第26話 野いちご摘み①
ふう……とひとつ、小さなため息をついて、僕は大学図書館から借りてきた本をバタリと閉じた。
「――まあ、そうそう見つかるものじゃないか」
分厚い竜革の装丁が手に心地よい。今の時代だと本に竜革を使うなんて考えられないよなぁと、その表面をなでる。
豪華な金文字で書かれたそのタイトルは「エルフ国滞在記」。
100年ほど前にとある変わり者の貴族がエルフの国を旅行した際の手記をまとめたものだ。
革命が起こる前のルキウス千年王治世の記録として、最近では注目が集まっているらしい。
何故注目を集めるのかというと、そもそもエルフ国について記録された本が少ないからである。
エルフ達は、自国の歴史を文書として残すという文化がない。
理由は当たり前のことで、「残す必要が無い」からだ。
長命なのでわざわざ記録を残そうという意識が薄いのだと言う。
例えば百年前のことであろうと、当たり前のように知っている者、見ていた者、そして実際に経験した者が生き続けている。それがエルフ達の文化を理解する上で重要なことだ。
紙に残すよりも口伝を重視するのが彼らであり、翻訳の仕事に実用書が少ないのもその辺りにある。
そのため、エルフ国の歴史を知ろうと思ったら他国の者が書き記した書物に頼ることになるのだ。
はっきりいってそれはかなり厄介な作業である。
エルフという種族は伝統として他国に対して閉鎖的なところがあり、それはルキウス王朝時代も現政府時代も変わっていない。
もちろん外交上の繋がりはあるが、それも最低限のもので、多くのエルフ達は森の中に閉じこもって他国に出ようとしない。
つまるところエルフ史というのは、わずかに残された文書をひとつひとつたどっていって見えてくる点描画のような、迂遠なものとなってしまうのである。
ルキウシオン・イルアリ・フレイ。
革命前に千年の治世を達成した、世界でもっとも有名なエルフ。
この世にまだ魔族がはびこっていた時代の英雄の一人としても知られている。
そんな伝説に名を残す人物の家族関係を調べるだけでも、はっきり言ってお手上げだ。
子供が何人居たのか、妻が何人居たのか。
それすら資料として簡単には手に入らない。
わかっていることは、皇子が一人おり、その息子は革命後ダークエルフの里に亡命し、里の娘と結婚したことぐらいだ。
果たして、彼にリィルケという名の娘は居たのだろうか。
「……まあ、知ったところで僕に何か出来るわけじゃあないんだけどな」
小さくのびをして、自虐的な独り言をぼやいてみる。
例えばリカがルキウス王の娘だったとしよう。
それが分かったからと言って、何かが変わるわけじゃない。
今まで以上にリカの事を周囲に漏らさぬよう気を付けるぐらいだ。
けれど。
少しでも出来ることはやっておきたいというのもまた本音だ。
自分に出来ることは限られているからこそ、考え続けるしかない。
彼女を守るために。
クロキ氏との別れの際、再確認したこと。
僕とリカの未来は、危うく儚いものだ。
種族の差、寿命の差、戻らない記憶、リカの過去に隠された秘密。
ちっぽけな一人の没落貴族には抗いようもないような運命が、ある日突然訪れるかも知れない。
だからこそ、今を失わぬよう備えておくしかない。
そのためには、少しでも情報を集めておかなければ。
「――――ダンナサマ、ちょっといいデスか?」
そのときだった。ノックの音に思考が中断されたのは。
特徴のある、たどたどしい人間語が書斎の扉のむこうから聞こえる。
その声を聞いて、おや、と思った。
珍しい客人だ。
彼女が僕の部屋に一人でやってくることは少ない。
一体何の用だろうか。
僕がリンを招き入れると、彼女はどこか所在なさげにちょこんとスツールに腰掛けた。
「どうしたんだい?」
「……………………」
しばらく、気まずい沈黙があった。
そういえば彼女と二人きりで話したことがあっただろうか。
リンが家に来てからというもの、随分と我が家が賑やかになった。
リカが居て、クロキ氏が居て、リンが居る。
いつの間にかそれが当たり前になっていた。
逆に言えばリンと二人で話す機会と言うのはほとんどなかった。
どこかしら緊張した面持ちで、彼女は切り出した。
「――最近のネーサマのことデスが」
「最近の、リカ?」
