4 温泉に入る二人
道の両側に、丈の短い草がどこまでも広がっている。
空の青い色は、下界よりも遥かに濃く、紺青の深い色合いが、頭上一面を覆っていた。
足元の道は、行き交う人々のために、土や礫が露出しており、雨が降れば、すぐにぬかるんでしまいそうな、そんな危うさを孕んでもいた。
吹きつける冷たい風は、湿気を全くと言っていほどに含んでいなく、ただ乾燥した空気のみが、この地に冬が訪れるのを告げようとしていた。
「寒くはないか?」
馬の手綱を引き、ソツェンは毛皮に包まる黄花を心配する。
「平気です」
その声に、ソツェンは振り返り、彼女と視線を交わしていた。
「ソツェンのおかげかしらね」
にこりと微笑み、しなやかな手で黄花は自身のへそ下を撫でる。
なんとも言えない、その艶めいた仕草に、彼は慌てて顔を逸らしていた。
日月山での件以降、追っ手の姿はどこにも見えず、むしろ、古道を行き交う人までもが、少なくなっているように感じられる。
「この先に、峠がある。大事を取って今日はその手前で休もう」
「ええ」
目の前に聳える、山脈。
その麓の村で、彼らは峠越えの支度をしようとしていた。
小さな村。
この村にある、小さい酒場に、二人の姿があった。
「さて、これからなんだが」
ソツェンが、難しい顔で黄花を見やる。
「この先の峠を越えた後、峡谷を渡って、さらに険しい山道が続く」
食事を済ませた黄花は、その言葉を黙って聞いていた。
「山道の途中で、また峠を越える。そこは日月山の比ではないほどに厳しい難所だ」
卓の上で、箸や小石を並べて、分かりやすく説明する。
「だが、そこを越えれば、後は比較的楽になる」
「楽って、どれぐらいですか?」
「なだらかな登り道だな。じわじわと高さが増し、空気も薄くなる」
黄花は、軽く溜息をついた。
「私、あなたに付いて行けるでしょうか?」
「心配するな、お前には無理をさせないように進む」
不安顔の彼女を元気づけるように、ソツェンは微笑んでいた。
村の市場。
「とは言ったものの、手持ちがなあ……」
峠越えのための、毛皮と食料を購入した時点で、ついに路銀は底をついていた。
思わず懐に手を突っ込み、彼はしばらく考える。
「聞くだけだ、聞くだけ」
ソツェンの足は、道具屋へと向いていた。
「すまない、少し尋ねたいことがある」
人目につかないように、ソツェンは道具屋の店主に声をかけた。
「いらっしゃい、買い取りかね」
「まあ、そんなもんだ」
周囲を見回し、彼はその手に握られたそれを差し出した。
「いくらぐらいになるか、見て貰いたい」
黄金に輝く耳飾り。その豪奢な造りに、店主は驚いていた。
「これは驚いた、見事なもんだねえ」
そう言いつつも、店主は耳飾りを品定めする。
埋め込まれた宝石に、細かな細工、それを見る度に、店主の溜息が漏れた。
だが。
「これ、どこで手に入れたんだい?」
店主の声が、低いものになる。
「訳あり品は、ウチではお断りだよ」
「なに?」
「これ、西夏の文字が刻まれているね。しかも皇族しか身に着けられない代物だ」
店主の思いがけない言葉に、ソツェンの身が固まった。
「ほら、ここを見てごらん。これが西夏の文字だ」
太い店主の指先に、何やら文字らしきものが見える。
「漢字のようで、漢字ではない、西夏でしか使われない文字だよ」
それは、漢字よりも画数の多い、特殊な文字。
漢の文化に憧れ、漢に倣おうとした西夏は、いつしか独自に作り出した文字を使用していた。
彼らはその文字を使いこなし、仏教の経典から、各種法の文書、果ては日常生活にまで、幅広く西夏文字を普及させていた。
「何と書いてあるんだ?」
ソツェンは、興味深げにそう尋ねた。
「ええと、これは李の字だね。皇族の氏だ」
「皇族……」
「墓暴きでもしたのかい?滅多なことはするもんじゃないよ」
店主の忠告の言葉。
しかし、それは、今の彼の耳には、届かなかった。
宿屋。
寝台に腰を下ろす黄花を見ながら、彼は詰め寄っていた。
