表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

3 日月山の高山病

 冷たい風が、草原を吹き抜ける。

古から、中原と吐蕃を結ぶ唯一の道を、二人は歩いていた。

「もうすぐ峠に着く。なるべく大きく、深く息をしろ」

「え、ええ」

 空は、どこまでも青く、周囲には、樹木の姿は見えない。

遠くには、荒涼とした岩山に、白いものが見え、この地域に夏など訪れない様を、彼らに見せつけていた。

 馬に揺られ、黄花の身体がフラフラと大きく動き出す。

高山病を発症したのか、その顔はやや青白くなっていた。


 日月山。

昔々、中原に唐という国があった頃、ここで一人の女が涙を流していた。

 女は、唐の文成公主。

 彼女は、吐蕃と唐の間を取り持つための、外交役として、故郷の唐から吐蕃へと、降嫁の名目で、当時の吐蕃王の元へと行った。

 その際に、この峠で、唐との別れを惜しんだという。

 それから何十年もの月日が流れ、またもこの地で涙を流した女がいた。

 女の名は金城公主。

彼女もまた故郷に別れを告げ、吐蕃王の嫁となり、唐と吐蕃の間を取り持った。

 両国は、金城公主のこともあり、青海のこの地に、日月の石碑を建てて、ここを唐と吐蕃の境界とし、相争わないことを盟約した。

 しかし、公主が亡くなると、途端にその盟約は反故となり、唐と吐蕃は戦争を開始した。

 古い古い話である。


 風に吹かれて、峠の祈祷旗タルチョが、はためいている。

それを指さして、黄花は力なく、呟いた。

「きれいね、あの旗」

「タルチョか」

 擦り切れて、薄くなった旗が、パタパタと動いていた。

 峠の岩に腰掛けて、黄花は大きく息を吸う。

唐と吐蕃の境の峠。空気は薄く、乾燥した風が、容赦なく水分を身体から奪っていた。

「タルチョって、なあに?」

 黄花の胸が、忙しなく動く。

「祈りの旗だ。峠や家、聖なる場所には、必ずある」

「そうなの」

「仏教とも違う、古くからの名残らしい。幸運を招き、勝利をもたらすとされる」

 汲んできた、水の入った革袋を黄花に渡し、ソツェンは彼女に毛皮を掛け直してやった。

「旅人は、峠のタルチョに願いを捧げる。道中の安全やら、健康祈願やらな」

「……私も、お願い事を、してみようかしら?」

 くすりと、彼女は微笑んだ。

「それとも、お別れを告げるのが、いいのかしら」

 その言葉に、ソツェンは鼻で笑っていた。

「はっ、西夏の女が何を言う」

 はははと笑い、彼は周囲を見回した。

峠から下界を覗くと、土煙が上がっているのが見える。

 彼は黄花を馬の陰に隠すと、鉄棍を手にした。

「しばらく、ここで休もう。水はたくさん飲め、眠るんじゃないぞ」

 小さくうなずく彼女を残し、ソツェンは峠に立っていた。


 遠くに霞む、山々の稜線。

あの遙か向こうには、西夏の、そして中原の町が広がる。

 そして、ソツェンを追う、兵隊たちがやって来る道にも繋がっている。

上衣の両肩をはだけ、長い袖を腹のところで結ぶ。

 少しだけ、動きやすくなった格好で、彼はそれを待っていた。

 もうもうと上がる煙の元、馬に乗った者どもが、見える。

目を凝らし、その人数を確認しようとした時、何かが飛翔してくるのに、彼は気づいた。

 咄嗟に、鉄棍でそれを叩き落とす。

ちりん、と軽快な音を立てて、それは、砂利だらけの道に落ちていた。

「矢……、ここまで届くというのか!」

 彼我の距離は二町――約二百メートル――ほど、それだけ離れていても、余裕で届くという事に、彼は驚いていた。

 その矢が、次々とソツェンを目がけて飛んでくる。

その勢いは、落ちるどころか、ますます威力を増す有様。

――装備をととのえて来たな。

 鉄棍を振り回し、彼はそう思っていた。

 身を翻し、鉄棍を盾代わりにして、彼は矢を落とす。

そして、いくつかのそれらを拾い上げると、力を込めて、一箭に投げ放った。

 風の影響も受けず、矢は真っ直ぐに、騎手の首元へと飛んでいく。

複数のうめき声がし、騎馬の人数は心なしか減ったように感じられた。

「よし!」

 ソツェンは、さらに矢を拾い、投げ放つと、鉄棍を振り回して突撃する。

「来たぞ、狙え!」

 騎馬隊の弩が、一斉に彼へと向けられ、その引き金が引かれた。

風を切る音と共に、矢が鉄棍に当たる音が幾つも響く。

 ソツェンはその身を小さく屈めて、馬の足を次々に叩き折る。

馬は悲痛な叫び声を上げて、道に倒れ伏していた。

「おのれぇ!」

 簡素な鎧のみを着けた連中が、腰につけた長い刀をすらりと抜く。

鏡のように光るそれは、長さ三尺――約一メートル――はあろうかという、長大なものであった。

