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2 青き交易の道

 青唐王国。

それは、十一世紀前半に、吐蕃――今のチベット、青海アムド地方に興りし国であった。

 青海湖の南東に位置する、西寧ツォンカの町は、この国の首都として、また西域との交易の中継地の町として、栄華を誇っていた。

 町には、寺がいくつも建てられ、その煌びやかな彩色が、往事の吐蕃中央を思わせるような、絢爛豪華なものとなっていた。

 初代王のティデは、菩薩ギェルセーの名を持ち、当時の西夏王と戦うも、これを撃退し、両国は小競り合いを繰り返しながら、発展を続けた。

 だが、その勢いも、長くは持たない。

青唐は、百年と持たずに、隣国西夏によって、滅亡してしまうのだった。

 西域との交易路である、河西回廊と、青海路の掌握という野心に飲み込まれて。

 そんな青唐に、かつて二つの宝があった。

 一つは、御仏の慈悲。

 もう一つは、海に落ちた星。

 御仏の慈悲は、人々の心にあったために、奪われずに済んだのだが、海に落ちた星は、西夏に奪われてしまったという。


 翌日。

ソツェンは、黄花を馬に乗せて、街道をひたすら西に向けて歩いていた。

 天候は快晴、雲一つない青空が、彼らの頭上に広がる。

道の両脇には、どこまでも青い草原が続き、果てしない緑が大地を覆っていた。

――なんとしても、『星』を取り戻さないと。

 暢気に周囲を見回す黄花を見やり、彼は数日前のことを思い返していた。


 数日前の深夜。

西夏の首都、興慶に、ソツェンの姿があった。

 偉大なるラマに、武芸の教えを乞うこと十数年。

二十歳となった彼は、今日こそ『星』を奪い返さんと、その宮殿に忍び込もうとしていた。

 旅立つ前、師に言われた不思議な詩を、彼は思い出す。

――李下の家、熟れるスモモと共にある。

 これが、『星』の手がかりだと、師はそう言い、彼を送り出していた。

 李下とは、西夏の皇族、李氏一族の事、家は宮殿。

そう確信した彼は、都の中心部へと、足を速めていた。

 幸いにも、警備の手は薄く、彼は難なく宮殿内への潜入に成功する。

 建物の造りは、漢文化に毒された西夏人好みのものになっており、かつての遊牧文化とは、大きくかけ離れた、巨大な木造の宮殿であった。

 皆が寝静まった時刻、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、宝物庫や、それらしき部屋を調べていく。

