7 星宿海
ソツェンが王となり、数日が過ぎた頃。
月明かり差す、夜更けの湖畔を、一人の影が、彷徨っていた。
影の目の先には、白い天幕。
青唐王のソツェンと、その妻の黄花が暮らす、宮殿があった。
「ソツェン」
影が、悲しげな声で呟く。
風が吹き、湖面の波が、影のいる岸辺へと打ち寄せていた。
「私、諦めない、から」
影の足が、湖の水に洗われだす。
「ソツェンの隣は、あんな女じゃない、私こそが相応しいんだ」
月夜に光る、その目から、涙がこぼれ落ちていた。
遠くの山々が、白く染まり、湖の水が冷たさを増していく季節。
本格的な、冬が到来しようとしていた。
新しき青唐王は、美しき妻と、常に共にあり。慎ましくも、幸せな生活を、二人は過ごしていた。
そんな王を見て、村人たちは口々に、男らしくなっただの、嫁のおかげだの、褒め言葉と冷やかしの言葉を、次々にかけては、二人を微笑ましく見守っていた。
山中の、とある町。
人通りの少なくなった、町の通りを、女が歩いていた。
女は、当てもなく歩いていると思えば、酒場などを訪ねて回り、何か目的があるかのように、方々をうろついていた。
そうして、町外れの一軒家に、ならず者が集っているとの情報を得て、女はそこへと、足を向けていた。
「邪魔するわよ」
無遠慮に扉を開け放ち、女は威勢良く声を上げた。
酒盛りの真っ最中であった、山賊どもは、最初は驚いた様子であったが、やって来た女に、見覚えがあるのに気づくと、たちまち怒り出していた。
「お前、この間の小娘じゃねえか、何しに来やがった!」
すらりと、山刀が抜かれる音がし、冷たい光沢を放つ、その刃が、女の首元に向けられる。
「あんたたちに、頼み事があるのよ」
「はあ?馴れ馴れしいぞ」
「河源の、青唐の村を知ってる?そこで王が即位したの」
うつろな女の目は、どこか視線が定まらず、ぐるぐるとあちこちを見回していた。
「その青唐の村を、襲撃して」
女の言葉に、山賊どもがどよめいた。
「青唐王の嫁は、大層な美人だと聞くわ、その女はあんたたちの好きにしていい」
「それは、本当なのか?」
「本当よ、王の天幕には、貢ぎ物の財宝も、たくさんあるわ」
財宝と言われて、山賊の目が、輝きだしていた。
「おい、財宝だってよう」
「それがあれば、町で豪遊できるぞぉ」
「王の女、おんな、ぐへへ」
財宝に反応する者もあれば、女に反応するもの、その態度は様々であった。
色めき立つ、山賊どもを前にして、女の口角が不気味につり上がっていた。
ある日の夜。
湖のほとり、青唐の村の白い天幕で、ソツェンは黄花を抱いていた。
「なあ、黄花」
何枚もの毛織物を重ねた、暖かな寝床。
その中で彼女の長い黒髪をいじりつつ、彼はふと思った疑問を聞こうとした。
「なんであの時、お前は星宿海と言ったんだ?」
マトゥの町に辿り着く前、大小の湖沼群を見ながら、黄花はそれを口にした。
吐蕃の者しか知らない言葉、黄河の源流にある、その場所の名。
誰かに聞きでもしたのだろうか、と彼は考えていた。
「言わなければ、いけませんか?」
汗で乱れた髪を掻き上げ、黄花は上気した顔で微笑む。
「聞きたいんだ、何で西夏のお前が知っているのか」
「うふふ、困りましたね」
口では、そう言うが、彼女は言いたそうな顔をしてもいた。
「まだ、秘密なのか?」
「いいえ」
彼の胸に抱きつき、嬉しそうな声で、彼女は言う。
「もう、話す時期ですね」
逞しい、ソツェンの腕が、黄花を抱きしめていた。
黄花が、その場所の名を知ったのは、ソツェンと出会った、あの日の夜。
西夏の宮殿、玉座の間にて、彼女はその存在を聞いた。
あの龍が持っている宝玉、あれが『星』、海に落ちた星そのものだ。
海と言っても、黄河が流れ着く先のものではなく、黄河の生まれ出ずる場所。
西寧の向こう、日月山を越えた、ずっとずっと山奥に、それはある。