 彼らは、その大振りな刀を、いとも軽々と片手で振るい、彼へと斬りかかる。

 西夏の兵たちは、皆、体格が大きく、重装備した上に、その西夏の刀を、馬上で自在に操ることが出来る者ばかりであった。

 しかし、ここは低地の西夏とは違う、天上高き、唐蕃の境界。

いくら簡素な鎧とはいえ、彼ら兵の息が上がるのは、とても容易であった。

「たっ、隊長、息が」

 息も絶え絶えに、兵の悲痛な声が、峠に響く。

 それでも、兵たちはソツェンに斬りかかる。

刀を叩き落とし、組み合うこと、数度。

 バシバシと手がぶつかり合い、兵の腕が肉ごと弾け飛んでいた。

「はっ、軟弱だな!」

 彼の鉄棍が、まだ元気な兵の脇腹にめり込む。

泡を吹きながら、追っ手はみるみる内に倒されていた。

「くっ、賊如きがあっ!」

 隊長格らしき者の一刀を躱し、ソツェンはひらりとその身を峠に立たせた。

「おっと、よく見ろ」

 鉄棍にて、峠にある日月の碑を、彼は指し示した。

「あ……」

「ここは、唐蕃の境だ。お前らはここを越えられない」

 そのまま、鉄棍が、兵たちに向けられる。

「分かったら、引き返せ」

 猛禽類の如く、鋭い眼光が、彼らを睨み付けていた。

「引け、引けーっ!」

 追っ手の兵たちは、まだ息のある負傷者を抱えて、峠を引き返す。

重要な足である、馬を無くした彼らは、のろのろと撤退せざるを得なかった。

 馬が無ければ、峠を越すどころか、この道を進むことすら難しくなる。

実質、追っ手はもうやって来ない、とソツェンは思っていた。

「さて、と」

 汗を拭い、彼は物陰の黄花を覗き込んだ。

「おい、大丈夫か」

 だが、彼女の返事がない。

水の入った革袋を握りしめたまま、その身は動いてはいなかった。

「お前、しっかりしろ!」

 思わず、身体を揺する。

青白い顔に、涙が流れた跡があり、意識は全くないようであった。

 淡雪の如く、白い首に手を当て、脈を測る。

「弱っている……」

 黄花に毛皮を幾重にも被せ、ソツェンは彼女を抱きかかえて馬に飛び乗った。

「すぐに、次の町へ着くからな」

 俊足の青唐馬で、一気に峠を下り、彼らは町へとひた走った。

冷たい、突き刺すような風の寒さが、ソツェンの顔を打ち付ける。

 だが、彼はそれに厭わず、ただひたすらに馬を駆り続けた。

 腕の中、小さく息をする、彼女のために。


 広大な、草原地帯。

その窪んだような地形の底、大地の裂け目に、町はあった。

 町の中心部には、礫の目立つ川が流れており、その川を中心として、両側に商店や市場が建ち並ぶ。

 古来より、唐と吐蕃を結ぶ交易路にあったこの町は、行き交う人々で、賑わいを見せていた。

 そんな町の宿、その一室で、ソツェンは黄花の容態を、心配そうに見つめていた。

「おい、起きろ」

 だが、彼女は目覚めない。

弱々しく、息はしているのだが、空気が薄く、目覚めるだけの活力を取り戻せないようだった。

 かくなる上は、己の内力を、彼女の体内に流し込むしか、方法はない。

しかし、内力を注ぎ込むには、直に肌と肌とを触れ合わせる必要がある。

そして、最も効率よくそれをするには、身体の中心部に近く、丹田に近いほどいい。

 丹田は、へその下に位置する。

身内でもない男が、年頃の女にそんな事をして、いいものだろうかと、彼は悩んでいた。

――どうする、どうする、俺、このままだと死ぬぞ。

 眉間にしわを寄せ、ソツェンは部屋をぐるぐる歩き巡る。

だが、考えているこの間にも、彼女は衰弱していく一方。

――いや、逆に彼女を死なせて、『星』を奪えば、この件は片が付く……。

 ふと、よぎった考えを打ち消すように、彼は頭を振った。

――だめだ、それは絶対にだめだ、死なせてはいけない。

 覚悟を決めた目で、彼は黄花を見た。

弱り切った彼女の寝姿。だが、それはとても美しく、儚きものとして、彼の目に映った。

――俺は、青唐の男だ、彼女はなんとしても助けてみせる。

 黄花が横たわる寝台に、彼は近づき、おもむろに自らの上着を脱ぎ去る。

筋肉質の上半身が、ひやりと冷たい外気に晒されて、微かに湯気を立てていた。

「……許せ」

 そう、呟くと、ソツェンは黄花の服を脱がし始めた。

薄絹の着物を、一枚、二枚と剥ぎ、最後の一枚まで来た時、彼の手は止まった。

 震える手。

はっきりと見える、黄花の身体の線が、彼の心を捕らえて離さない。

 心臓が鼓動を早め、背中に汗が流れていた。

「お、落ち着け、これは、治療のためだ」

 柔らかな、女の身体の感触に、彼の心が、千々に乱れる。

着物の合わせ目を解き、手をその隙間に差し込もうとするが。

「う……、やっぱり、だめだ!」

 彼女の身体を起こし、ソツェンは後ろから黄花を抱き留めた。

