165.キュバールの空は青く
市場での買い物を終えて雑貨屋の店先をのぞいていたら、通りの向こうからラクさんとレナーラさんが走ってくるのが見えた。
随分と慌てているようだ。
「ヒノハル様、ユリアーナ・ツェベライの追手が現れました。港の付近で聞き込みをやっています」
低い声をさらに低くしながらラクさんが囁いた。
ユリアーナがもう追いついてきたのか。
「まずいな。船を貸してくれる人は見つかりましたか?」
「まだです。たまたま奴らの聞き込みの現場を目撃したので先にご報告しようと戻ってきました」
奴らは大型帆船が停泊する波止場の方で俺の行方を聞きまくっているらしい。
ユリアーナがもしも領事館の方に行ったとするならば俺の行動もばれてしまうな。
「とにかく船に乗せてくれる人を探そう。どうせ陸伝いにいくんだから小型の漁船でもなんでも大丈夫でしょう?」
「はい。それにカヌー程度でしたら俺もレナーラも操れます。俺たちは沿岸の漁村育ちですから」
「それは心強い」
今いる場所は街の少し高台になったところで、道を左へ行けば大型船が停泊する波止場へ、右に行けば漁船が無数に繋がれた桟橋の方になる。
「桟橋のところで船を探してみよう」
そう話し合っている俺の背中に遠慮がちな声がかけられた。
「ヒノハル様?」
振り返れば、そこに立っていたのはユリアーナのメイドをしているカリーナさんだった。
ラクさんがとっさに身構えて、普段は隠している大きく鋭い爪をだした。
「ラクさん、やめて!」
カリーナさんはユリアーナの一味だけどいつだって優しかったし、誰にでも親切な人だった。
俺にこの人を傷つけることはできない。
「カリーナさん、見逃してはもらえませんか?」
なぜか既視感を覚えながら俺は聞いてみた。
カリーナさんは困ったようにしばらく考え込んでから、ようやく口を開いた。
「少し歩きませんか? ヒノハル様が逃げる方向で構いません。あっ、もちろんお嬢様に告げ口はいたしませんので……」
寂しげに微笑むカリーナさんを疑う気にはなれなかった。
俺たちは港へ続く道を二人で並んで歩いた。
太陽が高い位置に登るにつれ外気温も上昇していく。
カリーナさんは眩しそうに空を見上げた。
「つい一か月前までザクセンスにいたのに、こんな南国にいるなんて嘘みたいですよね。太陽がまぶしすぎてクラクラしてしまいますわ」
俺の空間収納にもさすがに日傘は入っていない。
「パラソルでもあればよかったのですが」
そう言ったら、カリーナさんははにかむように目を伏せた。
「運命って本当に不思議だと思います。見知らぬ異国の地でヒノハル様と並んで歩くなんて想像すらしたことはございませんでした。一生の思い出です……」
「カリーナさん……」
呼びかけはしたものの続く言葉が見つからなかった。
ふいに、カリーナさんは立ち止まる。
場所は桟橋が見下ろせる高台の一角だ。
細い階段が海へと続いていた。
「ヒノハル様……一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「なんでしょう」
カリーナさんの憂いが一際濃くなった気がした。
「私が……私が女ではなく男であると言ったら、ヒノハル様は私のことを軽蔑されますか?」
えっ!?
カリーナさんって男の娘なの?