 しかし、『星』はどこにも見当たらなかった。

 諦めかけたその時、ソツェンは、ある部屋から灯りが漏れているのに、気がついた。

静かに部屋に近づき、そっと中を窺うと、そこは玉座の間。

 皇帝の座るその前で、二人の男女が、何やら天井を見上げて、話していた。

耳をそばだてていると、『星』と『青唐』という単語が聞き取れる。

 どうやら、この玉座の間に、件のものがあるようだった。

しばらく二人は会話を続け、男が女に、もう眠るように促し、二人はその場を後にしていた。

 人気のなくなったその部屋に、ソツェンは侵入する。

玉座、部屋の調度品、装飾、それらに目を向けるも、目当ての『星』は見当たらない。

 ため息をつき、顔を上へと向ける。

天井には、龍の文様の装飾があった。

 腹いせに、この文様を破壊しようかと、睨み付けた、その時。

龍の持つ宝珠の形に、彼は気づいた。

 『星』が埋め込まれている、と。

 だが、天井の高い所にある『星』は、一筋縄では取れなかった。

柱に登り、しがみつき、鉄棍で突くこと十数回。

 やっとのことで、彼は『星』を外すことに成功した。

龍の手を離れ、『星』は地上へと落下する。

 『星』が、甲高い音を立てて、床に落ちた。

コロコロと『星』は転がり、なにか柔らかいものにぶつかって、その動きを止める。

 『星』のある先、そこに女がいるのに、ソツェンは驚いていた。

 その女は、『星』を拾い上げ、まじまじとそれを見つめる。

ソツェンは、柱を降り、女から『星』を奪おうと近づいた。

 その時、複数の人物がやって来る気配を、彼は察知し、物陰に身を隠す。

部屋の扉を開け、現われた兵隊と、女は何か会話をする。

 二言、三言、短い言葉を交わし、兵隊は部屋を出て行った。

ほっと一安心し、佇む女に再び近づくソツェン。

 しかし、女の手に、『星』はなかった。

思わず、彼女の両肩を掴み、彼は『星』を出せと凄む。

 ところが、見知らぬ男に捕らえられた女は、怯えて何も話さない。

やむを得ず彼は女に点穴をし、身動きが取れない状態にさせ、その服を剥ぎ取ろうと

着物に手をかけた。

 そこへ、またも廊下を兵隊の歩く音がする。

 このままここに留まることは、危険と判断し、彼は女を抱いて屋外へと移動した。

 明るい月の光差す庭を、二人の影が走り抜ける。

その背後を、兵隊たちがつけ回す。

 二人は、いつの間にか追われる身になっていた。

宮殿の壁を駆け上がり、ソツェンは屋根から、外へと飛び移る。

 事を大きくしたくない兵隊たちは、二人を極秘裏に追いかけ、ソツェンはそれから

逃げまわるはめになった。

 『星』を手に入れるはずが、西夏の女を共に連れて。


「はぁ」

 緩やかな山道に、ソツェンのため息が、ぽつりと吐かれた。

「あら、どうしたのです?」

 脳天気な黄花の声に、彼はますます不愉快になる。

「うるさい、黙れ」

「聞いただけではないですか」

 薄絹の衣服の袖をひらひらとさせ、彼女は少し、むくれた顔をした。

「大体、お前は何者なんだ。あの時刻に宮殿にいるなど……」

「当ててみてください、ソツェン」

 馬の背中で、黄花が笑った。

「私が何者か、見事当てたら、『星』を返してさしあげます」

 風になびく、美しく長い黒髪を、彼女は掻き上げる。

艶めいたその仕草は、まるで天女のように、ソツェンの目には映っていた。

「それとも、今、私を裸にしてみますか?」

「バカを言うな」

 くすくすと笑う黄花。

その耳飾りが、黄金色に輝いていた。

――こいつは、侍女という身なりではない、もっと上の役人の娘か、それとも……。

「ソツェン」

 考えながら歩いていると、不意に黄花が彼を呼ぶ。

「どうした」

「前に……」

 彼女の指さす先、複数の男どもが、道を塞いでいた。


 みすぼらしいなりの、複数の男。

その手には、山刀と、荒縄に、石を持ち、毛皮の衣服を片袖はだけ、ニヤニヤと彼らを見つめている。

 追っ手ではない、とソツェンは直感していた。

「兄ちゃんよう、いい女連れているじゃねえかあ」

 下卑た声で、奴らは黄花を舐めるように見た。

その獲物を狙うような目つきに、黄花の身が震える。

「それに、その馬、青唐の馬だなあ」

 彼の引く馬にも、男どもは目ざとく興味を示す。

ソツェンの馬は、青唐の特産である優秀なもので、中原でも名高い馬として、珍重されていた。

「その女と、馬、俺たちに寄越せよ」

 げひゃひゃ、と奴らは笑った。

「ソツェン、何なのですか、彼ら」

 袖で顔を覆い、黄花は眉間にしわを寄せた。

「山賊だ」

 手綱を握り、ソツェンは彼女をちらりと見やる。

そして息を大きく吸い、彼は大声で堂々と、男どもに言い放った。

「馬はやれないが、女はくれてやってもいいぞ!」

 ソツェンの言葉に、黄花は仰天する。

「え、あの、ちょっと」

 だが、彼はそれに答えない。

「ねえ、嘘と言ってください。ソツェン!」

 彼が、にやりと、笑った。

「やだ、嫌です。ソツェンってば!」

 黄花は首をぶんぶんと振り、彼に助けを求める。

「話が分かるじゃねえか、兄ちゃんよう」

 垢にまみれた薄汚い男どもが、こちらに近寄り、彼女に手を伸ばした、その時。

「ただし」

「ああん?」

「俺を倒せたらな!」

 ソツェンの言葉と同時に、鉄棍が男の手を打ち砕いた。

「おい、きたねえぞ!」

「うるさい、青唐の面汚しめ!」

 そう叫び、彼は男どもに襲いかかった。

 山刀の太刀筋を見切り、飛んでくる石礫を鉄棍で受け止める。

まるで、流れる水の如く、彼は身体を動かし、一人、また一人と男どもを倒していく。

 瞬く間に、道には男どもの身体が、転がる状態となっていた。

「国を失えば、即こうなるか。嘆かわしい」

 うめき声を上げ横たわる者どもに侮蔑の目を向け、彼は黄花の元へと引き返す。

 山賊どもは、青唐の民であった者たちだった。