「見なければ、いい。見なければ……」

 荒い息の女の身体は、とても柔らかく、強く抱いたら溶けてしまうような脆さをも有していた。

――女とは、こんなにも繊細なものなのか。

 薄絹一枚隔てて、彼女の体温が、己に伝わる。

喘ぐような息づかい、苦しくも艶めかしい声が、耳に届き精神をかき乱す。

――落ち着け、落ち着くんだ、俺。

 震えつつも静かに、ソツェンの手が、彼女の肌に触れる。

その刺激に、黄花の肩が、ビクリと反応していた。

「すぐ、終わるからな」

 彼の手が、熱くなり、じんわりと体温を上げていく。

耳元で、黄花の息が徐々に激しくなっていった。

 ソツェンの内力が、黄花の体内を巡りだし、白い肌に汗が噴き出し始める。

彼の肌にも、玉のような汗が、光り始めていた。

 ふわりと柔らかい身体、きめ細かい吸い付くような肌、そして大きく息をする唇。

黄花を抱き、ソツェンは顔を耳まで真っ赤に染め上げていた。

――彼女は、西夏の女であるが、その前に、か弱き女でもあるんだな。

 内力を注ぎ続ける彼は、ふとそんな事を思っていた。

 そうして、長い時が経ち、二人の全身が汗まみれになった頃、突如、黄花が咳き込んだ。

「げ、げほっ、げほ」

 激しく咽せる彼女の背中を、ソツェンは優しくさすってやる。

「はあ、はあ……」

「大丈夫か?」

 紅い顔で彼女は振り返り、うつろな目のまま、じっと彼を見つめる。

「おい、どうした」

 心配そうに、声をかけたソツェンに、黄花は思わず抱きついていた。

「こ、こら、やめ……」

「ソツェン」

 彼の耳元で、声がした。

「ありがとう」

 その言葉に、ソツェンは安心したのか、軽く息を吐くと、その身体に優しく触れていた。


「終わったか?」

 ソツェンが、敷布で目隠しをした向こうに、呼びかける。

彼は、そそくさと汗を拭き着替えると、黄花にも汗を拭くように、言いつけていた。

「今夜は冷えるからな、汗を拭かないと、また具合が悪くなるぞ」

「ええ」

 目隠しの向こうで、衣擦れの音がした。

その音に、ソツェンは先ほどの光景を思い出す。

 長い黒髪、流れるような身体の線、白く輝く玉のような肌に美しき唇。

そして、耳元で聞いた、彼女の荒い息。

 思わず紅くなる顔に、彼は頭を大きく振った。

――落ち着け、さっきのはやむを得ずだ、仕方が無かったんだ。

 短い髪をわしわしと掻き、激しくなる動悸をなんとか静めようとする。

だが脳裏には、彼女の姿がしっかりと焼き付き、消そうにも、それは消えそうになかった。

――何か、違う事を考えよう。

 おもむろに、懐をまさぐった。

指に当たる、固い感触がある。彼はそれを引きずり出した。

「あ……」

 その手に握られた、紐で一繋ぎになった銅銭。

しかし、その数はかなり少ないものになっていた。

「しまった、路銀が……」

 本来ならば、故郷から西夏まで、往復の分は足りるはずであった。

それが、予想外の同行者と、その出費に、充分にあった路銀は、帰路半ばで尽きることとなっていた。

「くそ、これでは村までもたないか……」

 頭を抱え、唸るソツェン。

そんな彼の様子を、黄花は敷布の隙間から、そっと窺っていた。

――俺一人なら、野宿でもいいんだがなあ。

 悩む彼の背中を、何かが叩いた。

「ソツェン」

 振り向くと、着替えを済ませた彼女が立っていた。

「これを売って、路銀の足しにしてください」

 そう言って、彼女は耳飾りとかんざしを外し、ソツェンに差し出した。

黄金色に輝くそれは、細かな彫刻と細工が施され、西域でしかお目にかかれないような宝石が、豪勢にちりばめられた、とてもあでやかな品であった。

 そんな装飾品を前に、ソツェンは差し出された彼女の手を押し戻す。

「だめだ、これはお前のものだろう」

 心配は無用とばかりに、彼は微笑んだ。

「いいえ、私のせいで、あなたに迷惑をかけているのです。少しは役に立ててください」

 ソツェンの手を取り、彼女はかんざしを、その手に押しつけた。

「宮殿に戻れば、かんざしなど、いくらでもありますから」

 その言葉に、ソツェンの胸が少しだけ痛みを覚える。

――そうだ、彼女は西夏の女なのだ。

 忘れていた事を、引きずり出された感じがして、再び心が乱された。

黄花から、かんざしを受け取り、ソツェンは仕方が無いという顔をしていた。

「じゃあ、これは預かっておくが、本当に必要になったら売るからな」

「はい、あなたに任せます」

 金の装飾品を手に、ソツェンは微笑む彼女を見やる。

飾り気の無くなった髪、それでも、その姿は充分に美しいままであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