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1 面倒な女

 剥き出しの岩が重なり合う、険しい山道。

生える草木はほとんど無く、カラカラに乾燥した砂が地面を覆う街道。

 その細い谷筋で、突如、黄土色の砂煙が、舞い上がった。

「山賊か?」

 煙幕の向こう側、男はそう言うと、得物である六尺程の細長い鉄棍を手に、身構える。

 体格のいい鹿毛の馬をその場に残し、彼は果敢に煙幕へと突っ込む。

振り下ろされる幅広の刀の一撃を、ひらりと避け、男は瞬く間に、二人ばかりを打ち倒していた。

「相手は一人だ、ひるむな!」

 視界の効かない砂煙の向こうで、何者かの声がした。

――やはり、追っ手か。

 男が、そう思うと同時に、左右から光る刃が、彼に襲いかかる。

勢いをつけて飛び上がり、手にした鉄棍で、それらを叩き落とす。

 武器を無くした彼らは、そのまま素手で男に打ちかかった。

くるくると身を躱し、男は勢いをつけて、鉄棍で足を払い、骨を砕く。

 あらぬ方向に曲がった足を押さえ、彼らはうめき声を上げていた。

「おのれ!」

 仲間がやられたのを見て、頭にきたのか、奴らのうちの一人が、刀を振り被った。

刀と鉄棍がぶつかり、豪快に散る火花。

 金属の擦れる音が、岩に反響して、まるで大人数で戦を繰り広げているような感覚がしていた。

 武器をぶつけ合い、迫り合いにて、互いの機会を窺う二人だったが、男はその合間に、深く静かに内力を練るべく呼吸を開始する。

 肺に充分空気を取り込み、男は敵の首に手をかけ、一気に内力を解き放つ。

敵の、頸動脈の血液が一瞬で沸騰し、そいつは口や鼻から蒸気を吐いて、倒れていた。

――残りは三人。

 得物を握りしめ、彼は気配で敵の数を把握する。

奴らの武器は、大柄な刀のみ。

自身の鉄棍と比べても、その長さはだいぶ違うと思われるのだが、その手足の長さと、刀自身の長さを加味しても、充分に鉄棍と渡り合える物であった。

 ざりざりと、砂利を踏む音が耳に聞こえる。

 追っ手の、荒い息が谷間に響いた。

 ここは乾燥地帯ゆえ、吹く風に砂が多く、息を吸えば吸うほどに、粉塵で呼吸は阻害される。

それを見越して、彼は追っ手が自ら動くのを、じっと待っていた。

「何を恐れている!」

 頭上より響く声に、男は思わず天を見上げる。

その一瞬見せた隙に、奴らはまんまとかかっていた。

 横薙ぎに払われる、刀の動きをかいくぐり、男は刀を弾き飛ばす。

がら空きになった胴体へ、内力を込めた掌底を食らわせると、奴の口から血が噴き出していた。

「ひっ……」

 怯え、後ずさる残りの一人も、その刀を叩き落とされ、間合いを詰められる。

男は躊躇無く、顔面を打ち砕き、鉄棍の先端を、その鼻っ面にめり込ませた。

後頭部から吹き出す血と肉に、彼は顔をしかめ、再び天を仰ぎ見る。

 大きな岩が、積み上がり崩れそうな山肌。

だが、そこにあったであろう人の姿は、とうに消え失せていた。

――逃げ足の速い奴だ。

 乾燥した地面に、赤黒い血が、吸い込まれていく。

降雨の少ないこの地域は、たとえ血であろうとも、容赦なくそれを大地に奪い取る。

 乾ききった風が、谷を吹き抜けていた。

