86.トマトソースとアイスクリーム
報告書を提出して、クララ様との間に意味深長な視線を交わした。
「部屋でお待ちしていますね」と俺。
「私も楽しみだ」とクララ様。
大丈夫。
1秒にも満たない時間の中で、互いの目に込めた思いはその場にいるフィーネやエマさんには気づかれていない。
一緒に部屋へ帰ってもよかったのだが、先に帰って部屋の中を暖めたり、料理の準備をしたりとやることがたくさんあるのだ。
それに待つ方も訪ねる方も、会えるまでの時間を楽しんで気持ちを高めておけると思う。
先に城壁内に行って買い物を済ませた。
ジャガイモ、玉ねぎ、ニンジン、ベーコン、チーズ、パンなどを買っていく。
ここの品物は城壁の外よりも高価だが品質はずっといい。
予定していたものを全て買い終えて辻馬車に乗ろうとしたら、偶然に花屋を見つけた。
こんな真冬でも花を売っているのかと不思議に思ったが、店員が温室の中で栽培されたものだと教えてくれた。
板ガラスがあるくらいだからガラスハウスがあっても不思議ではないか。
種類は少ないが久しぶりに見る花は美しかった。
アネモネを三輪購入した。
部屋について大急ぎで暖炉に火を焚き料理を始める。
竈を使うと火加減の調節が難しいので、調理にはガスコンロを使うことにした。
大きめの鍋にジャガイモを茹でてポテトサラダを作った。
今日は焼いたベーコンと小さくカットしたチーズを入れてみる。
俺が作れるものは数少ないが、これはいつも美味しいって褒められたんだよね。
……絵美に。
久しぶりに別れた絵美のことを思い出した。
普段は忘れているのだが日々の暮らしに関係のあること、炊事や洗濯などをするとついつい思い出してしまう。
そういうことは家庭というものに直結しているからだろう。
次にトマトソースを作る。
ニンニクと唐辛子、玉ねぎをオリーブオイルでじっくりと炒めながら物思いに耽った。
今更だけど自分のどこがいけなかったのかが気になる。
別に未練があるわけじゃない。
ただ、絵美が好きになった男と比べて俺のどこが劣っていたのかを純粋な好奇心から知りたかった。
別れる時に聞いておくべきだったけど、あの時の俺はものすごく感情的になっていたもんな。
進むべき未来がはっきりとあったからあんまり落ち込むこともなくこうしていられるけど。
冬のザクセンスにトマトはないので、トマトの缶詰を炒めた玉ねぎに加えていく。
バジルの葉っぱも吉岡が買ったものが空間収納のどこかにあったはずだ。
もう少し時間が経ったら絵美に会って聞いてみてもいいかもしれない。
二人が落ち着いて話せる日がもしも来るならだ。
もっとも絵美にとってはまだ離婚から4日か。
丁度いい分量に水分が飛んだところで塩を加えて味をみた。
暖炉の上で大きな鍋にお湯を沸かしておくか。
こうしておけばいつクララ様がやってきても困ることはない。
BGMがあったほうがよかったかな。
残念ながらオーディオの類はないし、スマホにもムーディーな曲は入ってないんだよね。
花瓶は持っていないので小さなグラスにアネモネの花を飾った。
そろそろ到着する時間だろうと窓から通りを見ていると一台の馬車が建物の前に停車した。
コートを着たクララ様がエントランスに入ってくるのが見えた。
俺は扉の前で出迎えの準備をする。
「………………」
あれ?
なかなか入ってこないな。
俺の部屋の場所がわからなくなってしまったか?
表札は出していないから迷ってしまったかもしれない。
探しに行こうとドアを開けると目の前にクララ様が立っていた。
「……」
驚いたのかクララ様が硬直している。
「何をされていたのですか?」
「シンコキュウ……」
小さな声で聞き取れない。
「はい?」
「な、何でもない。入ってもよいのか?」
クララ様を部屋の中に導き入れ、後ろからコートを受け取った。
「いい匂いがしているな」
振り返ったクララ様の笑顔が眩しい。
ドレスではないが、いつもよりちょっとおしゃれな騎士服を着てきてくれたんだ。
髪留めも初めて見るものだ。
黒い光沢のある素材は黒檀かな?
