合いはほんの稚気から掻き混ぜられた絵の具のようで、赤と白と桃色と、それからくすんだ黄土色がぶちまけられて、渾然一体になっている。積み重なった臓物の上に、土色の塊と黄色い液体が零れ落ち、ぼとぼと音を立てた。
彼女の纏う衣服には見覚えがあった。まるで喪服みたいで地味だと、幼馴染の少女が苦言を呈するほどのシックな佇まいを見せる、学校指定のジャンパースカート。ほぼ毎日目にする、ボリュームあるリボンが目立つツェレファイス学園の女子制服。やたらと大ぶりで目を引く赤いリボンが供花みたいだと、アザレアは言っていた。エリナもそれに賛同したし、メリッサは制服の改案を風紀委員に提示するとお茶を濁した。
アンナはリボンを気に入っていた。薔薇の花弁のようで美しい、シンプルに黒の生地に映えて印象的だから。アザレアは彼女の感性に反発した。エリナもそうだった。メリッサはどちらにも肩入れせずに微笑んでいた。
直輝の目の前のリボンは、彼女の鮮血によってやや暗めの赤に染め直されていた。一見して、リボンは目立ちすぎることはないようだった。新たに割り開かれた彼女の腹腔が、新たに咲いた薔薇のように主張していたからだ。
驚愕と狼狽と激痛に果てた少女は、すでに声を発することはなく、曇った両目が虚空を凝視し続けていた。鎖骨に達するほど長く垂れ下がった舌を見ると、直輝にはこれが言葉少なな彼女の小さな唇に収まっているようには思えなかった。
その傍らに立つのは、少女を殺めた処刑人。空色のレインコートに身を包んだ殺人者――――では、なかった。下手人もまた、年端もいかぬ少女。項を覆うシンプルな三つ編みは、煌びやかな黄金のブロンド。立ち振舞に見覚えはなかった。ただ、奇妙な既視感だけが直輝の思考にへばりついた。正気という名の船の底、一目見るのも憚られるほどに醜く、肥大しきった癌細胞の如くに群れ広がる夥しい藤壺の群体。
この不快感は、なんだ。この既視感は、なんだ?
「アン……ナ……?」
震える喉から、不意に骸となり果てた少女の名前が押し出された。
貞淑な少女だった。つつましやかな少女だった。自己主張が上手くなくて、口下手で、だけど誰より思慮深くて、思いやりを感じさせる少女だった。そんなアンナが、死んでいた。命を奪われるほどの罪など犯しようもない、あのアンナが。
アルフレート・シルヴェストリは、何一つの非もない無辜の少女の断末魔に娯楽性を見出していたわけだ。惨殺されゆく己の不幸、眼前の脅威にもだえ苦しみながら死んでいったアンナ・ヘーゲマンの絶叫を、幸島直輝は凌辱していた。エンターテインメントの一環として、消費した。いかに冒涜的な行いを笑い飛ばせるか、そんな不特定多数を相手にしたチキンレースに、価値観が慣れ切っていたから。
愛情ルミナが死ぬところをどれだけ観ても、心は痛まなかった。ただ、今回は違った。この冒涜は、してはいけない冒涜だった。可能な限り避けていた、自分の心が痛まない類の冒涜だと思い込んでいたがために。
突然、軽快なメロディが沈黙を引き裂いた。聴き馴染みのあるポップな旋律は、直輝が平時から愛用しているスマートフォンからの音だった。
「アキヨシの奴……!」
悪態をかみ殺すのと、殺人者がその音に反応して振り向くのとは同時だった。緩く編まれた三つ編みと共に、返り血をたっぷり吸ったスカート裾が重たげに翻った。
紺と白のワンピースに、細身の体つきには不似合いな大ぶりのナイフ。アンナの喉笛をかき破ったものと合わせて、この二つが少女の獲物らしかった。
彼女の相貌を、直輝は知っていた。忘れるはずもない。リミノクスの港町にわざわざ足を運んだのも、すべてはこの顔を持った少女が発端となって起こった事件なのだから。
「愛情……ルミナ……」
愛情ルミナのナイトアワー、あの低予算Atuber動画の顔役。暇さえあればネット掲示板を閲覧する合間に再生していた動画で、ずっと彼女はふざけくさってはレインコートの殺人者に殺されるというループを繰り返していた。何度も何度もリピートして、直輝はその顔を頭に刻み込んでいた。髪型や服装が変わっても、誰かと見間違えるはずがなかった。
