3 日月山の高山病
冷たい風が、草原を吹き抜ける。
古から、中原と吐蕃を結ぶ唯一の道を、二人は歩いていた。
「もうすぐ峠に着く。なるべく大きく、深く息をしろ」
「え、ええ」
空は、どこまでも青く、周囲には、樹木の姿は見えない。
遠くには、荒涼とした岩山に、白いものが見え、この地域に夏など訪れない様を、彼らに見せつけていた。
馬に揺られ、黄花の身体がフラフラと大きく動き出す。
高山病を発症したのか、その顔はやや青白くなっていた。
日月山。
昔々、中原に唐という国があった頃、ここで一人の女が涙を流していた。
女は、唐の文成公主。
彼女は、吐蕃と唐の間を取り持つための、外交役として、故郷の唐から吐蕃へと、降嫁の名目で、当時の吐蕃王の元へと行った。
その際に、この峠で、唐との別れを惜しんだという。
それから何十年もの月日が流れ、またもこの地で涙を流した女がいた。
女の名は金城公主。
彼女もまた故郷に別れを告げ、吐蕃王の嫁となり、唐と吐蕃の間を取り持った。
両国は、金城公主のこともあり、青海のこの地に、日月の石碑を建てて、ここを唐と吐蕃の境界とし、相争わないことを盟約した。
しかし、公主が亡くなると、途端にその盟約は反故となり、唐と吐蕃は戦争を開始した。
古い古い話である。
風に吹かれて、峠の祈祷旗が、はためいている。
それを指さして、黄花は力なく、呟いた。
「きれいね、あの旗」
「タルチョか」
擦り切れて、薄くなった旗が、パタパタと動いていた。
峠の岩に腰掛けて、黄花は大きく息を吸う。
唐と吐蕃の境の峠。空気は薄く、乾燥した風が、容赦なく水分を身体から奪っていた。
「タルチョって、なあに?」
黄花の胸が、忙しなく動く。
「祈りの旗だ。峠や家、聖なる場所には、必ずある」
「そうなの」
「仏教とも違う、古くからの名残らしい。幸運を招き、勝利をもたらすとされる」
汲んできた、水の入った革袋を黄花に渡し、ソツェンは彼女に毛皮を掛け直してやった。
「旅人は、峠のタルチョに願いを捧げる。道中の安全やら、健康祈願やらな」
「……私も、お願い事を、してみようかしら?」
くすりと、彼女は微笑んだ。
「それとも、お別れを告げるのが、いいのかしら」
その言葉に、ソツェンは鼻で笑っていた。
「はっ、西夏の女が何を言う」
はははと笑い、彼は周囲を見回した。
峠から下界を覗くと、土煙が上がっているのが見える。
彼は黄花を馬の陰に隠すと、鉄棍を手にした。
「しばらく、ここで休もう。水はたくさん飲め、眠るんじゃないぞ」
小さくうなずく彼女を残し、ソツェンは峠に立っていた。
遠くに霞む、山々の稜線。
あの遙か向こうには、西夏の、そして中原の町が広がる。
そして、ソツェンを追う、兵隊たちがやって来る道にも繋がっている。
上衣の両肩をはだけ、長い袖を腹のところで結ぶ。
少しだけ、動きやすくなった格好で、彼はそれを待っていた。
もうもうと上がる煙の元、馬に乗った者どもが、見える。
目を凝らし、その人数を確認しようとした時、何かが飛翔してくるのに、彼は気づいた。
咄嗟に、鉄棍でそれを叩き落とす。
ちりん、と軽快な音を立てて、それは、砂利だらけの道に落ちていた。
「矢……、ここまで届くというのか!」
彼我の距離は二町――約二百メートル――ほど、それだけ離れていても、余裕で届くという事に、彼は驚いていた。
その矢が、次々とソツェンを目がけて飛んでくる。
その勢いは、落ちるどころか、ますます威力を増す有様。
――装備をととのえて来たな。
鉄棍を振り回し、彼はそう思っていた。
身を翻し、鉄棍を盾代わりにして、彼は矢を落とす。
そして、いくつかのそれらを拾い上げると、力を込めて、一箭に投げ放った。
風の影響も受けず、矢は真っ直ぐに、騎手の首元へと飛んでいく。
複数のうめき声がし、騎馬の人数は心なしか減ったように感じられた。
「よし!」
ソツェンは、さらに矢を拾い、投げ放つと、鉄棍を振り回して突撃する。
「来たぞ、狙え!」
騎馬隊の弩が、一斉に彼へと向けられ、その引き金が引かれた。
風を切る音と共に、矢が鉄棍に当たる音が幾つも響く。
ソツェンはその身を小さく屈めて、馬の足を次々に叩き折る。
馬は悲痛な叫び声を上げて、道に倒れ伏していた。
「おのれぇ!」
簡素な鎧のみを着けた連中が、腰につけた長い刀をすらりと抜く。
鏡のように光るそれは、長さ三尺――約一メートル――はあろうかという、長大なものであった。
彼らは、その大振りな刀を、いとも軽々と片手で振るい、彼へと斬りかかる。