「さて」

 鉄棍を肩に担ぎ、男は馬へと近づく。

「おい、行くぞ」

 ぶっきらぼうに、鹿毛の馬に声をかける。

だが、それに返事をしたのは、馬ではなかった。

「ひ、ひどい。何も殺さなくても、いいではないですか」

 馬の影に隠れるように、怯えた顔の女が、彼を睨む。

上質な絹織物に、その細い身体を包み、きらびやかな金細工のかんざしが頭で揺れる。

 その潤んだ瞳の訴えを、彼は鼻で笑っていた。

「つべこべ言うな。殺さなければ、俺が殺されるだろうが」

 低く、威嚇するような声で、男は女に脅しをかけると、彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。

「チッ、うっとうしい」

 思わず、舌打ちが出る。

その怒りの表情に、彼女は身を震わせて、しくしくと泣き始めていた。

「あなたには、慈悲の心というものが、無いのですか」

「ふん、それをお前ら西夏せいか人が言うか」

 鉄棍で地面を叩きつけ、彼は顔を背けながらそう言った。

「俺は西夏人とは、口もききたくない。分かったらさっさと馬に乗れ」

 怯える女を無理矢理馬に乗せ、彼は手綱を引いて歩きだす。

――これだから、女は面倒だ。

 男はそう思いつつも、馬上の彼女を、ちらりと見やる。

その顔は涙に濡れているが、長い黒髪がとてもよく似合う、若く美しい女であった。

――どうして、こうなった。

 嘆息をつき、彼は山道をひたすらに歩いていた。


 滔々と流れる黄河のほとりに、その町はあった。

街道途中にある、交易の分岐路にあたるその場所は、行き交う旅人が、少しずつではあるが、町に活気をもたらしているようでもあった。

「今日は、ここで休むか」

 男は、独り言のように、そう呟いた。

 疲れた顔の女を馬から下ろし、簡素な宿へと二人は入る。

お互いに言葉を交わすことも無く、男は帽子を脱ぎ、女は清潔とは言えない部屋に、眉をひそめていた。

「ああ、疲れたな」

 髷も結っていない、ざんばらな頭をぼりぼりと掻き、男は寝台に腰掛ける。

「おい、お前……」

 目の前の、女に声をかけた、その時だった。

「おいとか、やめてください!私には、名前があるんです!」

 その剣幕に、彼は目を丸くして、驚いていた。

「私の名は、黄花おうかです!犬猫みたいに呼ばないで!失礼です!」

 瞳を潤ませて、怒りのあまり震え出す女の仕草に、彼は思わず吹き出していた。

「笑わないでください!」

「ははは、なんだ元気じゃないか」

 上衣の、腕よりも長い袖を捲り、彼は膝を叩いて笑う。

「さっきまで、疲れた顔をしていたのにな」

 男の言葉に、黄花の顔が紅くなる。

衣服の袖で顔を覆い、長い睫毛をぱちくりと、目を瞬かせていた。

「み、見ていましたのね、無礼です!」

「そうか、元気なのか。なら……」

 彼が、眼光鋭く黄花を睨み付けた。

「『星』を返せ」

 一段、低く発せられた、その声に、黄花の身が固まった。

 長い、沈黙が続く。

宿の外からは、通りを行き交う人々の笑い声が、聞こえてきていた。

「どうした、さっさと出せ」

 冷徹な目で、男は己が手を差し出す。

早く寄越せとばかりに、指が少しだけ動いていた。