青唐の者が言う、星宿海という場所だ。
その場所は、草原に無数の湖があり、星が宿って見える、幻想的なところだという。
信じられないだろうが、本当に存在しているんだ。
それを聞かされた黄花は、その場所に憧れを抱いてしまっていた。
一度は寝室に戻って、眠ろうとしたのだが、どうしても『星』が気になってしまい、再び玉座の間に戻ったところを、ソツェンに誘拐されたのだという。
「でも、教えてくれた方も、自分の目で見たことは無いと言っていました」
黄花は懐かしそうに、語っていた。
「ふうん、そいつも良く知っていたものだ」
おそらくそれは、青唐の捕虜にでも聞いたのだろう、と彼は思っていた。
「だから、見てみたいのです」
「星宿海をか?」
「ええ」
次第に寒くなって来たのか、黄花がさらに身体を押しつけてきた。
柔らかなその部分の膨らみに、彼の身体が反応を示す。
「今、見なければ、後悔すると思うのです」
ソツェンの手が、黄花の頬を撫で、少しだけ顎を持ち上げる。
「明日、行ってみるか?」
その言葉と同時に、彼は口づけをしていた。
温かく、情熱的な感触に、女の身体は、再び火が着く。
「もう、雪が積もる時期だ。行くなら早い方がいいだろう」
彼女の首筋に、熱い男の息がかかり、厚みのある唇が優しく這った。
「んっ……、そう、ですね」
「黄花、約束だぞ」
男の手が、柔らかな胸をまさぐりだす。
天幕を支える柱を見上げつつ、彼女はそっと目を閉じた。
翌朝。
家畜の世話を一通り終え、ソツェンと黄花は、湖沿いに河源へと進んでいた。
どこまでも、地平の果てまで続く、緑なす草原。
上りはじめた日の光を受け、輝く湖面。
冬を迎えたばかりの、張り詰めた空気が、景色を、より鮮明に映していた。
「寒かったら、無理せずに言え」
「平気ですよ」
毛皮の服で黄花を包み、彼は後ろから抱き留めつつ、馬を駆る。
お互いの白い息が、混ざり、溶け合い、霞になって消えていく。
「あなたの腕は、とても温かいもの。寒さなんて気にならないわ」
昨夜の、夢の中のひとときを思い出し、黄花は頬を紅く染める。
今、己の身体を抱いているのは、彼の逞しい腕。
その腕で、彼女は抱きしめられ、愉悦の中、我を忘れて乱れに乱れた。
愛しい男だと、漆黒の瞳が、そっと彼を見上げる。
凜々しい顔つきで、前を見据える男、それは王として歩き始めた自信の表れでもあった。
「よし、急ごう、最もきれいに見える場所がある」
馬の腹を蹴り、ソツェンは寒くないように、彼女を抱きしめた。
唐蕃古道のとある場所。
うつろな目をした女は、山賊たちに連れられて、青唐の村へと向かっていた。
「……、……」
馬の背に揺られ、女は何かを呟き続ける。
既に、目の焦点は合うことが無く、ぐるぐると忙しなく動き回るのみ。
「おい、あの女、気が触れたようだぞ」
山賊の一人が、女を指さし、笑った。
「そりゃあ、あんだけ姦されりゃあ、気も触れるがな」
「がっはっは、違えねえや」
ぼさぼさの頭を振り乱し、山賊どもは馬上で、大声で笑い合った。
「あんなに抵抗してたのによう、一発顔面張ったら、おとなしくなりやがって」
「おかげで楽にヤレたなあ、具合もいいしよぉ」
下卑た言葉が、女の身体の上を飛び交う。
それでも、女は何の反応も示さなかった。
だらしなく開いた口から、よだれが垂れ落ち、閉じることのない目から、涙がこぼれた。
ぐしゃぐしゃに乱れた髪に、引き裂かれた衣服。
彼女の身に、何が起こったのかは、誰もが分かる有様であった。
と、その時、女の身体が、横から掻っ攫われる。
「あっ、何すんだぁ」
「うるせぇ、さっさと進め」
「そいつは、お前のもんじゃねえぞ」
「一発、やらせろよ、ケチな奴らだ」
まるで物のように、彼女の身体は、山賊の腕を行ったり来たりと回される。
女を巡って、山賊どもは、仲間割れを起こしていた。
