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5 女の戦い

「黄花」

 暗闇の中に、彼女の姿があった。

「黄花、待ってくれ」

 だが、その呼びかけには答えず、彼女は彼に背を向けて、歩き去る。

「話を聞いてくれ!」

 彼女を追おうとするも、己の足がもつれて、動くことが出来ない。

そうこうするうちに、彼女の姿は、闇の彼方へと消えていた。


「黄花!」

 思わず飛び起きた、寝台の上。

窓から差し込む朝日に、ソツェンは向かいに眠る彼女を見る。

 毛皮にくるまれた寝姿。

黄花は確かに、そこにいた。

「よかった……」

 ほっと、胸を撫で下ろす。

と、同時に、無意識に口走った、彼女の名前に、彼は顔を紅くした。

――聞こえて、いない、よな。

 すやすやと眠る、その姿は、まるで菩薩の寝姿のように、映って見えた。


 朝食後。

ソツェンは黄花が身支度を整え終わるのを確認し、彼女を表へと連れ出していた。

「その、すまない」

「……何がですか」

 明らかに不機嫌な声。

激怒しているのが、よく分かるものであった。

「ティンパのことだ、あれは……」

「もう、いいです、話しかけないでください」

 冷ややかな、見下すような目つきに、彼は背筋が凍るのを感じた。

「聞いてくれ、あれは、ままごとでの約束なんだ。正式なものではない」

 黄花の手を取り、ソツェンは諭すように優しく話す。

ティンパの言う許嫁とは、彼らが子供の時にした、ままごとの話なのだと、ソツェンは主張していた。

 それを彼女は真に受けて、ずっとそう触れ回っていたとのこと。

ティンパの父母や、村人、そしてソツェンの親も、本気には受け止めていなかったらしい。

「あいつは、ただの幼なじみだ。それは誓ってもいい」

「触らないで」

 彼の手を払いのけ、黄花は抑揚の無い声で呟いた。

「俺は……」

「あっ、いたいた、ソツェン!」

 彼が何か言いかけた時、ティンパがこちらへ向かって走ってくるのが見えた。

「んもー、どこに行ってたのようー」

 またも彼女は、ソツェンの胸に飛び込み、黄花の目の前で彼に甘え始めた。

「ティ、ティンパ、今はちょっと」

「うそつき」

 ぽつりとつぶやき、彼らに背を向ける黄花。

ソツェンは、彼女が宿に戻るのを、黙って見ているしか出来なかった。


 道中。

――気まずいな。

 黄花の乗る、馬の手綱を引きながら、ソツェンは彼女を盗み見る。

毛皮を羽織り、彼女の美しい目は、ずっと山並みを見つめたまま。

すぐそばにいる、ソツェンらには、一切目を向けようとはしなかった。

 乾いた風が、道を吹き抜け、黄花の黒髪をふわりと揺らす。

町を出てすぐに、道は山中へと入り、緩やかな上り坂が延々と続いていた。

「ねえ、ソツェン。手綱なんか引かないで、乗ったらどう?」

 二人の目の前で、馬に乗ったティンパが、そう提案する。

「だめだ、二人も乗せて峠は無謀だろう」

「そうやって、ちんたらやってたから、遅かったのねぇ」

 彼女はそう言って振り返り、ソツェンと黄花をジロジロと見た。

「大体、何で下の人なんか連れてきたの。足手まといじゃない」

 足手まといの部分だけ、ことさらに強調し、大きな声で言い放つ。

「何の役にも立たないのなら、今すぐ帰らせたら?その方がいいけど」

 ティンパはケラケラと笑い、馬の腹を蹴って先へと進む。

「すまない、礼儀を知らないヤツなんだ」

 ソツェンの詫びるような言葉に、黄花は何の反応も示さない。

二人は、なおも歩く速度を変えず、ゆっくりと一歩ずつ山道を行った。


 峠を越え、なだらかな草に覆われた山を遠くに見る。

頂上には、白いものが少しかかり、一足早く、冬がやって来ているのを告げているようであった。

「今の峠が、最後の峠になる。後はマトゥの町に寄って、それから俺の村だ」

 道の両脇で、羊やヤクが、のんびりと草を食む。

「ソツェン、もうすぐだから、急ごうよ」

 ティンパが、急げと彼をせっつく。

「ああ」

 彼は馬を止め、馬上の黄花を見つめていた。