西夏の兵たちは、皆、体格が大きく、重装備した上に、その西夏の刀を、馬上で自在に操ることが出来る者ばかりであった。
しかし、ここは低地の西夏とは違う、天上高き、唐蕃の境界。
いくら簡素な鎧とはいえ、彼ら兵の息が上がるのは、とても容易であった。
「たっ、隊長、息が」
息も絶え絶えに、兵の悲痛な声が、峠に響く。
それでも、兵たちはソツェンに斬りかかる。
刀を叩き落とし、組み合うこと、数度。
バシバシと手がぶつかり合い、兵の腕が肉ごと弾け飛んでいた。
「はっ、軟弱だな!」
彼の鉄棍が、まだ元気な兵の脇腹にめり込む。
泡を吹きながら、追っ手はみるみる内に倒されていた。
「くっ、賊如きがあっ!」
隊長格らしき者の一刀を躱し、ソツェンはひらりとその身を峠に立たせた。
「おっと、よく見ろ」
鉄棍にて、峠にある日月の碑を、彼は指し示した。
「あ……」
「ここは、唐蕃の境だ。お前らはここを越えられない」
そのまま、鉄棍が、兵たちに向けられる。
「分かったら、引き返せ」
猛禽類の如く、鋭い眼光が、彼らを睨み付けていた。
「引け、引けーっ!」
追っ手の兵たちは、まだ息のある負傷者を抱えて、峠を引き返す。
重要な足である、馬を無くした彼らは、のろのろと撤退せざるを得なかった。
馬が無ければ、峠を越すどころか、この道を進むことすら難しくなる。
実質、追っ手はもうやって来ない、とソツェンは思っていた。
「さて、と」
汗を拭い、彼は物陰の黄花を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か」
だが、彼女の返事がない。
水の入った革袋を握りしめたまま、その身は動いてはいなかった。
「お前、しっかりしろ!」
思わず、身体を揺する。
青白い顔に、涙が流れた跡があり、意識は全くないようであった。
淡雪の如く、白い首に手を当て、脈を測る。
「弱っている……」
黄花に毛皮を幾重にも被せ、ソツェンは彼女を抱きかかえて馬に飛び乗った。
「すぐに、次の町へ着くからな」
俊足の青唐馬で、一気に峠を下り、彼らは町へとひた走った。
冷たい、突き刺すような風の寒さが、ソツェンの顔を打ち付ける。
だが、彼はそれに厭わず、ただひたすらに馬を駆り続けた。
腕の中、小さく息をする、彼女のために。
広大な、草原地帯。
その窪んだような地形の底、大地の裂け目に、町はあった。
町の中心部には、礫の目立つ川が流れており、その川を中心として、両側に商店や市場が建ち並ぶ。
古来より、唐と吐蕃を結ぶ交易路にあったこの町は、行き交う人々で、賑わいを見せていた。
そんな町の宿、その一室で、ソツェンは黄花の容態を、心配そうに見つめていた。
「おい、起きろ」
だが、彼女は目覚めない。
弱々しく、息はしているのだが、空気が薄く、目覚めるだけの活力を取り戻せないようだった。
かくなる上は、己の内力を、彼女の体内に流し込むしか、方法はない。
しかし、内力を注ぎ込むには、直に肌と肌とを触れ合わせる必要がある。
そして、最も効率よくそれをするには、身体の中心部に近く、丹田に近いほどいい。
丹田は、へその下に位置する。
身内でもない男が、年頃の女にそんな事をして、いいものだろうかと、彼は悩んでいた。
――どうする、どうする、俺、このままだと死ぬぞ。
眉間にしわを寄せ、ソツェンは部屋をぐるぐる歩き巡る。
だが、考えているこの間にも、彼女は衰弱していく一方。
――いや、逆に彼女を死なせて、『星』を奪えば、この件は片が付く……。
ふと、よぎった考えを打ち消すように、彼は頭を振った。
――だめだ、それは絶対にだめだ、死なせてはいけない。
覚悟を決めた目で、彼は黄花を見た。
弱り切った彼女の寝姿。だが、それはとても美しく、儚きものとして、彼の目に映った。
――俺は、青唐の男だ、彼女はなんとしても助けてみせる。
黄花が横たわる寝台に、彼は近づき、おもむろに自らの上着を脱ぎ去る。
筋肉質の上半身が、ひやりと冷たい外気に晒されて、微かに湯気を立てていた。
「……許せ」
そう、呟くと、ソツェンは黄花の服を脱がし始めた。
薄絹の着物を、一枚、二枚と剥ぎ、最後の一枚まで来た時、彼の手は止まった。
震える手。
はっきりと見える、黄花の身体の線が、彼の心を捕らえて離さない。
心臓が鼓動を早め、背中に汗が流れていた。
「お、落ち着け、これは、治療のためだ」
柔らかな、女の身体の感触に、彼の心が、千々に乱れる。
着物の合わせ目を解き、手をその隙間に差し込もうとするが。
「う……、やっぱり、だめだ!」
