8 裏切り
冷たい澄んだ空気が、肌を刺す時刻。
ソツェンと黄花、二人の頭上には、星々が姿を見せつつあった。
既に夕陽は、山の向こうの彼方へと沈み、紺色の空が夜の帳と共に天を支配していた。
「黄花、寒くは無いか?」
背後から、彼女を抱きしめ、ソツェンは毛皮で、己ごとその身を包んでやる。
「だ、大丈夫です、気にしないでください」
とは言うものの、やはり高地の寒さは堪えるのか、僅かに彼女は震えていた。
そんな黄花を、さらに強く抱き、ソツェンの身体はより一層密着する。
お互いの呼吸音が聞こえるほどの近さの中、吐息は白く煙り、二人の鼻や頬はほんのり赤く染まっていた。
「見ろ、黄花」
ソツェンが、小さく指を差す先、輝く星々がその数を増してきた頃、ついに、それは目の前に現われていた。
眼下に広がる、大小の湖沼群。
星宿海と呼ばれる、その場所は、無数の湖で構成されている。
緑の青々とした草原、その中にある、空を映し込んだ群青の湖は、昼の姿においても、充分に美しく、夢幻のような世界となって現われていた。
だが今は、夜の世界。
星々が光る、華麗なる天の宝石箱は、様々な輝きの石を一面に零したかの如く。
地上の湖一つ一つには、その天上の星が宿り、まるで煌めく海と化していた。
「あ、あ、す、すごい……」
目の前の光の競演に、黄花はそう絶句し、思わず息を飲む。
闇夜を覆い尽くす、無数の星々。
天の高いところには、一際明るい月。
空の星が、賑やかに瞬くと、海の星もそれに応え、ゆらゆらと揺らめく。
漆黒の闇の中で、湖と草原の境界は曖昧となり、天と地は一つに溶け合おうとしていた。
空と地面、上下と左右は混濁し、浮遊する感覚が彼女を襲う。
ぐるぐると回る視界の中、黄花の息が次第に荒くなっていった。
『黄河は、星のある天上より湧き出でる』
中原にて、古くから伝わる、黄河の源流の話。
それはあまりにも突飛すぎて、おとぎ話だの、現実に見たわけではないだの、夢想家のホラ話だのと言われていた。
だが、今これを目の前にして、それらは全て事実であったと、二人は思っていた。
声も出ず、ただただ星空を、海を見つめる彼らの前で、天から地へと輝く光が、一直線に横切っていく。
「流れ星か……?」
光の軌跡は、地上の海へと続き、ついにはその中へと吸い込まれた。
――海に落ちた、星。
青唐の宝である『星』、それもかつては、あの天上の星の一つだったのだろうかと、ソツェンは考える。
昔々、彼らが西寧の町にいた頃。
あるいはもっと昔、青唐羌と呼ばれていた頃、『星』はこの地に落ち、眠りについた。
そして青唐人の手によって持ち出され、代々の王と共に宝として扱われていた。
時は過ぎ、青唐は滅び、『星』は西寧から西夏へと移動し、今またここへと戻る。
西夏の女と、青唐の男の手によって。
「あ、あ、ソ、ソツェン」
「どうした、黄花」
喘ぐような荒い息の中、彼女の声が小さく聞こえた。
「怖い、とても怖いの、天に落ちる……」
恐怖に見開かれた、彼女の漆黒の瞳に、星々が映り込む。
その様子にソツェンは、ただならぬ異常を感じ、慌てて黄花を天幕の中へ入れ、力強く抱きしめた。
「大丈夫だ、俺がいる。お前はどこにも落ちはしない」
彼女を落ち着かせようと、ソツェンは彼女を撫でさすり、呟いた。
長い時間が経ち、黄花はいつしか眠りについていた。
起こさないようにと、ソツェンはそっとその身を寝床に置き、入り口から外を窺う。
外には、相変わらずの満天の星空。
冷え込む空気に、彼は少し身体を震わせて、天幕内へと戻った。
――黄花には、刺激が強かったか。
か弱き女に寄り添うように、彼は横になり、暖かな毛皮をそっとかける。
――また、見に来ような。
心の内で、そう誓い、彼は黄花の身体を抱き寄せた。
翌朝。
東の地平の向こうから、朝日が顔を覗かせる頃。
ソツェンは、一足早く目覚め、水を汲みに出かけていた。
無数にある池の一つに恐る恐る近寄り、その氷の張った水面を静かに叩き割る。
薄氷は簡単に割れ、澄んだ水が氷の合間から湧き出ていた。
「ううっ、冷たい」
ヒヤリと身を刺す冷たさの水を使い、彼は手早く身支度をととのえる。
上衣を脱ぎ、濡らした手ぬぐいで、寝汗をかいた身体をゴシゴシと拭う。
摩擦の影響で、体温は徐々に上昇し、湯気がふんわりと立ち上る。