クララ様の銀の髪によく似合っている。
「素敵な髪留めですね。クララ様の御髪によく映えます」
「ありがとう、おばあさまに買っていただいたものだ」
淡い気恥ずかしさに彩られて部屋の中で恋の花がほころんでいく。
「さっそく料理の仕上げをいたしますね」
「私も手伝おう。自分に何ができるかわからないが」
クララ様に料理の経験はない。
だけど大丈夫、クララ様の出番もちゃんと考えてあるのだ。
「もちろん働いていただきますよ。今夜の私は主人をこき使う悪い従者ですから」
「望むところだ」
そわそわとしているクララ様のもとへボウルを持っていった。
「これは?」
「中身は牛乳、卵、砂糖、バニラビーンズをよく混ぜて濾したものです。クララ様は魔法でこのボウルを凍らせてください。ただし中身まで凍らせてはダメですよ。ボウルの表面についた液体がちょっと凍るくらいの温度がいいです」
俺が作りたいのはデザートのアイスクリームだ。
クララ様に魔法でボウルを凍らせてもらいながら俺がかき混ぜればアイスクリームを一緒に作ることができる。
簡単だし二人でやったら楽しいと思うんだよね。
それにアイスクリームはデザートの王様だ。
「面白そうだ。やってみよう」
クララ様も興味を持ってくれたようだ。
クララ様が魔法力をこめすぎたり、俺がかき混ぜる際に少し液が跳ねたりと、アイスクリームは多少のトラブルはあったが少しずつ少しずつ固まっていった。
そして作業の途中でお互いの肩や腕が触れ合っても、それを気にしないでいられるくらい寛いだ気持ちになったところでアイスクリームは完成した。
「少しだけ味見をしてみましょう」
小さなスプーンですくってクララ様の前にアイスクリームを差し出した。
緊張した面持ちでクララ様はスプーンに口をつける。
「美味しい! これをコウタと私が作ったのか!? 料理とは不思議なものだな」
出来上がったアイスクリームの保存はクララ様に任せた。
魔法と保冷剤を使ってクーラーボックスの中を氷点下にして入れておくのだ。
その間に俺はパスタの仕上げにはいった。
一流のシェフが作ったものとはいかなかったが、ポテトサラダもパスタも美味しくできた。
特に出来立てのアイスクリームは美味しくてレシピを教えてくれた吉岡には感謝しかない。
二人きりで話をしていると互いのことが次々分かって、そのたびに新鮮な驚きと喜びが心を満たしていく。
食事が終わってデザートワインを飲みながら二人でソファーに腰かけていても話題に困ることはなかった。
グラスのワインを飲みほしたときに近所の神殿から鐘の音が聞こえてきた。
シンデレラの魔法が解ける時間だ。
最後の4つの鐘を聞きながら俺たちは口づけを交わしていた。
「送っていきましょう」
「うん」
この時間では辻馬車を拾うこともできないので兵舎までの道のりを二人で並んで歩いた。
交わす言葉は少なかったが、言い知れない充足感が俺たちを満たしていた。
王宮の一室はむせかえるような緊張感に満ちていた。
ここは宰相であるナルンベルク伯爵に与えられた部屋の一つだった。
ナルンベルクはいまだ42歳。
歴代の宰相の中で最も歳若くしてこの地位についている。
それだけ有力な家に生まれ、知性と財力に恵まれている証拠だった。
今夜はこの部屋に男女一組のゲストが迎えられている。
ペーテルゼン男爵夫妻だ。
すなわち見習い騎士エマの両親である。
普段から親しい間柄なわけでもなかったが、どういうわけか突然の招待だった。
ペーテルゼン男爵は王宮で役職を得ている官僚的な貴族であったが、宰相に親しく招待されるような身分ではない。
思い当たることは一つ、妻のグレーテルに起こった変化だけだった。
近頃ペーテルゼン夫人はショウナイという謎の商人からエステなる施術を受けていた。
その効果は劇的であり、顔の肌、目元、顎のラインなどは施術前とは見違えるほどに美しくなっている。
30代半ばの夫人が20代の若奥様に間違えられることも度々だ。
「私は自分のことをそれほどの野暮だとは思っておりません」
宰相は穏やかな口ぶりで話し出した。
「美というものはそれ自体が神秘的であり、本来その秘密を当事者以外が暴こうというのは無粋の極みということは理解しているのです」
男爵としては頷くしかない。
相手はこの国の宰相なのだ。
宰相は言葉を続けた。
「ですがこれは私人としての感情です。ことが政治のこと、公のこととなれば話は別です。しかもそれが外交上重要な案件に関わってくるとなれば言わずもがな」
宰相の圧力に真っ先に屈したのは男爵だった。
「つまりナルンベルク様は妻の変化の秘密についてお知りになりたいと、こういうことですか?」
「はい。まことに無粋な話ながら。ただし、このことがザクセンスとフランソワの同盟と一人の王族の幸福に関わっていると言い訳させていただきましょう」
随分と大きな話になってきたものだと男爵は考えた。