97.奇跡
分隊に解散を命じて、強引にビアンカさんを連れて歩き出した。
同僚がなにか言いかけたが無視して歩く。
俺に手を引かれてもビアンカさんは抵抗することなくついてきた。
暫く歩いて、人の姿が無くなってからようやく手を離した。
「家まで送ります」
今夜はあちらこちらで夜間巡回が行われている。
ひょっとしたらまた捕まってしまうかもしれない。
だが、制服姿の俺と一緒ならば問題はない。
ビアンカさんは呟くように返事をして歩き出した。
「私はクビでしょうか?」
「そんなことはないです」
人にはそれぞれ事情があるのだと思う。
ビアンカさんの家は河川敷に建てられた小さな掘立小屋だった。
「どうぞ……」
促されてなんとなく室内に入る。
掃除は行き届いているようだが、がらんとしてかび臭い部屋だ。
「座ってください」
抑揚のない声で勧められた。
「いえ、もう帰り――」
突然ビアンカさんが服を脱ぎ、俺は一瞬パニックを起こす。
「何をしているのですか」
骨ばった肢体が目に入り、慌てて横を向いた。
一瞬しか見なかったが暗闇に浮かんだ白い肌が艶めかしかった。
「罰金を払うことができません。私がお慰めするので、それで勘弁してください……」
感情の伴わない無機質な声だ。
「そんなつもりで来たのではありません。今晩は巡回が多いから捕まらないようについてきただけです」
横を向いていたのでビアンカさんが何をしているかはわからない。
もう服は着たのかな?
視線を再び向けると胸元の紐を結んでいる最中だった。
瞳には涙が滲んでいる。
「ヒノハル様には知られたくなかったです」
その言葉に何も答えられない自分がいる。
「今晩はもう休んだ方がいい。明後日はうちの掃除をお願いしていましたね。よろしくお願いします」
返ってきたのは沈黙だった。
動くこともできずに返事を待つ。
「申し訳ございません。ですが、もうお仕事は辞めさせてくださいませ」
「どうして?」
間髪を容れずに聞いてしまう。
「身体を売っていることを、ヒノハル様に知られてしまいましたから」
「自分はそんなことで差別をしません。今までどおりに来てください」
ビアンカさんがキュッと唇をかむ。
「事実を知られた私が辛いのです。……字を書くのは七年ぶりのことでした。人から心のこもった文章を贈られたことなんてドレイスデンに来て初めて……」
テーブルの上のメモの遣り取りのことか。
「信じられますか? 僅か三行の文章が一人の女中の魂を救うこともあるのです」
俺にはわからない。
「ご理解いただけないでしょうね。字を書くことはずっとしてこなかったのです。紙は高額だし、そんなことをすれば死んだ夫が不機嫌になりましたから」
亡くなった旦那さんは読み書きができなかったそうだ。
コンプレックスを感じていたのかもしれない。
「貴女はベネリアの出身でしたね」
「ええ。駆け落ちしてドレイスデンまで来ました。そのせいで苦労もたくさんしましたね。日々の生活に追われている内に自分が字を書けることもすっかり忘れていたんですよ。ヒノハル様とのメッセージのやり取りで久しぶりに普通の人間に戻ったような気がしていました。だけど……所詮私は汚れた女です」
汚れているなんて思わない。
「そんな風に自分を卑下するのはよくありません。貴方は真面目で素晴らしい――」
「私は夫が死ぬ前から身体を売っていたのですよ」
好きでそうした訳でもないだろうに。
「私をお抱きにならないのなら、もうお引き取りください……」
抱く気はないが、帰る気にもなれない。
どうしてだろう、ちょっと大袈裟だけど、このまま帰ったらビアンカさんが死んでしまう気がするんだ。
何とかしなければと俺も必死だった。
「では、手を握ってもいいですか?」
俺は努めて優しく聞いた。
「手を?」
いきなり予想外の言葉にびっくりしたようだ。
彼女の中の悲壮感が僅かに薄れる。
「はい。お願いします」
不審そうに差し出された手を俺は自分の掌の上に受け止める。
随分と冷たい手だった。
あかぎれのできた手は氷のように凍えている。
ビアンカさんの右人差し指を自分の親指と人差し指で挟んでスキルを発動した。
神の指先 レベル1
ゆっくりとリラックスできるように優しく指先をマッサージしていく。
立ったままのビアンカさんをベッドに座らせた。
「痛くはないですか?」
「いえ…………温かいです」
氷のような人差し指に温もりが戻ってきたので中指へと移動する。
「ベネリアの話を聞かせてほしいです。私は南部地方のことは何も知らないので教えてください」
ゆっくりとマッサージを施しながら故郷の話を聞いた。
南部の暖かい気候、柑橘類の花が香り、紺碧の海と空が遥か向こうの水平線で交わる様子。
マッサージと相まってビアンカさんは夢見るような口調で語りだす。
ビアンカさんの実家は小さいながら自社船を持つ海運業者だったそうだ。
幸福だった少女時代。
世の中に耐え切れないほどの不幸が存在しているなんて信じられないほどに無垢な日々を少女は過ごしていた。
「これを見てください」
俺に右手を預けたまま、毛布の下から一冊の本を左手で取り出す。
厚くはないが立派な装丁の手書き本だ。
「駆け落ちの時に持ち出した僅かな服や装飾品はこれ以外は全て売ってしまいました。この本は私に残された少女時代最後の思い出の欠片です」
本のタイトルは『ベネリアに伝わる12の伝説』。
15歳の誕生日に両親から贈られた品ということだ。