そのまま顔までを洗い終わると、上り始めた太陽を見た。
心地よい日の光。昨夜の幻覚の如き光とは全く違うそれに、思わず頬が緩む。
と、その時。
「ソツェン!どこー!」
丘の上から、女の声がする。
「おっと、戻るとするか」
水桶を掴み、彼は斜面を上がって行った。
「なぜ、見ているのですか」
天幕の中で、水桶を前にした黄花が、不審な目で彼を見つめる。
彼女は着物の合わせ目を解く手を止め、その顔を真っ赤に染めていた。
「背中、拭いてやるよ」
「結構です、いやらしい人ね」
「そんなつもりじゃないって、遠慮するなよ」
彼女から、手ぬぐいを奪い取り、そのまま衣服をも剥ぎ取る。
冷えた外気と、恥ずかしさに、黄花は身体を震わせた。
「や、やっ、やだ、ソツェンっ」
「おとなしくしろって」
瞬く間に裸に剥かれた黄花を横目に、手ぬぐいを水桶に浸す。
肌を刺すような冷たい水に、指先が痺れる感覚がした。
「見ないで、恥ずかしい」
思わず胸を隠し、黄花は目を伏せる。
「もう散々見ているだろうに」
「それとこれとは違うのですっ」
適度に絞った手ぬぐいで、恥ずかしそうに丸まった彼女の背中を擦る。
予想外の力の入り方に、思わず彼女の声が漏れた。
「あっ、い、痛い、やだ、もっと優しくして」
「これぐらいで、丁度いいんだ、黙ってろ」
擦ったところの白い肌が、みるみる赤くなる。
悶える黄花を押さえ込み、彼はひたすらに腕を動かしていた。
天幕の外にて。
「あー、いい景色だ」
眼下に広がる、朝の星宿海を眺め、ソツェンは笑顔でいた。
「なあ、黄花」
「……はい」
傍らに寄り添う黄花は、真っ赤な顔で小さくうなずく。
背中や腕が、ヒリヒリとするが、それは心地よい温かさも、彼女にもたらしていた。
「少しは、温かくなったか?」
「なりましたけど、少し痛いです」
「すまないな、次はもっと優しくしてやるよ」
むくれた顔をする彼女に、ソツェンは苦笑いをして見せていた。
朝日を受けて、白く輝く、星宿海。
薄氷は、暖かな光で次々と溶け、再び空の色を映し込んでいた。
湖近くの草原。
行きと同じ時間を掛けて、二人は村へと戻って来ていた。
「おや、今日は放牧をしていないのか?」
昨日の道中、そこら中にいたヤクの姿は見えず、湖畔はさざ波の音だけを響かせる。
「ソツェン」
黄花が、急に彼の胸に抱きついた。
嫌な予感がしているのか、その身は僅かに震えている。
ソツェンは優しく彼女を抱き、さらに馬の足を速めた。
湖畔の青唐の村。
「何が、あった?」
馬から下りた、ソツェンと黄花は、静まりかえった村を見て、首を傾げていた。
彼らを出迎える人の姿は無く、ヤクの群れは柵の中に押し込められたきり。
天幕から立ち上る炊事の煙すら見えず、ただ風だけが吹いている。
人々の存在は、どこかへ消え失せてしまったかのようであった。
「人の姿が、見えませんね」
心細いらしく、黄花は彼の側から、離れようとしない。
とりあえず、人はいないかと、ソツェンは近くの天幕を覗き込んだ。
「うっ」
中を見て、彼の動きが止まる。
入り口まで流れた、赤いもの。
天幕の中で、眠っている人。
それは、呼吸音も聞こえず、全く動いていない様子だった。
「どうしましたか?」
不審に思った黄花が、中を見ようとする。
「だめだ、見るな!」
焦りに似た声に、彼女はひるんだ。
入り口の布を戻し、ソツェンは黄花を抱きしめる。
「ソツェン、何があったのですか?」
「黄花、お前は見なくていい、何も知らなくていい」
突如、荒くなる彼の呼吸に、黄花も何が起きたのか察していた。
「そんな、何かの間違いだ。こんな……」
目を見開き、ワナワナと震えるソツェン。
黄花はそんな彼に、優しく声をかける。
「ソツェン、無事な人もいるはずです、その人を探しましょう」
「黄花……」
心配そうに見つめる、彼女の瞳に、彼もふと我に返った。
「そう、だな。まずは人を探そう」
二人は、周囲に警戒しつつ、離れないように村内を歩き出した。
「ここも、だめだ」
村中の黒い天幕、その内部を覗き込んで、ソツェンは力なく呟く。
住民は、就寝中にでもやられたのか、皆、寝床にて絶命していた。
年寄りから、女、子供、力のある大人の男までも。
抵抗した素振りすら残さず、彼らは、胸を一突きに殺されていた。