「お前は、西夏の皇族なのか?」
その問いに、彼女は何の反応も示さなかった。
「お前の氏は李だろう。それならば、あの時刻に宮殿にいたのも納得できる」
夜更けの宮殿。
玉座の間に出入りできる者。
そして、高貴な身なり。
全てが、一つに合わさったようであった。
「答えろ、そして『星』を返せ」
うなだれる彼女の姿、長い黒髪が顔を覆い、その表情は伺い見ることが出来ない。
「聞いているのか」
低い声で、ソツェンは凄んだ。
ついに探り当てた、彼女の正体。
これで、『星』が帰ってくる、と同時にこの女は必要がなくなる。
嬉しい反面、どこか寂しい気持ちが、彼の心に広がりつつあった。
「……半分、当たりです」
肺から空気を絞り出すように、黄花が答えた。
「確かに、私は大夏皇族です。でも」
ゆっくりと、彼女は顔を上げた。
「皇族の、どの身分かまでは、あなたは言っていない」
その瞳が、潤んでいた。
「それを当ててください。そうしたら、私は『星』を返します」
一瞬見せた、寂しげな顔。のち、それを打ち消すような満面の笑顔。
――やはり、面倒な女だ。
ソツェンは、そう思っていた。
翌日。
朝早く、村を発った二人は、山道をひたすらに登っていた。
標高は急激にその高さを増し、幾重にもつづら折りになった道が、二人の行く手に
待ち構えていた。
「はあ、はあ」
険しい山道。ソツェンは平然とした顔だが、黄花は息を荒らげていた。
「浅く息をするんじゃない、深くするんだ、ゆっくりとだぞ」
彼の指示に従い、彼女は大きく息をする。
体内を巡る、ソツェンの内力のおかげか、息は荒くなれども、日月山の時のように、酷い高山病にはならなかったのが幸いだった。
峠の頂上付近で、一旦休み、今度は下りの坂にさしかかる。
くねりながら坂道を下り、またも大草原の中の道を二人は進んだ。
遥か遠くには、遊牧中の羊の群れが、のんびりと草を食んでいるのが見えていた。
「羊は暖かそうでいいわね……」
ふと、呟く。
ソツェンは馬を止めると、黄花を地面に下ろしていた。
「少し休もう」
毛皮の上衣を彼女に掛け直し、彼は周囲を見回す。
「さて、どうするかな」
遥か地平線を眺めつつ、ソツェンは考えていた。
このまま、最短距離を行けば、直に峡谷を渡り次の峠も越えられる。
だが、少しだけ遠回りして、町に寄ってから峠に向かってもいいかと、彼は思案した。
「よし、町に寄るか」
緑濃い、地平線の遥か向こうの町を指さし、ソツェンはそう言った。
「町、があるのですか?」
風に、長い髪を靡かせながら、黄花もその方向を見る。
「少し遠回りだがな、今日はそこで休んで、明日に備えよう」
疲れた彼女を励ますように、彼は笑っていた。
交易路から少し外れた、草原の中の町。
寺へと至る途上にある、この町は、今までの町に比べて、巡礼者や、僧侶の姿が多いところでもあった。
二人はここで一泊し、体力を回復させてから、再び古道を進もうとしていた。
「私、五目……」
町の酒場で、黄花はまたもそれを欲する。
「そろそろ違うのを食べたらどうだ」
連日のように、五目そばを食べる黄花に、彼は少々呆れていた。
「だって、気に入ったんですもの。お野菜も、お肉も入ってて、温かくて……」
「ああ、分かったよ。俺も五目そばにする」
「ありがとう、ソツェン」
困り顔の彼だが、嬉しそうにそう語る黄花の笑顔に、少しだけ眉を緩めていた。
二人はここで腹ごしらえをし、明日に向けて、早々に就寝することと相成った。
翌日。
町を発った二人は、共に馬の背に揺られながら、峡谷を目指していた。
「しっかり掴まっていろ、少し急ぐぞ」
「はい」
黄花を胸にしっかりと抱き留めて、ソツェンは馬の手綱を握る。
昇る朝日を背にして、二人は草原の中を駆け抜けていた。
しばらく行くと、小さな峡谷。
そこを越え、さらに道を進むと、今度は深い大きな峡谷に当たる。
両岸を深く河に削られた地形が、目の前に広がっていた。
「すごいところ……」
ソツェンに抱かれ、黄花は呟いた。
