15年目の高揚 9
リミノクスに到着したときには、時刻は午後五時を少し回っていた。どの建物からも夕餉のかぐわしい芳香が漂い始める時分だ。海峡を挟んだ向こう岸にあるフランニスという交易都市とは、一日に何便もの船が行き来している。読めない文字で内容物の情報が記された木箱が市場には立ち並び、肌の浅黒い外国の船乗りたちの姿もそこここに見受けられる。異国のものだろう、嗅ぎ馴染みのない香料のにおいが新鮮だった。
初夏の時分の日没にはまだ余裕があるため、先に予約を取っておいたホテルにチェックインすることにした。シングルがもう一部屋空いているらしいので、とりあえずアザレアのためにもう一部屋ぶん借りた。安宿の部類に入るので、ポケットマネーでなんとかなった。
割り当てられた部屋で荷物を整理し直し、リュックサックを背負って部屋を出ると、そこにはアザレアの姿があった。これ以上妙なことを口走られても困るので、追加したディナー付きの宿泊プランで機嫌を直してもらえればいいんだけれど。
「あ、あの……アル……」
「べ、別にお金は気にしなくていいよ。それなりに蓄えはあるし……アザレアが気にすることじゃない」
「そうじゃなくて、その……どうしてもちょっと、謝っておきたくて」
「謝る?」
「さっきのこと。あたし、あんな失礼で、品のないこと言うつもりなかったの。アルにも物凄く失礼なこと言ったかもしれなかったし、それで」
「僕は気にしちゃいないよ。きっと、環境が変わって疲れが出ただけだ。疲労をなめちゃいけない、とりあえず食事を摂ったらすぐ寝てくれよ」
「うん……」
「医者と馬車を手配したから、少し休んだらフロントに行ってくれ。いいね?」
「うん」
しおらしくうなずくアザレアは、雨に濡れそぼった子犬のようだった。確かにさっきの烈しい口調には面食らったが、口走った本人はそれ以上にショックが大きかったらしい。悪寒に耐え忍ぶかのように、右手で左の手首をきつく握りしめている。
「邪魔しちゃってごめん、アル」
痛々しげに口元を歪めて、アザレアはそれだけを絞り出すように言った。僕がそれに相槌をうつと、彼女は陰鬱な足取りで自分の部屋へと戻っていった。
ホテルを出ると、僕は迷わず市街中心部から北東方面に足を向けた。大判の雑誌で隠したスマホを片手に、目的地へと早足で歩を進めていく。体を動かして温めないと、アザレアの変貌に充てられて自分もまたどうにかなりそうだったからだ。
これから殺人鬼と相対しなければならないって言うのになんて様だ、マーブル模様みたいに混濁する自分の思考を、僕は自嘲がちに噛み締めた。
「疲れてるのかな、僕も……」
さっきアザレアにかけた言葉を頭で反芻する。確かに、最近PCやスマホでルミナ・サバト事件にかかりきりで、まとまった睡眠時間をとっていない。だからこそ昨日は講義をブッチぎり、今日は遅刻をかましてアザレアがブーたれたのだ。目と目の間と眉間を揉んで、改めて僕はスマホに目を落とした。
リミノクスとその周辺地域の地図は、画像データとしてスマホに収めてある。よもやこれで道に迷うなんてことはないだろう。石灰の白を基調とした港町の外観を見るに、確かに一度迷えば数時間はドブに捨てる羽目になりそうだ。
これから向かう山林は、徒歩でもニ十分弱で向かえる郊外の一角にある。つまりルミナ・サバトの現場は強靭なクワガタモンスターが頻繁に出没するような辺境の山中ではなかったのである。この件は故・愛情ルミナのヤラセ案件として、過去の投稿動画と合わせて界隈の住人にネタにされている。
特定された撮影場所である山林は、山林と言っても地域住民が頻繁に立ち入るような整備された遊歩道から道を外れ、やや深い雑木林に入った辺りの地点だった。こんな中途半端に開けた場所に、人食い魔法生物がいる道理などどこにもない。
しかしそんなAtuberの失態に呆れるよりも、殺人現場に足を踏み入れるという興奮のほうがやや勝っていた。ライトやランタンの灯が必要なほど、辺りはまだ暗くなってはいない。地面を覆う藪の背丈は高くなく、視界が制限されているという感覚はなかった。
改めてリミノクスの大灯台の方へと向き直る。灯台の灯を目印に十分ほど歩きまわると、驚くほど簡単に動画の現場と思しき地点へとたどり着くことができた。周辺に立ち並ぶ木々のコブや洞などを確認し、それらが動画内のものと一致しているかもチェックする。