彼女の身体を起こし、ソツェンは後ろから黄花を抱き留めた。
「見なければ、いい。見なければ……」
荒い息の女の身体は、とても柔らかく、強く抱いたら溶けてしまうような脆さをも有していた。
――女とは、こんなにも繊細なものなのか。
薄絹一枚隔てて、彼女の体温が、己に伝わる。
喘ぐような息づかい、苦しくも艶めかしい声が、耳に届き精神をかき乱す。
――落ち着け、落ち着くんだ、俺。
震えつつも静かに、ソツェンの手が、彼女の肌に触れる。
その刺激に、黄花の肩が、ビクリと反応していた。
「すぐ、終わるからな」
彼の手が、熱くなり、じんわりと体温を上げていく。
耳元で、黄花の息が徐々に激しくなっていった。
ソツェンの内力が、黄花の体内を巡りだし、白い肌に汗が噴き出し始める。
彼の肌にも、玉のような汗が、光り始めていた。
ふわりと柔らかい身体、きめ細かい吸い付くような肌、そして大きく息をする唇。
黄花を抱き、ソツェンは顔を耳まで真っ赤に染め上げていた。
――彼女は、西夏の女であるが、その前に、か弱き女でもあるんだな。
内力を注ぎ続ける彼は、ふとそんな事を思っていた。
そうして、長い時が経ち、二人の全身が汗まみれになった頃、突如、黄花が咳き込んだ。
「げ、げほっ、げほ」
激しく咽せる彼女の背中を、ソツェンは優しくさすってやる。
「はあ、はあ……」
「大丈夫か?」
紅い顔で彼女は振り返り、うつろな目のまま、じっと彼を見つめる。
「おい、どうした」
心配そうに、声をかけたソツェンに、黄花は思わず抱きついていた。
「こ、こら、やめ……」
「ソツェン」
彼の耳元で、声がした。
「ありがとう」
その言葉に、ソツェンは安心したのか、軽く息を吐くと、その身体に優しく触れていた。
「終わったか?」
ソツェンが、敷布で目隠しをした向こうに、呼びかける。
彼は、そそくさと汗を拭き着替えると、黄花にも汗を拭くように、言いつけていた。
「今夜は冷えるからな、汗を拭かないと、また具合が悪くなるぞ」
「ええ」
目隠しの向こうで、衣擦れの音がした。
その音に、ソツェンは先ほどの光景を思い出す。
長い黒髪、流れるような身体の線、白く輝く玉のような肌に美しき唇。
そして、耳元で聞いた、彼女の荒い息。
思わず紅くなる顔に、彼は頭を大きく振った。
――落ち着け、さっきのはやむを得ずだ、仕方が無かったんだ。
短い髪をわしわしと掻き、激しくなる動悸をなんとか静めようとする。
だが脳裏には、彼女の姿がしっかりと焼き付き、消そうにも、それは消えそうになかった。
――何か、違う事を考えよう。
おもむろに、懐をまさぐった。
指に当たる、固い感触がある。彼はそれを引きずり出した。
「あ……」
その手に握られた、紐で一繋ぎになった銅銭。
しかし、その数はかなり少ないものになっていた。
「しまった、路銀が……」
本来ならば、故郷から西夏まで、往復の分は足りるはずであった。
それが、予想外の同行者と、その出費に、充分にあった路銀は、帰路半ばで尽きることとなっていた。
「くそ、これでは村までもたないか……」
頭を抱え、唸るソツェン。
そんな彼の様子を、黄花は敷布の隙間から、そっと窺っていた。
――俺一人なら、野宿でもいいんだがなあ。
悩む彼の背中を、何かが叩いた。
「ソツェン」
振り向くと、着替えを済ませた彼女が立っていた。
「これを売って、路銀の足しにしてください」
そう言って、彼女は耳飾りとかんざしを外し、ソツェンに差し出した。
黄金色に輝くそれは、細かな彫刻と細工が施され、西域でしかお目にかかれないような宝石が、豪勢にちりばめられた、とてもあでやかな品であった。
そんな装飾品を前に、ソツェンは差し出された彼女の手を押し戻す。
「だめだ、これはお前のものだろう」
心配は無用とばかりに、彼は微笑んだ。
「いいえ、私のせいで、あなたに迷惑をかけているのです。少しは役に立ててください」
ソツェンの手を取り、彼女はかんざしを、その手に押しつけた。
「宮殿に戻れば、かんざしなど、いくらでもありますから」
その言葉に、ソツェンの胸が少しだけ痛みを覚える。
――そうだ、彼女は西夏の女なのだ。
忘れていた事を、引きずり出された感じがして、再び心が乱された。
黄花から、かんざしを受け取り、ソツェンは仕方が無いという顔をしていた。
「じゃあ、これは預かっておくが、本当に必要になったら売るからな」
「はい、あなたに任せます」
金の装飾品を手に、ソツェンは微笑む彼女を見やる。
飾り気の無くなった髪、それでも、その姿は充分に美しいままであった。