9 再び西夏
西夏の都の興慶。
この町は、塞上江南の異名を持ち、乾燥地帯でありながら、流量豊富な黄河の流れを利用した、大規模灌漑の農地を持つ、緑豊かな地であった。
その都の中心部、広大な敷地にある、皇族たちが住まう宮殿。
建物は、元が遊牧民の出自とは思えぬ程に、漢文化に浸されており、木造の装飾文様が色鮮やかな、唐の最盛期を思わせる、豪華絢爛なものであった。
事実、この国の成り立ち自体、唐の節度使としてのところから始まりを告げ、現在の宋の文化とも少し違う、一種独特なものを維持していた。
そんな宮殿の建物の一角、小さな部屋に、黄花の姿があった。
木製家具と、見事な彫刻の調度品に囲まれて、夕焼け空を窓から眺め、ぽつんと一人、椅子に腰掛ける。
頭には、彼に渡したものとは別のかんざしを差し、耳にはこれまた別の金細工の飾り、髪も衣服もきれいに整えられ、肩には彼からもらった毛皮をかけて。
河源より西夏へ、日数をかけてゆっくりと戻った彼女は、少しだけ疲れた顔を残してもいた。
「黄花」
部屋の外から、声がする。
「兄上、どうぞ」
よく見知った声に、彼女は思わず椅子を立って出迎えた。
扉を開け、中に入ってきたのは、黄花の兄。
「黄花、よく無事であったな」
そう言いながら、彼は妹を抱きしめた。
彼は、西夏の黒水王にして、黄花の双子の兄、李黄水。
その体格は、彼女よりも遥かに大きく立派で、絹の衣服に、西夏の刀を腰に下げた、彼女と同じ顔をした男。
ただ、同じ顔でも、凜々しさをも有する、西夏の美男子であった。
「兄上、ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「全くだ、私がどれだけ苦労したか、お前には分かるまい」
「いいえ、分かります。私たちは双子ですもの」
そう言って、黄花は微笑みながら、兄を見上げた。
双子の兄妹。
男は龍、女は鳳凰と並び称され、存在自体が吉兆とされる、男女の双子。
それゆえ、彼らが誕生した時は、国が栄えるとして、盛大な祝福でもって喜ばれた。
「そうだな、我らは双子、だな」
兄と同じ顔の妹。だが、少し見ない間に、女として美しくなってもいた妹。
そんな彼女に見慣れないものがあるのに、兄は気づいていた。
「黄花、この毛皮はどうした?」
妹の肩にかかる、温かそうな毛皮。
こんなものは宮殿には無く、そもそも彼女も持ってはいない。
どうしたのだろう、と彼は首を傾げていた。
「あ、これは……」
毛皮を撫でながら、黄花は顔を紅くした。
「ある方に、頂いたのです」
「ある方?」
「ええ」
嬉しげに語る妹を見て、彼の眉間にしわが寄る。
嫌な予感が、兄の胸に去来していた。
「その方は、とても素敵な方です。強くて、凜々しくて、そして優しくて……」
頬に手を当てて、黄花は恥ずかしそうに思い出していた。
「いつか、兄上にもご紹介いたしますね、私の大切なその方を」
「ああ、分かった、分かった」
面倒な匂いを感じたのか、兄は妹の言葉を遮った。
「それでだな、黄花、お前に言っておくことがある」
「何でしょうか」
窓から差し込む夕陽に照らされて、黄花の姿は茜色に染まる。
「お前を攫った賊は、殺した」
兄の言葉に、彼女の身体が強張った。
「え……」
胸の動悸が激しくなり、背中を生ぬるい汗が、したたり落ちる。
青唐王ソツェンが死んだ。それも、兄の命令によって。
黄花の身体を、震えが襲っていた。
「ど、どうして。なぜ、そんな事を……」
「『星』を盗んだのもそうだが、お前を攫ったというのが問題なのだ」
「わ、私が、悪いのですか?」
喘ぐように、黄花の息が荒くなった。
「お前は物ではない、皇帝の娘だ。その娘が攫われたとなっては、国の面子に関わる」
兄は腕を組み、忌々しげに溜息をつく。
「うそ、嘘です、彼を殺したなんて、嘘です!」
「嘘ではない、賊は死んだ」
「いや!信じない!信じません!私は、信じません!」
彼女は膝から崩れ落ち、大粒の涙を次々にこぼしていた。
約束した彼が、もうこの世にいない、また攫いに来てくれることも無い。
あの幸せだった日々は、二度と来ない。
張り裂けそうな悲しみに、彼女はただ泣き叫ぶ事しか出来なかった。
「いやああああ!ソツェン!ソツェン!」