眼下の谷底では、激しい水の音が、ゴウゴウと響き渡っていた。
「世界に、こんな景色があるなんて、今まで知らなかったです」
「外に出たのは、初めてか?」
その問いに、彼女はうなずき返した。
「私、産まれてから、ずっと宮殿で暮らしていました。外の世界って見たことも無かったです」
「相当、大事に扱われていたんだな」
「ええ」
その深窓の令嬢を、無理矢理に連れ出してしまったことに、彼は少しだけ罪悪感を覚えていた。
深い谷に架けられた橋を渡り、道は上り坂に差し掛かる。
「この先の峠は、ゆるやかに見えて実は険しい。気をつけろ」
馬に負担をかけないために、ソツェンは下りて、手綱を引き始める。
吹き付ける冷たい山風に、黄花はその身を震わせていた。
「寒いか?」
「少し……」
「峠を下りた先に、温泉の出る町がある、そこまで頑張ってくれ」
温泉と言われて、黄花の顔がキョトンとしていた。
「おんせん?」
「ああ、熱い水が湧いている町だ。久しぶりにさっぱり出来るぞ」
「熱い水?」
「まあ、行けば分かるさ」
澄み切った青空へと伸びる山道を、彼らは進んだ。
ここは吐蕃、天上の高みにある、地上で最も険しく、人を寄せ付けない地。
草もまばらにしか生えない、岩山が迫る、厳しき環境。
だが、そんな地にも、人々は根ざし、細々とした生活を営んでいた。
草原を歩くヤクや羊、馬に乗る遊牧民、日々修行に明け暮れる僧侶。
西域の蛮族が住むと言われるが、そこには懸命に生きる、人の姿があった。
峠を越え、少し開けた町に、彼らは着いていた。
町のそこかしこから、白い蒸気がもうもうと上がり、谷はまるで霧がかかったように白く包まれていた。
「ここが、その、温泉の町?」
馬上から町を見て、黄花は驚きを隠せなかった。
「そうだ」
手綱を引く、ソツェンの足取りは、心なしか少し浮かんでいるように見えた。
「温泉でさっぱりって、どういう事なのです?」
「まあ、見てろって」
町の外れ、湯気の立ち上る小さな池に、ソツェンは移動する。
池に手を突っ込み、うんうんとうなずくと、おもむろに立ち上がった。
「ちょうどいいな」
帽子を取り、衣服を次々と脱ぐソツェン。
あれよあれよという間に、彼は下着一丁になっていた。
「え、あ、あの、ソツェン」
慌てた黄花が、顔を袖で隠した時、彼は既に温泉に浸かっていた。
「あー、気持ちいいな」
のんびりした声で、ソツェンは顔を真っ赤にしてくつろぐ。
「お前も入れよ」
「はっ、入りません!」
満足そうに笑う彼に、背を向ける黄花。
「さっぱりするぞ、遠慮するなって」
「だっ、だって、あなた、裸じゃないですか」
顔を背ける前に、目に飛びこんだ彼の姿を思い出して、黄花はまたも恥ずかしがる。
鍛え上げられた筋肉質の身体、一切無駄のない引き締まった造形。
意識すればするほどに、顔から火が出そうなほどに、頬が熱くなった。
「温泉って、こういうものだぞ?」
「そんなの、私知りません!いやらしいっ」
「じゃあ、俺が出た後に入れ。それならいいだろう?」
ソツェンは溜息をついて、そう提案した。
「み、見ないって、約束してくれますか」
服の袖をひらひらと揺らし、黄花は必死にそれを取り付けようとする。
「ああ、約束するよ」
「じゃあ、は、入ります」
――温泉も知らない奴は、これだから。
ふう、と彼は大きく息を吐いていた。
しばらくして。
身も心も温泉にて、さっぱりしたソツェンは、通りに向けて、目を光らせていた。
「おおい、まだかあ」
少しだけ、後ろを窺おうとするも、その度にお湯が飛んでくる。
「見ないでって、言ったでしょう!」
「早くしろ、いつまで入っているつもりだ」
周囲を警戒しつつ、彼はのぼせてはいないかと心配していた。
「あんまり長いと、逆に身体に悪いぞ」
池のほとりに置かれた、黄花の服。
おそらく、その中に『星』があるのは、間違いない。
今のうちに、奪い取ってしまおうかと、彼は考えていた。