「お、お前、お前っ!! 何てことっ、し、してんだよお!!」
やっとの思いで絞り出した威嚇は、果たして少女に届いているかは疑わしかった。混乱にかき回される義憤の中、直輝は生れてはじめて、誰かを殺傷する意図の感情を乗せた魔術現象を思考で練り始める。これまで幾度もイメージしてきた、確実な勝機。それこそが、四象の槍――――フォースオブエレメンタルと名付けた、独自の能力。形式に囚われない自由な発想によって確立した、異端児による異端の必殺魔術だと、以前行った予行演習でエリナに称されていた。圧縮した魔力で編んだ巨大な鏃によって敵を制圧する、護身能力にして直輝最大の武装だった。
「何とか、言えよっ!!」
半ば癇癪を起すかのように、直輝は編み上げたばかりの鏃を少女目掛けて射出する。赤、青、黄、緑。四色に輝く鏃の数々が、軌跡を描いて愛情ルミナへと駆け抜けていく。
命中。
しかし、未だ少女は健在。
その白い柔肌を射貫くことはなく、金の髪を焼くこともなく、四つの鏃のいずれもが、愛情ルミナに触れた途端に砕け散った。まるで、鏃には元から誰かの命を奪うなどという大仰な能力など備わっていなかったかのように。鏃の欠片は、乾いた土塊のような粉末状になって、少女の足元に流れ去っていった。
殺人者を制圧できるだけの手札は、もはや直輝のもとにはなかった。丸腰も同然だった。
さほど間を置かずに思考を支配したのは、生存本能に基づくもの。逃げなければ。殺される。死にたくない――――少女の手元で煌く刃が、上位者の牙の如くに輝いていた。愚鈍な羊の血を啜りたくてたまらぬと、捕食者に与えられた愉悦を満喫しているかのよう。
「やっと、見つけた」
しかし次に少女の発した言葉は、直輝の予想から外れた意外なものだった。
顔に浮かぶのは憐憫と、そして溢れんばかりの慈愛。フレスコ画の聖母を思わせる柔和な表情と共に、薄桃色の唇から紡がれたのは――――
「ナオキ、にいさん」
愛情ルミナの笑みを、これ以上視界に入れておきたくなかった。動画で散々見せつけてきた愛想笑いなどとは根本から異なる、直輝にとっては解読不能の感情表現だった。不条理と理不尽に蹂躙されるこの状況から、いち早く直輝は脱したかった。痙攣する腿と脹脛に鞭打ち、直輝はその場から駆け去った。
「わけ、わかんないよッ、どういう、ことなんだよおッ!!」
誰に問うわけでもなく直輝は慟哭する。
ほんの少し前には、好奇に満ち満ちた心持で歩を進めていった道のりを、真逆の感情に突き動かされながら走り抜けていく。後ろを振り返る余裕など皆無だった。あの女が、あの殺人鬼が、処刑人が、愛情ルミナが、自分を追ってきているかもしれなかったから。
足音が追ってきている。背後からだ。間違いない、あの女だ!
走り続けているのに、全身を悪寒が包んでいた。頭蓋に汚泥を詰め込まれ、シェイクされているような気分だった。嗅覚が路地の悪臭すべてを察知して、その刺激からか胃液が咥内へと逆流してくる。苦い、酸っぱい、不味い、気持ちが悪い。三半規管も正常とは言い難い、内耳の異物感が肥大化するような錯覚すら感じる。視界が揺れる。ちかちかと明滅して、かと思えば七色の色眼鏡を通したかのような異彩を強引に見せつけられる。
――――まるで、麻酔が――――
――――あるいは、麻薬の甘露が途切れるように――――
三度目の突き当りを曲がってしばらくして、直輝はうずくまって嘔吐した。シュリンプサンドのオーロラソース和えが、水っぽい吐瀉物として壁にぶちまけられた。
まだ、足音が聞こえてくる。そんな気がする。まだ撒けてなんていない。身震いを抑えきれない。あいつが、銛とナイフを携えた狂人が追ってくる。アンナを殺した愛情ルミナが、次は自分を殺しに来る……! 殺されたはずのあの女が、今でもスマートフォンを操作すれば、すぐにでもその骸を確認できる愛情ルミナが!!