涙が、溢れる。
息苦しくなるまで彼女は叫び、激しく咳き込む。
だが、その様子に、兄が重く暗い声で問いかけた。
「黄花、なぜそこまで賊に涙する」
「ソツェン……、あなた……」
たかが賊一人に、有り得ない乱れ方。
妹の様子に、黄水の胸を不快感が満たした。
「黄花、答えろ」
引きつる息を整え、黄花は涙で真っ赤になった目で兄を見る。
腕を組み、渋い表情の兄は、黙って彼女を見下ろしていた。
「か、彼は、ソツェンは、青唐王として、私を、妻に、して、くれました」
「何だと……!」
「ソツェンは、私を、愛してくれました。私も、彼が」
「黙れ!」
大声で、黄水は妹の言葉も途中に止めた。
信じられない言葉を聞いた衝撃に、彼の身体が細かく震えだす。
「お前、賊如きに股を開いたというのか!」
「賊では、ありません!彼は青唐王です!」
「同じ事だ!よりによって、青唐の男とは!」
彼は大いに狼狽え、頭から汗を流す。
最愛の妹が、どこぞの馬の骨どころか、敵である青唐の男に手篭めにされたのだ。
しかも、王だと名乗り、妹を妻にすると言って、その身を弄んだ。
これは許しがたい事実であり、断罪すべきものであった。
「彼は、悪い人ではありません!彼は、彼は……っ!」
兄の胸にしがみつき、服を掴む黄花だが、その手には力が入らず、震えるばかり。
「くそ、あの賊め、私の手で殺すべきだったか」
「やめて、これ以上、ソツェンを悪く言わないで!」
「いい加減にしろ、黄花!」
妹の手首を掴み、彼は泣き叫ぶ彼女に怒鳴り散らす。
「あいつは、賊だ。殺されて当然の奴なんだ、諦めろ!」
兄の言葉に、黄花は首を大きく振った。
「違います!彼は、私の夫。そして、この腹の子の父親です!」
「な、な、なに!」
思わず、妹の腹を見る。
だが、その腹は膨らみも無く、いつもと変わらぬ様子。
「こ、子供だと!」
「そうです、私とソツェン、青唐王の子です!」
「お、お、お前、黄花」
次々に判明する妹の事柄に、黄水の頭から湯気が立ち上り始めた。
「堕ろせ!そんな子などいらぬ!」
「堕ろしません!この子は私の子です!」
兄の手を振りほどき、黄花は腹を大事そうに抱えて抵抗する。
「考え直せ!青唐の子なぞ、この国で産ませる訳にはいかん!」
「嫌です!絶対に殺させません!」
「バカも休み休み言え!」
お互いに言い争いが延々と続き、終いに彼女はまたも泣き出してしまっていた。
「それでも、私は、何としても産みます!」
「意固地になりおって!しばらく頭を冷やせ!」
こうなってしまっては、意地でも譲らないのを知っている兄は、彼女を部屋に閉じ込めたまま、外へと出て行ってしまった。
残された黄花は、一人涙ぐみながら、暗くなった外を見る。
茜色の空は山の縁に消え、紺色の夜の闇が、天に広がり世界を包む。
あの日、彼と共に見た星宿海の景色を思い出し、黄花は再び涙をこぼした。
「ソツェン、もし、本当に子が出来ていても、私は一人で育てますから」
窓の外、宮殿に明かりが灯り始めていた。
何日か後の夜。
黄花の部屋に、兄、黄水がやって来ていた。
「何用ですか、兄上」
椅子に腰掛け、彼女は部屋の明かりを見つめたまま、振り向きもしない。
黄水は何も言わず、薬の包み紙を一つ、黄花の目の前の机に置いた。
「飲め」
明らかに怪しいそれに、黄花は兄をじっと見る。
「これ以上、お前に苦しい思いをさせたくない。私の願いだ」
「……堕胎薬ですね?」
その言葉に、彼は顔をそむけた。
妹の腹に宿る、小さな命を消す行為に、黄水は罪悪感を覚えていた。
「こんなものまで使って……、そんなに私の子が憎いのですか」
「憎い訳では無い。これは、お前の身体をキレイにするための薬だ」
「私は、汚れている。と言いたいのですね」
ゆっくりと、黄花は立ち上がった。
気丈に前を見据え、兄の気迫に押されぬよう、堂々とした態度で臨む。
「そんな薬で、キレイになどなりません。私はもう、青唐王の妻なのですから」
長い髪を振り、彼女はにこりと微笑んだ。
「まだそんな事を言うか、もうあの男など忘れろ」
「いいえ、忘れません」
妹のすらりと伸びた手足に、肩に掛けられた毛皮。
宮殿に戻ってからというもの、片時も手放さず彼女の身体を覆うそれは、まるで男の手のようにも見えて、黄水は思わず頭を振っていた。