「だ、ダメです、あれは私たち大夏たいかの宝、あなたなんかに……」

「元は俺たちのものだ、西夏のものではない」

 男は頭を振った。

「今は、大夏のものです!」

「黙れ、俺たちから何もかも、奪いやがって」

「奪う……?あなた、何者なのですか、名乗りなさい!」

 恐怖に震える身体をごまかすかのように、大きな声を出す黄花に、彼は冷静に言う。

「俺は、ガル・ソツェン。お前ら西夏が滅ぼした、青唐せいとうの生き残りだ」

「青唐……、吐蕃とばんの者ですか」

「そうだ」

 にやりと、彼は笑った。

「西夏は宋と組んで、青唐を滅ぼし、民の命と我らの『星』を奪った。違うか?」

 その問いに、彼女は答えなかった。

否定をすれば、それが彼をさらに怒らせるのは、目に見えている。

かと言って、肯定すれば、それは国の悪行を認めることになる。

 最善は、黙っていることなのだと、黄花は判断した。

「我らは菩薩の下、仏門勉学に励んでいたというのに。交易を巡って争うとは」

 ソツェンの国は、吐蕃の北東にあった青唐。

 黄花の国は、河西回廊に位置する西夏。

どちらも、仏寺を多く擁し、境を接する、交易で成り立っている国であった。

「俺は、国の宝である『星』を、取り戻さないといけない、ラマも言っておられた」

 ラマとは、吐蕃において、高僧のことを意味する言葉である。

青唐は、吐蕃の中央から逃れてきた高僧たちが、身を寄せている地でもあった。

「取り戻すことに、執心していますのね。どうしてなのですか?」

「西夏の奴には、教えられない」

 ぷい、とソツェンは横を向いた。

「では、ますます返すわけにはいかないです」

「お前……っ」

 くすくす笑いながら、黄花はその身を翻す。

薄い絹の着物が、動きに合わせて靡き、独特の光沢を放っていた。

「お前では、ありません。黄花と呼んでください、ソツェン」

 窓から差し込む日の光で、彼女の着物が光り輝く。

まるで、後光のように見えるその様に、彼の目は、彼女から離せなくなっていた。

 吸い込まれそうな、その姿。だが、不思議な音が、部屋に響く。

――うん?

 彼がそれに気づいた時、黄花の顔が紅くなっていた。


 町の酒場。

ソツェンと黄花は、旅人で賑わう、その中にいた。

「とりあえず、腹ごしらえだ」

 卓につき、彼は腕組みをしながら、壁にかかる品書きに目をやる。

「ご、ごめんなさい、私のせいで……」

 顔を真っ赤にして、黄花はもじもじと恥ずかしそうにしていた。

「気にするな、あんなにでかい腹の虫を鳴らすんだ。たくさん食べろ」

「言わないでくださいっ」

 ソツェンの、軽いからかいの言葉に、彼女はますます顔を紅くする。

 彼は品書きを見つつも、黄花の姿をチラチラと盗み見した。

長い黒髪は、きちんと手入れがされ、金細工のかんざしと、同じく金の耳飾りが、その身を飾る。

 衣服は、庶民の着るようなものではなく、絹の上質なものを、幾重にも着ており、明らかに高貴な身分であるのが、分かる格好だった。

 一方、己はというと、毛皮の帽子に、毛皮の上衣を片袖はだけ、腕よりも長い袖を腹に巻き付けた、ごく一般的な青唐人の格好。

――何者なんだ、この女?