「間違いない、ここだ……」
ここで愛情ルミナとスタッフの男は殺された。
スマホと目の前の景色を交互に見比べる。無造作に立ち並んだ木々。そして少し視界を動かせば、雄々しく聳えるリミノクスの大灯台。足りないのは、激しい露出で視聴者の劣情を煽るスケベエルフの存在だけ。
「け、血痕とか残ってるわけは……ない、よな」
足元は水気を含んだ土だ。周りに殺人の痕跡になるようなものは見当たらない。ならここはカッコつけて科学捜査の真似事でもしてやろうかと思ったけど、モルペリアにルミノール試験液をよこすよう打診したらどれだけ待たされるかわからないことを考えて、やめた。
「あのレインコートのヤツ……死体はどうしたんだろう」
そう浮かんだ疑問は至極当然のものだった。人間どころか動物一匹の死骸さえ辺りにはない。となれば、リミノクスの所轄警察だかの治安組織が片づけたんだろうか。だとすれば新聞といったメディアで報道されないわけがない、ましてやこんなにも都市部に近い場所での犯行なんだ。にも拘らず、ここ数日ぶんのメディアにどれだけ目を通しても、それらしい記事を見つけることはできなかった。よしんば報道規制みたいなものが敷かれていたとしても、完全に事件そのものを漂白するみたいに隠し通すなんてできないはずだ。
情報が依然として更新されているのは、無責任で下世話な集合知によるものだけ。スマホやPCで閲覧できるネット掲示板やSNS以外に、ルミナ・サバトを追うに足る足跡は残っていなかった。
僕と同じようにネットを使いながら事件に興味を抱くリミノクス在住の転生者でもいれば話は別なんだけど、都合よく周りに同じ境遇の人間なんか見つけられるはずがない。そもそも、自分はお前と同じ転生者だ、などと軽薄に露呈して回るようなバカとなんか遭遇したくもない。そんなヤツと関りなんか持ったら、百害あって一利なしだ。
しばらく辺りを這うように、あわよくば凶器の証拠でも残ってないかと探してみた。遊歩道の管理小屋からスコップを失敬して、辺りを掘ってみたりもした。
リミノクスの警察ってのは、どうやら本当に有能な集団らしかった。もしくはレインコート野郎の手際がよっぽど良かったんだろう。木の洞に愛情ルミナのバラバラ死体が隠されてるわけでもなく、土の下にスタッフ一同仲良く埋葬されているわけでもなかった。
僕の捜査は、まったくの徒労に終わってしまった。
「空振りかよぉ」
これで手ぶらで帰ったら本当にカッコ悪いぞ。ただただ殺人現場に遊びに行って興奮するだけの、ミーハー野次馬野郎で終わってしまう。犯人をやっつけてどうこう以前に、ネットのバカどもを黙らせられる燃料になりそうな面白いものを用意できずに凸レポなんてしようものなら、無能の目立ちたがりというレッテルを貼られて総叩きに遭っちまう。
ただ、無事に帰ることができるという安堵による鼓動の高鳴りは存外に心地がいいものだった。取るに足らないガキみたいな冒険心の充足に、僕は少々気分が浮足立つのを感じていた。
やがて西日が水平線へと沈み切り、辺りには紫がかった暗闇が漂い出した。僕はあまり帰りが遅くならないよう、ホテルに戻ることにした。
遊歩道から中心街へ戻ってきたのは、午後七時過ぎのことだった。替えは持参してきているとはいえ、シャツもスラックスも泥と草の汁で薄汚れている。早いところシャワーでも浴びて着替えたかった。
アザレアのことも心配だし、ホテルへ向かう足が早まるのは自然なことだった。
往来の少ない郊外から繁華街へと入るそのはざまで、僕は聞いた。
頑丈な布地を無理やり引き裂くような、女性の絶叫を。
耳の奥で記憶の底から浮上してくる、それと酷似した金切り声。
路地の奥の暗闇から響き渡る叫びは、絶命してなお愛情ルミナが生者に救けを求めているかのように思えた。最近普及し始めたばかりのガス灯の頼りなげな灯を頼りに、僕は紫紺に塗りつぶされゆく港町を駆けだした。
功名心がうずいている。好奇心が喚いている。
惨状を目指して、成功譚を掴みたくて、僕はアリの巣みたいに細く曲がりくねったリミノクスの裏路地を走った。途中、スマホの着信音が鳴ったけど無視した。動画を送り付けてきたアキヨシの催促か何かだと思って、手にも取らなかった。
足がもつれても、息が乱れても、僕は一心不乱に暗闇を駆け抜けていった。