いわゆる性的マイノリティーのどれかなのだろう。
きっと苦労しているんだろうな。
「カリーナさんは綺麗だから、てっきり女性だと思っていました。でも、びっくりしたけど軽蔑なんてしませんよ。あれ? 男? 女? よくわかりませんね。カリーナさんはご自分をどちらだと考えているのですか?」
「私は……」
カリーナさんはじっと俺を見つめる。
そして慎重に言葉を選ぶように心情を吐き出した。
「私の身体は男です。ですが……私は女でありたいと……心から……」
「だったら、カリーナさんは女の子ですね。私はそう認識します」
頭上から照り付ける太陽が短い影を石畳に作っていた。
一片の風もなく肌がジリジリと焼けている。
「……もう、行ってください」
青白く表情の読めない顔で、カリーナさんが短く呟いた。
そして俺を促すように身を一歩後ろに引く。
「ユリアーナさんのところへ戻るのですか?」
この人はユリアーナのところにいてはいけない気がした。
だけど俺に何ができるというのか。
「ヒノハル様とユリアーナお嬢様だけなのです。私の身体が男と知ったうえで、私を女として認めてくれたのは。この服だってお嬢様が用意してくれて……」
この世界で、カリーナさんのような人は異端扱いされる。
だが、ユリアーナは違ったようだ。
あいつには思うところもあるが、人にはそれぞれ居場所があるのかもしれない。
「もう行ってくださいませ……。ヒノハル様がお幸せになることをお祈りしています」
カリーナさんは泣きながら無理に笑顔を見せてくれた。
迫りくる追手のことを考えれば、すぐに立ち去るのが正解なのだろう。
だけど、このままカリーナさんと別れたら俺は一生後悔することになると思う。
だって、俺はカリーナさんの心を救えるかもしれないスキルを持っているのだから。
「カリーナさん……女性の身体が欲しいですか?」
「戯言はおよし下さい。私は――」
「自分は真剣に聞いています。心だけでなく体も女性でありたいと願いますか?」
いくぶん強い口調で聞くと、カリーナさんは怒ったように俺を睨みつけてきた。
「当然ではないですか!」
スキル「虚実の判定」発動。
その言葉は、真実、魂の叫びだった。
だったら俺は……。
「今から貴方の身体を作り変えます」
スキル神の指先発動。
時間がないので魔力を大量に消費しなければならないけど、カリーナさんのために後先は考えていられなかった。
「ラクさん、俺は気を失うかもしれないから、いざという時はおんぶしてもらってもいいですか?」
「ヒノハル様のお気持ちのままに」
よし、思いっきりいくぞ。
俺はカリーナさんの手を握って魔力を高めた。
「もう一度問います。私の魔法で貴方の身体を女性体にすることができます。貴方はそれを望みますか?」
「……」
「いきなりこんな質問をして申し訳ありません。ただ、もしかしたらこれで貴方の苦しみが少しは軽減されるかもしれません。試してみませんか?」
カリーナさんはしばらく俺の瞳をみつめていた。
そして……。
「私を、女にしてください」
神の指先がカリーナさんの中にある理想像を読み取る。
俺は全魔力を指先に集中させた。
カリーナはラクの背中におぶわれながら階段を駆け下りていくヒノハルを見送った。
ふっくらとした彼女の胸には小さなテディーベアが抱きしめられている。
それはカリーナにとって一番大切なお守りだった。
このままヒノハルと共にあの青い海を渡っていければ、それはどんなに幸せなことだろうかとカリーナは思う。
だが、彼のとなりに自分の居場所はないことを彼女はよくわかっていた。
そしてあるがままの自分を受け入れてくれたユリアーナのもとを去ることができるほど彼女は薄情な女ではなかったのだ。
小さなぬいぐるみに新しい涙の雫が吸い込まれていく。
遠ざかる後ろ姿を見るのが苦しくて、悲しくて、カリーナは空を見上げた。
見慣れない異国の空は、カリーナという哀れな少女にはやっぱり青すぎるような気がした。
勇者ゲイリーの魔信は各国に赴任する大使や領事にも渡される。
危急の際には魔信を使用して本国と連絡を取らなければならなかったし、特に事件の起こらない日でも定時の業務報告が義務付けられていた。
キュバール領事にも魔信は貸与されており、ザクセンスへの報告は欠かすことのできない日課だ。
だが、キュバールとザクセンスでは距離があり過ぎるため直接のやり取りはできない。
そこでいくつかの中継点を通して情報は伝えられる。
そうしたわけでキュバール領事からもたらされた以下の報告はバムータやジブタニアの公館にも伝わった。
ザクセンス本国よりコウタ・ヒノハル騎士爵の来訪あり。騎士爵は召喚勇者ラジープ殿との会談を望む。
ジブタニアに派遣されていた領事のエルバルトは気のいい男で、自らもそれを自負するようなところがあった。
キュバールからの定時連絡を中継したとき、エルバルトはクララ・アンスバッハ男爵がヒノハル騎士爵の行方を探してジブタニアに来たことを即座に思い出していた。
彼女が投宿しているホテルは領事館からは3ブロックほど離れた場所にある。
常に紳士でありたいと願うエルバルト領事の自尊心を満足させるにはちょうど良い距離ともいえた。
「ベッソン! 私は昼食に出かけてくる。留守を頼むよ」
従者のベッソンはドアのところから顔をだして返事をした。
「承知いたしました。お帰りは何時頃ですか?」
「少し寄ってくるところがある。それほどは遅くならんと思うがね」
ベッソンは主人が鏡に向かって念入りに髪と髭を整えているのを見て、誰かに会いに行くのだろうと事情を察した。
「いってらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
どうせ主人は少し遅くなるだろう。
ベッソンは出かけるエルバルトを見送りながら、今日の昼は自分も白ワインの一本も開けようと心密かに考えていた。
こうして、コウタがキュバールにいることは思いがけずもクララたちの知るところとなる。
エルバルト、ベッソン、クララの三人は同時に人生の慰めを得る午後となった。