「アル」
「ひっ……!?」
聴き馴染みのある声すら、今の直輝には恐怖の対象に他ならなかった。
「ね、ねえ、どうしたの? 具合、悪いの?」
「ア、アザレア……!?」
つい先ほど別れたばかりの幼馴染が、なぜこんな場所に居るのか。皆目見当がつかなかった。吐くほどだなんてよっぽどだよ。こちらの身を案じるアザレアは、屈みこんで直輝の顔を覗いた。
「顔、真っ青だよ。病院行って診てもらおう、さっき行ってきたばっかりだから、道だって覚えてるよ」
「な、何でついてきたりしたんだよぉ!?」
「たまたまだよ。薬を貰ってホテルに帰ろうと思ったら、アルを見つけてさ」
「ふ、ふざけろ、何考えてんだ……逃げろ、早くこっから逃げるんだよ!!」
「な、何でよ……何があったの?」
「アンナが……アンナが、死んでた。殺された」
「は……?」
「知ってるだろ、アンナだよ、アンナ・ヘーゲマン! あ、あっちで、こ、こ、殺されてたんだ。の、ノドと、腹を裂かれて……ち、血がそこらにい、いっぱい……」
「じょ、冗談……でしょ?」
「冗談なんかじゃない!!」
意図せず激高してしまったことを、間もなく直輝は恥じた。萎縮するアザレアの手を取って立ち上がろうとした、その瞬間。黄金の頭髪に白んだ輝きをたたえた殺人鬼が、突き当りの壁越しに、こちらの顔を見定めた。
「あ、あいつだ。あいつが……アンナを……」
後ずさり、アザレアの手を引いて駆けだそうとした。その勢い余って、彼女は転倒した。
「ア、アルっ!?」
緩慢に立ち上がろうとするアザレア。足首でも挫いたのか、たったの数秒であってもじれったく直輝は思った。愛情ルミナがこちらへとなおも歩み寄る。
直輝は、その威圧に、屈した。
アザレアに背を向けて、脅威から遠ざかろうとした。生物として当然の選択だった しかし、その無防備な足首が掴まれた。背筋が氷点下にまで冷え切る。足首を鷲掴んだのは、焦燥にかられたアザレアだった。
「待ってよ、アル……い、行かないで」
「や、やめろ……離せ、離せよ!!」
「行かないでよ、死にたくない、助けてアル」
「離せよ!!」
「アル、すごい力があるんでしょ!? 早く、あれやっつけてよ」
「うるさい離せえっ!!」
渾身の力でアザレアの腕を踏みつけた。二度、三度、四度。五度目でようやくアザレアの束縛から解放された。彼女の顔は見なかった。それ以上に、あの忌まわしい殺人者の姿を目の当たりにしたくなかったからだ。
「アル、アル!! 助けてアル!! アルフレートぉ!! アル助けて、もう生意気言ったりしないからあ!! お願い戻ってきてアルフレート!! 助けてえ……助けてよお……何でも、何でもします、何でもしますからあ!!」
耳をふさいだ。
もう聞きたくなかった。
殺人鬼の妄言も、何もかも。
しかし、アザレアの断末魔だけは、掌の覆いを貫いてしっかりと脳裏に刻み込まれた。
ホテルに戻ったのは、午後九時頃だった。アザレアの断末魔が聞こえた気がした。
部屋に飛び込んで荷物を纏め、チェックアウトした。アザレアの断末魔が聞こえた気がした。
すぐさまその足でツェレファイス方面行きの最終列車に乗り込んだ。アザレアの断末魔は、途絶えることはなかった。
習慣のように、気づけば直輝はスマートフォンを手にしていた。
アキヨシからのメッセージが五件ほど未読のまま放置されていた。
少しでも気が紛れればそれでいいと、直輝はアプリを開いた。
●新規トーク(3)
めりっさ:2023/6/09/19:38 新着
すまーとほんありがとうだいじにします
めりっさ:2023/6/09/19:46 新着
おそくならないようにねあぶないところにいっちゃだめだよ
‐新規メッセージは2件です‐
●新規トーク(2)
アクセル:2023/6/07/02:44
ごめん、明日あたりから夜更かしできなさそう
アキヨシ:2023/6/07/02:45
ん、おかのした
アキヨシ:2023/6/08/17:06
サバトの場所、特定されちゃいましたね。凸しちゃう感じですか?
アキヨシ:2023/6/08/18:26
20200309samsara04.mp4
アキヨシ:2023/6/09/16:04 新着
これ知ってる?
アキヨシ:2023/6/09/16:04 新着
こんときの事件の関係者けんましてきた連中がいてさ
アキヨシ:2023/6/09/16:04 新着
アクセルさんが住んでるとこ、ツェレファイスって言いましたっけ?
アキヨシ:2023/6/09/19:25 新着
彡(゜)(゜)
アキヨシ:2023/6/09/19:56 新着
幸島千彰って聞いたことある?
‐新規メッセージは6件です‐