「後ろ、いいか?」

「……どうぞ」

 黄花の後ろに、彼は飛び乗り、そのまま彼女を優しく抱き留める。

柔らかな、その触り心地に、ソツェンの心臓が鼓動を早めた。

「いくぞ」

 手綱をしかと握り、ソツェンは馬の腹を蹴った。

軽快な音が、高原の中に響き渡る。

 二頭の青唐馬は、どこまでも青い天の下、土煙を上げつつ疾走した。


「待って」

 しばらく走っただろうか、不意に黄花が馬を止めさせた。

「どうした」

 腕の中の彼女、その目は、じっと何かを見つめたまま動かない。

思わず、ソツェンも、黄花と同じ方角を見やった。

「何が見える?」

 緑に覆われた、草原。

その草原の中に、緑ではない部分がいくつも見える。

「ここが、星宿海せいしゅくかいですか?」

 日の光を反射して、緑のないところが光っていた。

「違う、ここは星宿海ではない」

 光るもの、それは、草原に無数に散らばる、大小の湖沼群であった。

「そう……」

 心なしか残念そうな顔をする黄花。

彼は、ふと疑問が湧いていた。

「なぜ、その名を知っている?」

 吐蕃の者しか知らない、星宿海という地名。

それを、一人の西夏の女が知っているということに、ソツェンは不思議な気持ちになっていた。

「秘密です」

「教えてくれないのか」

「あなたは、私に隠し事をしていました。だからお返しです」

 藪蛇だったかと、ソツェンは思った。

まいったとばかりに、帽子を取って髪を掻き上げる。

 その時、先を行っていたティンパが、慌てて戻ってくるのが見えた。

「大変だ、ソツェン。山賊がでたよ!」

 道の向こうで、土煙が上がっていた。


 地平の向こう、何者かが奇声を上げつつ、こちらへとやって来る。

「ソツェン、なんとかしてよ」

 息を上げつつ、ティンパは二人の陰に隠れようとしていた。

「二人とも、危ないと思ったら、すぐ逃げろ」

 彼はおもむろに下馬し、鉄棍を握りしめて彼女らの前に立った。

一呼吸、二呼吸、ゆっくりと大きく、ソツェンは息をし、内力を巡らせる。

 日月山よりも高い標高、青海アムドでも、ゴロクと呼ばれるこの地域は、山賊が非常に多く、武装している隊商ですら、全滅することが多い曰く付きの場所である。

――あともう少しで、マトゥなのにな。

 鉄棍を構え、ソツェンは間近に迫った山賊目がけて、走り出していた。

「相手は一人と、女が二人だ!」

「やっちまえ!」

 非常にきつい青海アムド方言で叫び、山賊どもは馬上から矢を放つ。

緩い放物線を描きながら、矢はソツェン目がけて飛んでいた。

「ふん!」

 鉄棍の一降りで、簡単に叩き落とされる矢は、軽い音を立てて砂利道に落ちる。

彼は身を屈めると、それらを掴み、振りかぶって射返す。

 複数のうめき声と、馬の倒れる音。

山賊の数は、少しだけ減ったようだった。

「はっ!」

 馬とソツェンがすれ違う一瞬、彼は騎手の首に狙いを定めて、鉄棍を横薙ぎに払う。

白目を剥いて、ひっくり返る男と、そのまま走り抜ける馬。

 彼はそのまま、集団の中に入り、素早く身構える。

山刀を抜いた山賊どもが、ソツェンの周りをぐるりと囲んでいた。

「やれ!」

 誰かの声と同時に、山賊の山刀が一斉に動き出す。

ギラギラと鈍く光る刀身は、彼を狙い、四方八方から襲いかかった。

 最も近い、第一刀を避け、さらに次の二刀を鉄棍で受け止める。

二刀目の刀を弾き飛ばして、三刀目を受け流しつつ、男の身に内力を込めた掌底を食らわせた。

 大量の血を吐き、吹っ飛ぶ山賊。

ソツェンは鉄棍を軸にして、ぐるぐると回転しつつ、山賊の頭を蹴って囲みから抜け出していた。

「死にたい奴から、かかってこい!」

 地を震わせる程の、咆吼。

有り余る内力を込めた大声で、彼は叫んだ。

 山賊の中でも、一際体格のいい男が、前に進み出る。

男の振るう山刀と、ソツェンの鉄棍がぶつかり、甲高い音と火花が散った。

「やるじゃねぇか」

 男がにやりと笑い、再び山刀を繰り出す。

二手、三手と刀と鉄棍が音を奏でると、ソツェンは素早くその身を、男の懐へと潜り込ませていた。