――いやいや、それはまずい、第一、ここでそんな事をしたら、一族に迷惑が。
考えを逡巡させていると、声がかかった。
「拭くものは、ありますか?」
彼は、目を逸らせたまま、手ぬぐいを黄花に差し出す。
ごそごそという音の後に、衣擦れの音。
「もう、いいですよ」
その声に、振り向くと、そこには上気した顔の黄花が立っていた。
その翌日。
町を発って、またも険しい峠道に差し掛かる。
だが、二人は昨日の温泉の効果なのか、息が上がりつつも、なんとか峠を越えていた。
下った先には、大きな湖が広がり、そのほとりを二人は馬に乗って走る。
「この先に町がある。そこまで行けば、もう少しだ」
「もう少しって、どれぐらいですか」
「残る峠は一つだけになる」
薄く草の生える大地を、青唐馬が駆け抜ける。
高地に順応した馬体は、大人二人をその背に乗せたまま、軽々と足を動かしていた。
「見えてきたぞ、町だ」
ソツェンは、黄花にも見るように、指で示してやる。
そこには、荒々しい岩肌の山と、その麓にある小さな町が見えていた。
河を渡り、岩山を間近に見上げる町。
人の数は限りなく少ないが、それでも町は宿場町としての働きを、充分に果たしていた。
ソツェンは馬を下り、今日の宿に向かおうと、町中を歩く。
と、その時。
「おーい」
遠くから、何者かの声がする。
その声の方向を、彼はふと見た。
「ソツェン、おかえりーぃ!」
馬に乗った女が、こちらへ向かって、手を振っていた。
「あっ、ティンパ!」
その姿に、ソツェンは驚いた顔をし、すぐに笑顔で手を振り返していた。
「帰りが遅いから、心配したよー」
女は馬から飛び降りると、一目散に、ソツェンの胸へと飛び込んでいた。
まるで何年も会っていなかった恋人に再会したように、満面の笑みを浮かべて。
「どうしたの、こんなに遅いなんて」
「悪い、少し手間取った」
女は、人目も憚らずに、彼の首元へ手をやって、顔をその身体へと押しつける。
ソツェンも、それがまんざらでもないようで、よしよしと、女の頭を撫でていた。
「ねえ、『星』は手に入ったの?」
「ああ、それなんだが……」
女の言葉に、彼は黄花を見やる。
「……誰ですか、その方は?」
馬上で、黄花が眉をひそめて二人を見ていた。
宿にて、三人は寝台に腰掛けていた。
とは言っても、ソツェンと女が隣同士に座り、黄花は一人、別の寝台で。
他人の目があるにも関わらず、女はベタベタとソツェンに抱きつき、頻繁に、黄花の方を睨むように見回していた。
「紹介する、こいつはティンパ・ラ。俺と同じ村の」
「許嫁です!」
ソツェンの言葉も途中に、ティンパは大声で、そう言い放つ。
彼女は、ソツェンと同じく、毛皮の帽子に毛皮の上衣、長い黒髪を三つ編みにして、くるりと首に巻き付けた、彼よりも少し幼そうに見える少女。
「ねーっ」
彼の腕をぎゅっと抱きしめ、ティンパは自信たっぷりに黄花を見下していた。
「ティンパ、誤解される言い方はやめろって」
「いいじゃない、ソツェンも結婚する約束、したでしょ」
「バカ、それ……」
言いかけて、鋭い視線が突き刺さっているのに、彼は気づいた。
向かいに座る黄花が、悲しそうな目で、ソツェンを睨み付けている。
「あ……」
その彼女の目から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていた。
彼は声をかけられず、そのまま押し黙ってしまう。
「ねえねえ、ソツェン、この人だあれ?」
「ティンパ、この人はな」
「ソツェン」
深く、暗い声で、黄花は喋った。
「気分がすぐれません、もう休んでいいですか」
「わ、分かった。ゆっくり休めよ」
彼は気を遣い、ティンパを連れて、部屋の外へと出て行った。
一人、残された黄花は、のろのろとした動きで掛布と毛皮を頭から被って横になる。
「ソツェン……」
突如訪れた、静寂と寂しさ。
締め付けるような、胸の痛みが、黄花を苦しめる。
彼女は、人知れず涙を流し、漏れる嗚咽を必死に押さえ込んでいた。