「どういうことなのでしょう、山賊の仕業でしょうか」
「いや、物は盗られていない」
家具や貴重品、家畜すらも、動いた形跡はない。
犯人は、的確に人の命だけを狙った様子であった。
――山賊ではない、だとすると、一体何者が……。
心当たりに頭を悩ませていると、どこかで泣き声らしき物音がしていた。
「誰か、泣いていますね……」
声は、彼らの白い天幕から、聞こえてくる。
「俺の天幕か?」
ソツェンは、黄花の手を引いて、その場所へと向かった。
白い天幕。
泣き声は、その中から、確かに聞こえていた。
「黄花、お前はここにいろ」
彼女はそれに大きくうなずき、彼が中に入るのを見守った。
「誰か、いるのか?」
広い天幕内、二人の家でもあるそこには、他人が入った形跡があった。
きれいに並べられた敷布の上、土に汚れた足跡が複数。
ソツェンは顔をしかめてそれを睨んでいた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣き声の合間に、念仏の如く聞こえる、何者かの声。
それは、ひたすらに誰かに詫びている様子であった。
「誰だ!」
あまりにも不気味に聞こえる、その声に対して、ソツェンは威嚇混じりで問うた。
瞬間、小さい悲鳴。
そして、恐る恐る、それは反応していた。
「ソツェン、ソツェンなの?」
「ティンパ!」
柱の一つ、その元に、一人の女が、座っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ!」
「ティンパ、大丈夫か、何があったんだ」
彼女の格好に、ソツェンは驚いていた。
乱れた髪、ボロボロの衣服、そして縛られた身体。
泣きはらした顔は、所々にアザまで付いている。
「わた、私、こんなっ……、ご、ごめんなさい!ごめんなさい!」
「今、縄をほど……」
彼女の身体に食い込む縄を解こうと、ソツェンは背中に回って、言葉を失った。
後ろ手に縛られた両腕、だが、右腕の先が、失われていた。
「お前、右手はどうしたんだ……」
「な、無くしちゃったの。手も、私の純潔も、みんな、みんな無くしちゃったの!」
取り乱し、泣き喚く様に、彼は愕然とするしかなかった。
「ごめんなさいぃ!ごめんなさいぃぃ!」
壊れたように、同じ言葉ばかり繰り返すティンパ。
悲痛な叫び声が、天幕内に響く中、今度は表からも悲鳴がしていた。
「黄花!」
咄嗟に立ち上がり、彼は外へと飛び出す。
その後ろで、ティンパの身体は、力なく頽れていた。
「黄花!どうした!」
天幕から飛び出し、声を出したところで、彼の首元に何かが当たった。
「動くな!」
目の前で、ギラリと不気味に輝く、銀色の刃。
幅広の刀が複数、彼の喉笛を引き裂こうと狙っていた。
刀を持つのは、武装した兵隊姿の者たち。
既に天幕の周りは数十人の兵に取り囲まれ、彼は身動きが出来ずにいた。
「黄花……」
彼の目の前、手の届きそうな距離に、彼女は立つ。
その彼女に向かって、一人の身なりのいい兵が近寄り、恭しく頭を下げていた。
「お迎えに上がりました、公主」
その言葉に、彼女は何の反応も示さない。
「青唐公主、お迎えに上がりました!」
周囲の兵どもも、一斉に声を出し、彼女に向かって膝をつく。
目の前で頭を下げる兵たちは、はるばる西夏からやって来た者たちであった。
「こ、公主……」
やはり、という顔で、ソツェンは黄花を見る。
公主という称号は、皇帝の娘に付けられるもの。
だが、青唐の名を冠された公主だとは、彼にも分からなかった。
化粧領として、彼女に与えられた、青唐という土地。
そして青唐王の妻となった、西夏の青唐公主。
あまりにも出来すぎた偶然に、ソツェンの心臓が激しく鼓動する。
「青唐公主、兄君が貴方のお帰りを待っております、我らと共に戻りましょう」
兵が、彼女に向かって、手を差し伸べた。
「だめだ、黄花!」
思わず、声が出る。
「黙れ!」
ソツェンは腕を取られ、地面へと叩きつけられた。
兵の体重が、その背にのし掛かり、骨がミシミシと音を立てる。
西夏人の体格と鎧の重さで押し潰されては、さすがの彼にもどうしようも無かった。
「この下郎めが!この方を誰だと思っている!」
声を上げようにも、呼吸すら充分に出来ず、彼はただ黄花を見上げるのみ。
悔しさと、不甲斐なさに、その顔が歪んでいた。