「黄花、頼むから言うことを聞いてくれ、お前は公主の身分なんだぞ」
「その身分の前に、私は大夏の女です。一度心に決めたら、それは絶対なのです」
西夏の女は気が強い。
どこの誰が言い出したかは知らないが、この国の女は、大半がそうであった。
それは、よく言えば、サバサバしてるだの、気っぷがいいなどだが、悪く言えば、面倒くさい、生意気な女とも取れるものであった。
「とにかく、薬を飲め。飲まなければ、話が進まんのだ」
「話?」
黄水は大きく溜息をつきながら、妹の腹を見る。
「実は、お前に縁談の話がある」
縁談と聞いて、黄花の顔が怪訝なものになっていた。
「嫌です」
「まあ待て、相手はお前を迎えに行った騎兵長だ。強さは私も認める男だぞ」
だが、黄花は、それを疑っていた。
ソツェンを追いかけて来たのは、兄の黒水王の兵。
前線で幾度も戦ってきただけあって、士気高く、武力も高い、精鋭の兵であるはずだが、その兄の子飼いの兵は、ソツェンに一度も勝ってはいない。
西夏の刀と弩を持ってしても、彼には手も足も出ずに撤退した。
それを、目前で見ているからこそ、黄花はそう思わざるを得なかった。
「兄上は、本当にその方が強い、と思っているのですか?」
「何を言う、大夏の天下無双の騎兵だぞ。疑っているのか」
「私は、その騎兵よりも強い人を見ました。たった一人で騎兵隊を倒す者です」
言い切り、黄花は兄を見上げる。
山道で、日月山で、彼は孤独に戦い、西夏兵を退けた。
強き男、ガル・ソツェン、黄花は彼の姿を、その美しい瞳に焼き付けていた。
「私はその強い方以外に、嫁ぐ気はありません。お断りいたします」
「仕方が無い。その強がり、いつまで続くかな」
そう言い、黄水は背を向けようとする。
「私は黒水王だ、お前を黙らせるぐらい、簡単なものだ」
冷徹な目で、彼は妹を見、そして部屋の外へと姿を消す。
そして廊下では、軽装の鎧姿の男が一人、黄水に頭を下げていた。
「騎兵長」
「はい」
頭を上げたその姿は、黄水よりも小柄だが、西夏の武人らしい偉丈夫の男。
顔の彫りも深く、どこか西域の者を思わせる、筋骨逞しい風貌であった。
「後はお前の好きにしていい。妹からあの男を……忘れさせてやってくれ」
黄水は、やむを得ないという顔で、部下である男を見た。
「しかし、黒水王。本当に宜しいのですか?」
困惑した顔をする男。
「いずれはお前の嫁になる女だ、気にするな」
「は……、ならば、できる限りで説得致します」
説得という単語に、不気味な力を込めて、男は部屋へと入る。
夜も更けた宮殿。黄水は一人、その場を離れていた。
「公主、失礼致します」
部屋に入って来た、兄の部下である騎兵長に、黄花は振り向きもしなかった。
椅子に腰掛けたまま、その目は窓を見つめたきり。
「何用ですか、帰りなさい」
「私は、兄君の命令により、公主を説得致しに来ました」
近づく、足音がする。
黄花の背後、手を伸ばせば届く位置に、男は跪いた。
「どうか、こちらを向いてください。公主」
男は、黄花を見上げる。
長い黒髪の向こうに、憂いを含んだ顔が、艶めかしく見える。
皇族の中でも、際だって美しいその姿に、男の鼓動が激しくなった。
「私は武人ゆえ、貴方を喜ばせる、詩や芸事などは、全く出来ません」
微塵も動じない、黄花の後ろ姿。
その気が無いのを覚らせるために、彼女はあえて冷徹な態度を貫いていた。
「ですが、腕っ節だけは、貴方の兄君に並ぶ程だと、自負致しております」
だが、この訪問者は、引き下がるどころか、むしろ食い気味に己を売り始める。
兄の事まで出し、わざと挑発するような言動で。
不覚にも、黄花は少しだけ顔を動かしてしまっていた。
その隙を突き、男は本音とも取れる言葉で揺さぶりをかける。
「いつか貴方にも、見せてあげましょう、兄君にも勝る私の剣の腕を」
兄、黄水は、黒水王でありながら、一軍の将でもある。
武芸の腕も天下無双で、特に西夏刀を使わせたら、敵無しと謳われる程。
その兄に、この男は勝ると言い出したのであった。
一介の騎兵長に過ぎない、男がである。
「この剣で私は、貴方を警護し、賊の手からも守る事を誓いましょう」