 内力の漲る手が、男の首を掴み、次の瞬間。

何かが破裂するような音がして、男は鼻や口から、夥しい量の血を流し倒れた。

「ひいぃぃ!助けて!」

 情けない悲鳴を上げ、山賊どもは散り散りに逃げ惑う。

 再び、湖沼煌めく草原に、静寂が訪れていた。

「さて、と」

 服についた埃を叩き、ソツェンは彼女らの元へと戻る。

「二人とも、無事か?」

 彼はそう言って、二人を安心させようとするが、その目線は黄花の方を向いていた。

「さすが、ソツェンね。青唐王の末裔なだけあって、強いわぁ」

 ティンパの、何気ない一言に、黄花は彼女を驚きの顔で見やる。

「青唐、王?」

「なにあんた、そんな事も知らないで、付いてきたの?」

 見下すように言うティンパから、目を逸らし、黄花はソツェンをそっと見る。

彼は、その顔をうつむかせ、ばつが悪そうな表情をしていた。

「ソツェン、どういうことなのですか?」

 黄花の問いに、ソツェンは口をモゴモゴさせ、言いづらそうにぼそりと呟く。

「……隠すつもりでは、無かった。いずれは言おうと思っていた」

 彼が、『星』を求める理由。

それが分かった気がして、黄花の胸がちくりと痛んだ。

「俺は、青唐王の末裔。本来なら、お前と口をきくことも許されないんだ」

 ふと、ソツェンは悲しげな顔を見せていた。

身分の違う二人、片方は滅びし国の王子、もう片方は滅ぼした国の皇族。

 本来であれば、相見えるなど無かった二人は、偶然にも、国が滅んだ事によって、出会い、共に旅をしていた。

「そうよ、あんたみたいな下の女なんか、ソツェンに釣り合うわけないんだから」

 そう言って、ティンパは、べーっと舌を出して見せる。

「すまない」

 ソツェンの言葉に、黄花は何も話すことが出来なかった。


 マトゥの町。

黄河マチュの源流域にある、小さな宿場町。

 唐蕃古道は、ここから南へと方向を変え、ジェクンドを通ってラサへと向かう。

だが、三人は古道に別れを告げ、進む方向を西へと向ける。

 黄河の最上流部、河源へと。


 宿に女二人を残して、ソツェンは馬の手入れに外へと出て行った。

部屋には、黄花とティンパ。

 気まずい空気が、部屋を支配していた。

「はあー、ここまで来たら、もうすぐかぁ」

 ティンパは心なしか嬉しそうな声で、独り言を口にしていた。

「村に戻ったら、祝言を挙げてもらわなきゃ、皆喜ぶんだから」

 寝台に腰掛けて、彼女の足がパタパタと揺れる。

「あ、あんたも同席させてあげるわよ。私とソツェンの結婚式、見届けなさい」

 勝ち誇ったような顔で、彼女は黄花を見下す。

その黄花は、寝台に座り、ずっと下を向いたまま、着物をきつく握っていた。

「ソツェンが取り戻した『星』の前で、彼は王になって、私を妻にするの」

「『星』……」

「そう、『星』、青唐の宝なんだから」

 ニヤニヤと笑う様子に、黄花は顔を上げ、力強く彼女を睨み付けていた。

「『星』は、渡しません」

「はあ?何よそれぇ」

「あなたが、私の邪魔をするのなら、私も、あなたの邪魔をします」

 精一杯の強がり。

どうせ『星』は、遅かれ早かれ、彼らに取られるのだ。

ならば、出来るだけ妨害をして、少しでも長くソツェンの側にいよう、と黄花は企んでいた。

「何なの、ソツェンの邪魔をするっての?」

 立ち上がり、ティンパの大声が部屋に響く。

「彼の邪魔ではありません。あなたの邪魔です」

 ティンパの顔が、見る見るうちに紅くなる。

「ソツェンが選ぶのは私に決まってる、あんたなんかお呼びじゃない!」

「勝手に決めつけないでください、それはあなたの意見でしょう」

 一方的に声を荒らげるティンパと、努めて冷静に話す黄花。

言葉がぶつかり、視線に火花が散るようであった。

「下の人間如きが、調子に乗って!」

「調子になど、乗っていません」

「少しソツェンと一緒にいたからって、生意気!」

「生意気なのは、お互い様でしょう」

 ますますもって、罵り合いは加熱していった。

ティンパは、黄花の目の前に仁王立ちし、上から大声で怒鳴る。

「この売女!」

 唾が飛ぶ。