腕をねじり、髪を引っ張り、彼女の身は乱暴に扱われ、為す術もなく傷つく。
「ふざけるなよ、この野郎!」
山賊の一人が、山刀を持ち出し、女を抱える仲間に刃先を向けた。
「おっ、やんのかぁ?」
斬りかかる刀を、男は咄嗟に女の身を盾にして躱す。
鈍い音がして、女の右腕が、切り落とされた。
その瞬間、うつろな目が、光を取り戻す。
焼け付くような痛みと、先の無い腕を目にして、彼女は大声で叫んでいた。
「ああああ!」
地面に落ちる、腕の先。
切断面からは、鮮血があふれ出し、脈に合わせて痛みは苛烈さを増す。
あるはずのものがない、その光景が、余計に激痛を引き起こしていた。
「うるせえぞ!」
絶叫する女に、刀が振り下ろされる。
だが、その刃は空中で弾かれ、あらぬ方向へと飛んでいく。
「な、なんだ……」
言葉も途中に、山賊の胸を矢が貫く。
皆が呆気にとられる中、地平を疾走する矢。
山賊どもは、次々とその餌食になっていった。
気絶しそうな、痛みの中、女が薄れゆく意識で見たものは、古道の遙か向こうで、弩を構えた騎馬隊の姿であった。
草原の中を、青唐馬が走る。
双子の湖は、遥か彼方に過ぎ去り、細いせせらぎの黄河が、横目に併走している。
草地は次第に湿り気を帯び、馬の足を徐々に鈍らせつつあった。
「これ以上、河に近寄ると危ない。丘を行くぞ」
蹄が泥を跳ね、乾いた丘の斜面が、二人を先へと進ませる。
丘から眺める黄河の流路は、蛇の身体の如く曲がりくねり、地平の先には、輝くものが見えだしていた。
「ソツェン、まだなのですか」
彼の胸にしがみつき、黄花はしびれをきらして、問いかけた。
「もうすぐだ、もう見えている、あれは逃げたりしないからな」
朝早くに村を発ち、日は天頂高くで燦々と輝く時刻。
薄い空気の中を、馬はひたすらに走り続けていた。
太陽が、少しだけ傾いた頃。
二人は、それを見下ろす場所に、辿り着いていた。
空には、綿雲の大きな塊が、手の届きそうな近さで浮かぶ。
「もう、見てもいいですか?」
目を閉じた黄花が、問う。
「まだだ、もう少し我慢しろ」
「あなたは、また私を焦らすのですね、昨夜もそうですし」
少し怒ったような言葉に、彼は苦笑いをしていた。
「そうか?」
「そうです、いじわるな人ね」
瞬間、強い風が吹き、彼女を包む毛皮が、吹き飛ばされそうになる。
頭上の綿雲は、その風に乗って、千切れながら移動を開始していた。
「黄花、見てみろ」
ソツェンが、そう言って指さす。
彼女は瞼をゆっくりと開き、眩しそうに顔をしかめつつも、その手の先に広がる景色に言葉を失っていた。
日の光を反射し、無数に煌めく、大小の湖沼群。
しかもそれらは、地平の果て、山の麓、目の前の視界いっぱいに広がっていた。
群青色の空の色を、湖面に落とし込み、天は大地に捕らえられたかのよう。
「ここが、星宿海だ」
星の宿る海。
古の吐蕃人は、ここを指してそう言い表した。
だが、なぜ星の宿る海と称されたのか、それはまだ分からぬままであった。
「今は昼間だからこうだが、夜になるとその言葉の通り……」
説明の途中で、彼の口が塞がれた。
白く細い、黄花の指が、そっとその口を押さえ込んでいる。
「その先を言わないでください」
少し慌てたような口調に、ソツェンは驚いた顔をする。
「それは、私の目で見たいのです」
緑の草原と、輝く無数の湖、黄花は目を細めて、それを見つめていた。
どれぐらいの時が経ったであろうか。
青い草原の丘に、二人は寄り添いながら座っていた。
日はだいぶ傾き、空の色は少しずつ赤くなりはじめていた。
「実は、この場所を教えてくれたのは、私の兄なのです」
寒くないように、ソツェンに肩を抱かれ、黄花はそう言った。
「兄?」
「ええ、私の双子の兄です」
あの日、玉座の間にいた男は、黄花の実の兄。
密通の相手では無かったと思うと、ソツェンの心は少しだけ軽くなった。