 そう思い振り向くと、彼女もこちらを見ているのに、ソツェンは気づいた。

「な、なんだ」

「ソツェンは、何を食べるのですか?」

 あどけない問いかけに、彼はまたも品書きを見る。

「そうだな、五目そばにでもするか」

「では、私も同じでいいですよ」

 同じと言われて、彼は疑問が浮かんでいた。

「いいのか?戒律で食えないものが、あるんじゃないのか?」

「出家した訳ではないから、平気です」

「そうか」

 何故か安心したソツェンは、五目そば二つと、他にもいくつかの品を注文した。


 卓の上に並べられる料理の数々。

それらに黄花は、目を輝かせて驚いていた。

「すごい、こんな料理、初めて見ます……」

 どこにでもある酒場の料理を前に、黄花の漏らした言葉が、ソツェンの耳に引っかかる。

「初めて?」

「なんでもないです。さ、食べましょう」

 微笑みながら、箸を取り、彼女はそれをソツェンにも差し出す。

「はい、どうぞ」

 ニコニコと、微笑む。

だが、彼は礼も言わずに、黙って箸を受け取っていた。

「熱いから気をつけろ」

「ええ」

 ふうふうと息を吹きかけ、熱々の麺を口にする。

頬を紅くして、彼女は実においしそうに、そばを食べていた。

「温かくて、おいしい……」

――こいつ、うまそうに食うな。

 一口、一口、噛みしめながら味わう黄花に、彼も箸を進めていた。


 再び宿屋。

とっぷりと日の暮れた町に、通りの灯りが、点々と着き始める頃。

 宿の一室に、二人は戻ってきていた。

「ああ、お腹いっぱいです」

 のほほんと、満足気な顔を見せる黄花。

寝台に腰掛けて、実に嬉しそうに、先ほどの食事を思い出している様子であった。

「あんなに熱々の料理、今まで食べたことが無かったですね」

――おかしいな、食事には、苦労しない身分のはずだが……。

 首を傾げながら、ソツェンも寝台に腰掛ける。

「あの、ソツェン」

「なんだ」

 帽子を取り、くっついた埃を軽く叩いて落とす。

「いつも、ああいうのを、食べているのですか?」

「まあな」

 感情の篭もらない、生返事。

心底、どうでもいい会話だと、彼は思っていた。

「私、これから毎日、五目そばでもいいですよ」

「はああ?毎日だと?」

「ええ、毎日。あんなにおいしい料理なんて、初めてですもの」

 そう言って、黄花はまたもニコニコと微笑みを見せる。

あまりにも脳天気な顔に、彼は少し不愉快な気持ちになっていた。

「それは良かったな。じゃあ、満腹になったのなら、『星』を出せ」

 勤めて、冷静に、彼は再び要求する。

何も知らない、世間知らずな女の戯言。

それに怒ったら負けなのだと、彼は自分自身に、言い聞かせていた。

「いやです、返して欲しいなら、力尽くで取ることです」

「ぐぬぬ……」

 満腹になったら、気も大きくなったのか、黄花は両腕を広げて、そう言った。

「私を裸にして、取れるものなら取ってみてください」

 ひらひらと、袖を動かす。

この薄い、絹の着物のどこかに、彼の求める『星』が隠されている。

 だが、彼女を裸にするどころか、彼はその身に触れることすら、許されない。

 本来であれば、年頃の男女が、この部屋に一緒にいることも不味いのである。

か弱き女に手を出したとあれば、一族の恥さらしになるのは、目に見えていた。

「お前な、おとなしく従えば、すぐにでも解放し……」

「黄花」

「はあ?」

「名前で呼んでください、ソツェン」

 面倒くさい女だと、彼は大きく息を吐いた。


 深夜。

静かな寝息を立てる、彼女の枕元に、ソツェンは佇んでいた。

――寝込みを襲うなど、卑怯だが、やむを得ん。

 月明かりに照らされて、柔らかそうな首筋が、白く輝く。

きめ細かく、艶やかに光るそれは、男を魅了するには、充分なほどであった。

――慌てるな、『星』を取るだけだ。

 静かに、彼は手を伸ばし、彼女を覆う掛布に触れようとした。

 その時であった。

「何ですか、この手」

 咎めるような声に、ソツェンの身が、びくりと震える。

「あ、いや、その」

「年頃の女に、何をするつもりなのですか?」

 いつの間にか目覚めていた黄花が、漆黒の瞳で、彼を見据えていた。

「な、なんでもないっ」

 顔を紅くして、彼は手を引っ込め、くるりと黄花に背を向ける。

動揺しているのを悟られないように、そろりそろりと静かに彼女から離れた。

「……卑怯者」

 ぽつり、と言われた、その言葉に、ソツェンはなぜだか大罪を犯したような気がしてやまなかった。

 高地にある、町の宿屋。

夜ともなれば、気温は下がり、冷たい空気が、大地を覆う。

 空には、月が輝いていた。

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