 紅い顔の女が、憤怒の表情で、汚言を巻き散らかす。

「お高く止まってんじゃないよ!」

 はあはあと、肩で息をするティンパに、黄花は静かに口を開く。

「言うことは、それだけですか?」

 思わず、カッとなった彼女は、無意識に右手を動かしていた。

 平手打ち。

しかし、黄花は身じろぎせずに、鋭くティンパを睨み返す。

「何、その目!」

 さらに、追加の平手打ちが、黄花を襲う。

紅く腫れ上がる頬に、彼女はただ、睨むだけであった。

「いい加減にしろよ!」

「痛いっ!」

 黄花の長い黒髪を掴み、ティンパは思い切り引っ張った。

「あんたねぇ、ここは吐蕃よ。あんたの味方なんか、一人もいないんだから」

 ブチブチと、何かがちぎれる音。

捕まれた髪が、抜ける音だった。

「ソツェンも、あんたのこと、うっとうしいって思ってるわよ」

「ち、違う!彼は……っ」

「黙れよ!」

 顔を引き上げ、ティンパはまたもその顔に、一発張った。

「なれなれしく、彼とか言うんじゃない!このブス!」

 加減をしない、鋭い蹴りが、黄花の腹にめり込む。

美しいその顔が、一瞬で苦悶の表情になっていた。

「げ、げほっ、げほげほっ」

 大きく咳き込む黄花に、ティンパは唾を吐きかけた。

びちゃりと顔につくそれに、彼女も何か吹っ切れたようだった。

「よくも、やったわね!」

「わっ!」

 ティンパの足を押さえ、引き倒すと、黄花は素早く馬乗りになる。

「お返しよ!」

 バシバシと何発も、黄花の平手打ちが、ティンパに加えられる。

お互いに顔を腫らし、ゴロゴロと床を転がりながら、二人は取っ組み合いの喧嘩を続けていた。

 しかし、ここは標高の高い町。

黄花の息は、瞬く間に上がり、彼女はたちまち劣勢に追い込まれていた。

 と、そこへ。

「何だ、うるさいな?」

 馬の手入れを終えたソツェンが、部屋に戻って来ていた。

「な、何してるんだ、二人とも!」

「あ……」

「あ!」

 床で埃まみれになりながら、ぐしゃぐしゃになっている二人を見て、

ソツェンは、思わず身体が固まっていた。

「ソツェン、酷いよ、あの女!」

 ティンパが、猫なで声で彼に近寄り、媚びを売る。

「私に、平手打ちして、何度も殴ったの」

 だが彼は、ティンパよりも、黄花のケガの具合が重いことに、気づいていた。

「ねえ、あの女、追い返して」

 擦り寄る彼女を押し戻し、ソツェンは黄花に近寄った。

「大丈夫か?」

 大きく息をし、苦しそうに喘ぐ黄花。

ざんばらに乱れた長い彼女の黒髪だが、周囲には、引き抜かれたのであろう、髪の毛が、無数に散らばっていた。

「痛むのか?なんで喧嘩なんかしたんだ」

 紅く腫れ、ひっかき傷のある黄花の両頬に、彼は哀れみの目を向けていた。

「ソツェン」

 重い声で、黄花は言葉を絞り出した。

「こうなったのは、あなたのせいです」

「え、お、俺の?」

 彼女は、黙ってうなずいた。

「だから、決めて、ください」

「何をだ?」

「私と、あの娘、どちらが大事なのか、決めてください」

 そう指さす先、腕を組むティンパが、立っていた。

「急に言われても……。俺は両方とも大事だ、それではだめか?」

「だめに決まってるでしょ、ソツェン」

 むくれた顔をするティンパであったが、彼女も両頬が紅く腫れており、怒りで膨れているのか、ケガで腫れているのか、よく分からない状態であった。

「決めなさいよ、ソツェンは男でしょ!」

「ソツェン、お願い、決めて」

 幼なじみのティンパ、西夏皇族の黄花。

両方から決めろと迫られて、ソツェンは大いに悩んだ。

 どちらか片方を選べば、片方は必ず泣きを見る。

二人とも娶ることは、可能なのだが、いずれ問題が起きるのは、分かっている。

それは、今の惨状を見ても、明らかであった。

 彼女たち二人の視線を感じながら、ソツェンは思案に思案を重ね、長い時間が過ぎていた。

そしてようやく、その重い口を開く。

「俺は……」

 張り詰める空気が、部屋に充満していた。

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