「兄は、私をとても可愛がってくれました。同じ腹の兄妹だからもありますが」
――だから、日月山まで追っ手が来たのか。
道中でのことを思い出して、彼は何か腑に落ちたようであった。
「お前の兄は、物知りなんだな」
「そうですね、黒水城の王でもありますし……」
王という単語に、彼に疑問が生じていた。
兄が王、という事だと、彼女の身分は必然的にあれとなる。
「実の兄が、王?じゃあお前は」
「聞かないでください」
薄絹の服の袖で顔を覆い、黄花は首を振る。
「私は、あなたの、青唐王の妻です、もうその身分ではありません」
「し、しかし、俺は、知らぬとは言え、古の吐蕃王と同じ事を、したというのか」
彼女の身なり、装飾品、佇まい、そして西夏人でも際立つ美しさ。
全てが一致し、そうであった理由が、今ここで明かされていた。
「俺は、ただの女だと思っていた。お前が、そんな身分だとは知らなくて」
「知らなくて、私を攫ったのですか?」
思わずたじろぐソツェンの胸に、黄花が抱きつき、そのまま彼は押し倒された。
「す、すまん、そうと知っていたら、俺は誘拐なんぞしなかった」
「ソツェン」
慌て、詫びを入れる彼の口を、黄花の紅い唇が覆った。
「お、黄花」
「少なくとも、私はあなたに誘拐されて、良かったと思っています」
呆然とする彼の顔に、白い指が触れていた。
「あのまま、興慶にいたら、私はどこぞの将軍の妻になっていたでしょう」
はらりと、彼女の黒髪が垂れる。
長い黒髪は、人妻となった今でも、結い上げられず、下ろしたまま。
「この場所を見ることも無く、好きでも無い男の元で、子を産む生き方」
黄花の目が、潤みだした。
「それよりは、外へ出て星宿海を見て、あなたを愛し、子を産んだ方がましです」
その言葉に、なぜかソツェンの顔が紅くなった。
気まずそうに、顔を反らそうとするも、彼女の手で頭が固定される。
「ソツェン、私はあなたを愛しています、他の誰よりもあなたが好きです」
「黄花、だ、大胆だな」
彼女の手に、彼の頬が熱を帯びるのが伝わり、二人は照れながらも見つめ合った。
「きちんと言わないと、あなたは余所の女の元へ行きそうですもの」
頬を少し膨らませて、黄花はそう言った。
唐蕃古道の町で彼女が現われ、目の前で仲良さそうに振る舞われたのを見て、黄花は初めて、嫉妬に胸を焦がした。
欲しいものを横から奪われた、悲しさ、辛さ、悔しさ。
それを再び、味わわないようにと、黄花はハッキリと釘を差していた。
「安心しろ、俺はお前しか愛さない、約束する」
その言葉に安心したのか、黄花はまたも口を重ねていた。
夕焼けが深まり、夜の闇が少しずつ訪れるころ。
目前の星宿海は、鮮やかな茜色に染まっていた。
無数の湖面に、赤い色が映し出され、草原は野火に照らされているようであった。
「きれい……」
思わず、溜息が漏れる。
彼女の背後では、ソツェンが簡素な天幕を張っている最中であった。
「黄花」
「はい」
「寒いだろう、中で休め。その時になったら、俺が呼ぶから」
黒い天幕は、大人数人が寝転がれるぐらいの、小さなものであった。
その入り口を少し開け、彼は中に入るように促していた。
「いいえ、遠慮しておきます」
彼の提案を、黄花は丁寧に断った。
「見逃したくないのです、それになる瞬間を、見ないといけないから」
「仕方の無いやつだな」
寒そうに座る彼女を、ソツェンは背後から抱きしめた。
「これなら、いいか?」
「ええ、ありがとう」
凍えないようにと、毛皮で己と黄花をふわりと包み込む。
日が落ち、急速に冷え込む気温の中、二人は海をじっと見ていた。
周囲は見る見るうちに暗くなり、茜色が山縁の空に消えようとする。
紺青の天からは、輝く星々が姿を見せ、宝石が散りばめられたような光を放つ。
星宿海、その名に恥じぬ宴が、始まろうとしていた。