「あ、うあ、ソ、ソツェン……」
いつの間にか、彼らの前には、首に刀を当てられた状態の、ティンパがいた。
「この者の案内で、公主の居場所が分かりました。こんな山奥にいるとは……」
そう言いつつ、兵はニヤニヤと笑った。
「さあ、この者に礼をしましょう。公主を連れて行けと言った、礼をね」
ティンパは、西夏兵に助けられた後、彼らの目的を聞き、この村へと導いた。
彼らの言う、公主の姿形は、あの忌々しい女と同じであると確信し、その女だけを連れて帰らせる、はずであった。
だが、彼女が村にいないと知った兵どもは、深夜、村人を襲い次々に殺した。
老若男女、徹底的に、青唐王家の血を絶やすため、凶刃は彼女の両親まで襲う。
そして彼女は、囮として捕らえられ、ソツェンの天幕に縛られた。
彼らを油断させ、殺すために。
「やれ!」
兵は合図をし、ティンパを捕らえる者は、その手に力を込めた。
「やめろ!」
「い、いや!やめてえ!いやああああ!」
ソツェンの叫びも空しく、彼女の首を、刃が一文字に引いた。
一歩遅れて、鮮血が草原に飛び散り、周囲は真っ赤に染まる。
空気の漏れる音を立てて、ティンパの身体は草の上に倒れた。
「さあ公主、戻りましょう。戻らないと、我らは兄君によって、処刑されてしまいます」
「青唐公主、お戻りください!」
兵たちが、頭を下げたまま、黄花に呼びかけた。
「黄花……、行くな……」
苦しい声で、ソツェンは乞い願う。
彼女は、黄花は、青唐王である自分の妻。そして生涯の伴侶と決めた女。
その黄花を、彼ら西夏人は奪い取ろうとしていた。
かつて、『星』を奪い去った時のように。
暫しの沈黙の後、黄花は重い口を開いた。
「……それは、兄上の命令、ですか?」
暗く、悲しい、声だった。
「そうです。兄君の黒水王、直々の命令です」
「私が、帰らなければ、あなたたちは死ぬ。と」
「その通りです、兄君はこの件で、大層お怒りのご様子。事実、これまで救出に失敗した者は皆、殺されました」
黄花の目から、はらはらと涙が落ちた。
おそらく、目の前の兵の中には、彼女の見知った者、幼き頃からの見守り役も、幾人かいたのであろう。
その者たちが、自分のした事によって、処刑の憂き目に遭う。
実の兄を、そこまで激怒させている事実に、彼女は震え、涙していた。
「公主、どうか、ご決断を」
美しいその顔が、涙に歪む。
「……彼と、話をさせてください」
くるりと、彼女は身を翻し、ソツェンの元へと歩く。
「黄花……」
足元で、苦しそうに呻く声。
彼女はのし掛かる兵を睨み、一喝する。
「どきなさい」
さすがに公主の言葉には逆らえないのか、兵は慌ててソツェンから離れていた。
「ソツェン」
彼の身を助け起こし、黄花は跪いて、彼にだけ聞こえる小さな声で言った。
「私は、兄の怒りを静めに戻ります」
戻るという彼女の決断に、彼は衝撃を隠せない。
引き留めようと、口を開きかけた時だった。
「ですが、あなたは、また私を攫いに来てください」
「何……」
「その時までに、私は兄を説き伏せます」
涙と共に、黄花は、にこりと微笑んでいた。
「信じています、青唐王ガル・ソツェン」
呆然とする彼を残し、彼女は立ち上がった。
「大夏へ、戻りましょう」
「おお、青唐公主、ありがとうございます!」
喜びの声で、感謝の意を述べる兵たち。
それは、公主が戻る喜びと、彼女の兄に殺されずに済むとの、二重のものであった。
「急ぎましょう、兄君も首を長くしてお待ちですから」
西夏兵の手で、黄花は馬上の人となり、青唐の村に別れを告げる。
その様子を、ソツェンは脱力したまま、見守るしか、出来なかった。
動く者の無い村、自分を信じて付いてきてくれた民を、彼は守れなかった。
再び失った、民の命と、彼の宝である黄花。
『星』よりも大切なものを、失った悔しさで、その目から、涙がこぼれる。
だが、嵐のような出来事が過ぎ去ったと思われた矢先、一騎の兵が舞い戻って来た。
その手に西夏の弩を構え、引き金にかかる指に力を入れる。
「死ね!」
弩から放たれた矢は、なんの迷いも無く、ソツェンの胸を貫いた。
「賊めが、公主を攫った報いだ」
吐き捨てた言葉が、倒れ動かない彼の身体にかかった。
馬が、遠ざかる音がする。
湖畔の青唐の村を、悲しげな風が、吹き渡っていた。