みすぼらしい部屋に置かれた書物は、鳥たちの集会に魚が1匹だけ紛れ込んだようなちぐはぐな印象を与えてくる。
「生活に困ることがあっても、身体を売らなければならなくなった時さえも、これだけは手放せませんでした」
スキルのせいでリラックスしているビアンカさんの独白は続く。
17歳になったビアンカさんは恋に落ちた。
相手は港にいた船乗りの一人。
父の所有する船で働く船員だった。
野性味を持つ整った顔、巧みな話術、世間知らずの娘が男に夢中になるまでに時間はあまりかからなかった。
男は粗野な振る舞いも目立ったが、少女に対しては優しく、ビアンカさんはそれが男の本質と勘違いしてしまった。
彼女は半ば強引に半ば自分の意志でその男に純潔を捧げることになる。
「両親は私たちの結婚を許してはくれませんでした。恐らく、あの人がどういう人か父はわかっていたのでしょうね」
結局、ビアンカは情熱に身を任せて男と共に故郷を捨てた。
そこからの生活は容易に想像できる。
才覚もなく口先だけの男と箱入り娘のお嬢様の生活がうまくいくはずもなかった。
やがて二人は貧にやつれ、男は酒と暴力で憂さを晴らし始める。
その夫も酒の飲みすぎで身体を壊し5年前に死んだ。
「生きていくためには月に何度か街頭に立つしかありませんでした。せめてこの体がもう少し丈夫だったら……いえ、言っても仕方がないことですし、もう……いいのです。もう生きていても……」
やっぱりこの人は死ぬ気なのか。
これは俺の我儘かもしれないけどビアンカさんを死なせたくなかった。
この人のことをよく知っているわけではない。
短い手紙の遣り取りと、綺麗に磨かれた部屋を見ただけだ。
それでも俺はこの人の誠実さを知っている。
「死ぬつもりですか?」
「……真実を話しましょう」
ビアンカさんは手をスッと引く。
「先程、ヒノハル様は私をお抱きになろうとはしませんでした。もしもヒノハル様が私を使ってご自分の欲求を解消されていたら、私はいつものように惰性で生きていくことを何も考えずに選択していたでしょう。ですが貴方はそうはされなかった。それは単に私に魅力がなかっただけなのかもしれません。ですが私はヒノハル様が私を普通の人間として扱ってくださったと勘違いしていたいのです。そしてそんな幸せの気持ちのまま逝きたいと思うのです」
それは勘違いではない。
俺はビアンカさんを当たり前の人間として扱った。
でもだから死にたいなんて言われても困ってしまう。
手を引いてビアンカさんを立たせた。
「ついてきてください」
外の風は止んでいたが張り詰めたような冷気が充満している。
俺は川に向かって歩き出した。
後ろからビアンカさんもトボトボとついてきている。
水辺まで下りて足を止めた。
川の淵には僅かに氷が張って月光に煌めいている。
「ビアンカさん、このまま川に入れば貴女は死んでしまうでしょう。体が冷え、意識を失うせいで比較的楽に死ねると聞いたことがあります」
ビアンカさんは無言だ。
表情からは恐怖の色も読み取れない。
「今晩、私は貴女が辛い日々を過ごしてきたことを知りました。未来に希望も持てないことも承知しています。それを踏まえて私は貴女に死んでほしくはないのです」
ぼんやりとビアンカさんは俺の顔を見る。
「どうして?」
「貴女が好きだからです。でも私には貴女を幸せにすることはできません。私には愛する人がいます。けれども、貴方が幸せになるお手伝いはできると思うのです」
ビアンカさんはゆっくりと首を振った。
「ヒノハル様の優しさは心に沁みております。メモの文面からも今日のことからも……。ですが私は……生きていくことに疲れてしまったのです」
俺はもう一度ビアンカさんの手を取る。
先程中断してしまった最後の仕上げをするために、ありったけの魔力を手に注いだ。
「本当に疲れていますか? 大きく息を吸ってみてください」
こちらを見つめる目は何を言っているか意味が分からないといった感じだ。
「さあ、息を吸って」
素直な性格のビアンカさんは促されて大きく息を吸った。
その瞬間にびっくりしたような表情をする。
「深呼吸をしても胸は痛くないでしょう?」
「はい。これまではこんなことをすれば必ず咳が出ていたのに……」
「身体に纏わりついていた寒気もないはずです。指先が冷えることもない。倦怠感も消えているでしょう?」
「は、はい……」
奇跡を見るような目でビアンカさんは自分の身体を眺めている。
「貴女の病気は全て治療しました。まだ死にたいですか?」
「それは……」
「私は貴女に仕事を手伝ってほしいのです」
感情と意識が自分の肉体の変化に追いついてこないようだ。
握っている指先が震えている。
「お仕事とはどんな?」
「天使の下請け業務です」
俺は手を引いてビアンカさんを川面の上へと連れ出した。
スキル「水上歩行」
「対価は奇跡の目撃ということで。皆でやればきっと楽しい仕事になると思うんです。もちろん給金も充分お支払いしますよ」
白銀に照らし出された真冬のラインガ川は俺たちを乗せて静かに流れる。
できることならビアンカさんの辛い記憶もこの川に流してあげたい。
「これは……奇跡なのですか?」
腰が引けていたビアンカさんの足取りがしっかりしてきた。
「人と人との出会いはそれ自体が奇跡なのかもしれませんね。もう一度お聞きします。私たちの仕事を手伝ってくれませんか?」
「そのような大それたことが私にできますでしょうか?」
大きく頷いて見せると、サラサラという川のせせらぎにビアンカさんの小さな泣き声が混じった。