腰の西夏刀を、男は自信満々に叩き、甲高い音が部屋に響く。
「もう賊には入らせません、あの賊は死んだのですからね」
その言葉に、思わず黄花は立ち上がった。
「下がりなさい」
ゆらりと、彼女は振り向き、跪く男を見下ろした。
武骨そうな腕力だけの男、兄のような王の風格も無ければ、ソツェンのような強い気概も無い、黒水王の騎兵長を勤めているのが取り柄の男。
黄花は、この男に嫌悪感を覚えていた。
「下がれと言っています、今すぐ……」
男を追い出そうと、一歩踏み出した時、黄花の足に、男が飛びついていた。
「いやっ、は、離れなさいっ、無礼者!」
あまりの気色悪さに、背筋を悪寒が走る。
男を振りほどこうと、彼女は身をよじった。
「こ、公主、私はっ」
「だ、誰か!兄上!兄上っ!」
助けを求める、彼女の声は、兄の耳に届く事は無かった。
宮殿の長い廊下を、男は歩く。
この建物周辺一帯には、他の皇族、及び侍女たちはいない。
子飼いの兵が、妹を説得している場にやって来られたら、一大事になるからである。
それで無くとも、賊の侵入を許し、公主を連れ去られたという失態があってから、黒水王の評判は、下がっているという最中なのだ。
「これ以上の醜聞は、防がねばならん」
だが、その説得が、本当に正しいのか、男は悩んでいた。
幼い頃より、いつも一緒だった、双子の妹。
同じ腹より産まれた、同年同月同日の、強い絆で結ばれた兄妹。
今、妹に起きている出来事を思うと、男の胸が締め付けられる。
これでいいのか、妹の気持ちを尊重すべきではないのか。
尊重したところで、相手は青唐の男。それは絶対に認められない。
「黄花……、私を許してくれ……」
苦悩する男の声は、夜空に吸い込まれていた。
「公主、私は、公主の事を、以前からお慕い申し上げておりました」
男が、黄花を羽交い締めにする。
部屋の寝台に押し倒されて、彼女は首を激しく振った。
「やめなさい!自分が何をしているのか、分かっているのですか!」
「わ、分かっております。これは、兄君も了承の上ですから」
その言葉に、黄花の身が強張る。
兄が部屋を出る直前に言った事、それはこういう意味だったのかと、彼女は思い知らされていた。
男の足が、黄花の両足を割り、柔らかな太ももに、その部分を押しつける。
大きく膨らんだそれを擦りつけ、男の息は荒さを増していた。
「こ、公主と、こんな事が出来るなんて、ゆ、夢みたいだ」
目の前の男の顔は、鼻の下をだらしなく伸ばし、騎兵長としての威厳は欠片も無い。
生臭い、興奮した息が、顔に吹きかけられ、彼女の表情が不快に歪む。
「抵抗しても、無駄ですよ。貴方は、私の妻になるのですから」
「誰がっ、なりますかっ!」
ねっとりとした言葉を吐く男に、黄花の平手打ちが炸裂した。
大きな音がするも、男は動じず、むしろニヤニヤと嫌らしい目を彼女に向ける。
「私は、大夏の女です!お前のような男の手にかかるのなら、今ここで死にます!」
黄花は、舌を噛み切ろうとするが、それよりも早く、男の手が顎を押さえた。
ミシミシと悲鳴を上げる、顎の関節。
あまりの痛さに、呻き声が、自然と出た。
「う……」
「生意気な女だ。だが、その女を屈服させるのが、最高にいい」
粘つく男の目に、黄花の顔が恐怖の色に染まる。
兄や、ソツェンとも違う、女を肉欲の対象としか見ていない、下劣な男。
まかり間違って、この男と一緒になりにでもすれば、地獄のような苦しみが待っているであろう。
黄花は、必死に抵抗をしていた。
「い、いや……」
徐々に近づく、卑しき男の身体。
気味の悪い手が、彼女の腰を、胸を、這い回るように撫で回す。
着物の裾が捲り上げられ、白く輝く両足が、男の目に晒された。
「お、おぉ……、公主、お美しい……」
「やめて!」
じたばたと身体がもがき、足が男を遠ざけようと、必死にその身体を押し返す。
「無駄ですよ、公主」
太ももに、男の平手が幾度も打ち込まれた。
抵抗の意思を奪うべく、それは強い力で、赤い痕を何発も残す程に。
「いや!痛いっ!」
「これが嫌なら、おとなしくしてください」
じっとりと、汗で湿った手の平が、黄花の弱い部分へと伸びる。
「やだ……、いやああああ!」
悲痛な叫び声が、部屋に響いていた。