衣服の片袖をはだけるのは、青海アムドの者特有の着こなし方。

 ソツェンが、追っ手ではないと判断したのは、これのためであった。

「さあ、先を急ぐぞ」

 馬上で震える黄花には、目もくれず、彼は手綱を持ち、歩き出した。

砂埃の舞い上がる道を、馬の足音が、軽快に鳴り響く。

「……酷い人」

 足音に混じって、黄花の、小さな声がした。

すすり泣きの合間に聞こえた、その声に、彼が振り向く事は無い。

 風に吹かれて、黄花の髪飾りが、シャラシャラと音を立てていた。


 西寧ツォンカの町。

西夏によって、破壊の限りを尽くされたこの町は、今や、いくつかの寺と、最低限の町の機能を残すのみとなっていた。

 それでも、往事の賑わいを取り戻すかのように、通りのそこかしこで、人々が、小さな市を開いていた。

「ずいぶんと、殺風景ですね……」

 町を見回し、黄花は思った事を軽く口にしていた。

「お前ら西夏のおかげで、こうなったんだ」

 少しだけ、怒気を孕んだソツェンの言葉に、彼女は口を押さえる。

「ここはまだ、西夏の影響がある。ゆっくりはしていられないぞ」

 交易の隊商が行き交う中、二人は酒場へ向けて、歩いていた。


 酒場にて。

「私、五目そばでいいです」

 卓に着くなり、黄花は嬉しそうに、そう言っていた。

「またそれか、他にもおいしいものはあるぞ」

 壁の品書きを指さし、ソツェンは他のものを勧めようとする。

「嫌です、温かいものが食べたいのです」

 桃色の頬を膨らませて、彼女はしきりに、そう主張した。

「仕方が無いな、俺も同じ五目そばにするか」

「ふふ、ありがとう」

 満面の笑みで、黄花は感謝の言葉を述べる。

そのあどけない仕草に、彼は思わず目を逸らしていた。


 宿屋の二階。

食事を済ませた黄花は、部屋に一人取り残されていた。

「んもう、ソツェンってば」

 宿に着くなり、彼は黄花を置いて、どこかへと行ってしまっていた。

『部屋から出るな』

 と、言い残して。

 日の沈むのが早くなった、この季節。

西寧ツォンカの町は、赤い夕陽に照らされて燃えるような色に、染まっていた。

「この町、大夏と宋によって、攻め落とされたのですね」

 それは、彼らが産まれる前に起きた、光景。

町は赤々と燃え、人々は逃げ惑い、青唐という国は、滅亡した。

「彼は、青唐の人。そして、私の国を憎んでいる」

 黄花の言う大夏とは、西夏のことである。

西夏人は、自らを名乗る時、大夏だと言って憚らなかった。

 彼らの故地は、吐蕃北東部の青海アムド地方。

かつては、党項タングート羌と呼ばれる者たちであった。

 そして、ソツェンら青唐人も、かつては青唐羌と呼ばれた者たちの子孫でもあった。

 だが、彼ら二人は、そんなことなど知る由も無い。

仏を信仰し、古きは羌と呼ばれ、西域との交易で成り立つ、戦乱時代の国同士。

 同じ根の子孫は、お互いに争い合い、片方の子孫を飲み込んだ。

時代がそうさせた、悲しき末路であった。

「これから、どうなるのかしら。宮殿を出て、ずっと西へ移動しているけれど……」

 西夏の都、興慶より、黄河を遡ること幾日。

緑の木々が繁る都を離れ、景色は山がちになり、生える木も次第に少なくなる。

 大地には、緑の草原が広がり、険しき岩山が遠くに見えだす。

標高も高く、薄まる空気に、黄花は幾度も息を荒らげた。

 だが、ソツェンは、そんな彼女を見ながらも、その手を差し伸べはしなかった。

この女は、敵国の者だからと、冷たい態度を取り続けるのみ。

「素直に、『星』を渡して、解放してもらおうかしら」

 ふと、そんな思いが頭をよぎる。

「ううん、ここまで来たら……」

 胸に手を当て、黄花は頭を振った。


 日が暮れてから、ソツェンは宿に戻って来ていた。

「もう、遅いじゃないですか」

 部屋に入るなり、出迎えた黄花を、彼は一瞥して通り過ぎる。

「ソツェン、何か言うことが、あるのではないですか?」

 彼女の言葉に、顔をしかめつつ、彼の手にある荷物は寝台に広げられていた。

「あの……」

 問い詰めようと、ソツェンに近づく彼女を遮るように、彼はその目の前に立ちはだかった。

「な、なんです?」

 黄花よりも、少し背の高いソツェン。

透き通るような、その瞳で見つめられて、彼女の心臓が鼓動を早める。

 視界の片隅で、彼の腕が動くのと同時に、黄花の肩に温かなものが覆い被さっていた。

「……ソツェン?」

「寒いんだろう?無理はするな」

 それは、ふわふわの毛皮。

肌に当たっても、痛くない、柔らかく上質なものであった。

「これを、買いに行っていたの?」

 だが、その問いに、彼は答えなかった。

顔を横に逸らしたまま、目はどこか遠くを見つめたきり。

 だが、その頬が、少しだけ紅くなっているのに、彼女は気づいていた。

「ありがとう、ソツェン」

 黄花は毛皮を握りしめ、満面の笑顔で、彼にそう言った。

「これから、峠を越える。夏でも雪のある地域だ、体調管理はしっかりしろよ」

「ええ」

「それと、追っ手の気配がまだある。明日は早くここを発つからな」

 ソツェンの言葉に、彼女は、ただ大きくうなずいていた。

「もう寝ろ、温かくするんだぞ」

 彼女に背を向け、ソツェンは自分の寝台へと入ろうとする。

「ソツェン」

「うん?」

「毛皮、ありがとう。私、大事に使いますね」

「ああ、そうしろ」

 嬉しそうな黄花の声に、彼の心は、ほんの少しだけ温かくなっていた。

 これより道は、峠へと向かい、西夏の領域を外れて、吐蕃の領域へと迫る。

そこは、標高高く、草木も生えない、岩山と雪の世界。

 夏でも気温は上がらず、寒さ厳しい、強風吹き荒れる過酷な地。

 冷え込む夜、温かな毛皮が、黄花の身体を覆っていた。

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