最近の彼女になにかあっただろうか。
リカはクロキ氏がこの屋敷を去る時、リンと一緒にぼろぼろと泣いたし、別れた後もしばらくはあまり明るい表情を見せなかった。
しかし、最近ではようやく元気を取り戻したように見えたところだったのだ。
それが一体どういうことなのだろう。
「ネーサマ、リンに気を使いすぎてる気がしマス」
「……ん?」
「いつだって、リンにべったりで、ダンナサマと二人になろうとしない」
「えっ、あっ、いや、そうかな?」
思わず、声が裏返った。
心当たりが、ないでもなかったからだ。
「折角、姉妹が再会したんだ。仲良くして当然だろう?別に僕に気を使う必要はないよ。心置きなく仲良くしたらいいじゃないか」
自分に言い聞かせるように言い訳を連ねるが、彼女はそんな僕の狼狽を見抜いているかのようにじっと僕を見つめた。
「ネーサマとダンナサマ、夫婦らしくない」
「うん、まあ……そりゃ」
こうも、面と向かって「夫婦らしくない」なんて言われるとなんと返していいかわからない。
ボリボリと頭をかいて、眉をよせた。
そもそも、僕たちはまだ正式な夫婦というわけじゃないのだ。
夫婦らしくなくて当然だろう。
「そりゃね、僕たちはまだ、」
そこまで言いかけて、続く言葉が出なかった。
それは言い訳に過ぎないと気付いたからだ。
リンの赤い瞳がじっとこちらを見ている。
確かに。
そう言われればリカの様子がおかしいのだ。
夫婦であるとかどうとか以前に。
彼女はほんのわずかではあるけれど、僕を避けているように思う。
リンが来てからというもの、リカはずっと突然現れた妹を気にかけていた。
一見、それは当たり前のことのようにも思える。
いくつかの悲劇があって引き離された姉妹が再会したのだ。
たとえ血は繋がっていなくとも、いやむしろ血のつながりがないからこそ絆を確かめ合う時間があってしかるべきだろう。そう考えていた。けれども。
クロキ氏が旅に戻った後に、それは明確に現れだした。
ふとした違和感を感じるのだ。
例えば、団らんのティータイム中。ちょっとした拍子にリンが席を外すとき。
それまで当たり前だったはずの空気が突然ぎくしゃくしたものになる。
目を合わせなかったり、上手く言葉が出てこなくなったり。
三人なら自然な関係で居られるのに、二人になると妙に不自然になる。
だから、いつの間にか二人きりになることを避けるようになる。
臆病な僕はなるべくそれを気にしないようにしていた。
単なる偶然だろうと。
僕の勘違いじゃないかと。
気のせいということにして、そこから目を背けていた。
「……リン君が気にすることじゃないよ」
僕がさらに逃げを重ねようとすると、この黒いエルフは大きく声を荒げた。
「それはダメ!ネーサマ、無理してる!でもリンには言ってくれない!ダンナサマがなんとかしないと解決しない問題!」
二つにくくられた銀色の髪をぴょんぴょんさせながら彼女は僕に訴える。
「リンは、ネーサマに幸せになって欲しい。もちろんダンナサマとネーサマの間にしかわからない関係があるのかも知れない。でも、リンに関係ないことはない。リンとネーサマは、家族。ネーサマとダンナサマも家族。家族のこと、気にするのは当たり前」
ダークエルフという種族について、僕は伝聞で聞いたことを鵜呑みにしている部分があった。
亜人というよりも闇の眷属に近い彼らは、「冷酷で残忍。血と争いを好み、人間やエルフとは相容れない存在である」と伝承には言う。
しかし、リンを見ていると所詮、伝承は伝承に過ぎないのだなと改めて感じるところがある。
リカに仕立ててもらった衣装に身を包んだ彼女は、その愛らしい外見のままの性格をしている。
たとえば人間の娘をラッパを鳴らして集めたとて、リンほど気持ちの良い性格をしている者はそう居まい。
一般的な話をすれば、歴史というものは勝者の都合の良いように書き換えられるものだ。歴史学者は常に権力者と戦っているなんて言葉もある。ダークエルフという存在も、その犠牲者なのだろう。
よくよく考えてみれば冷酷で残忍で血と争いを好む人間だっていくらでも居るのだ。それが相容れない存在だなんて、笑える話じゃないか。
「……………………」
僕は、大きなため息をついた。
彼女の気持ちに、ちゃんと答えてやらねばなるまい。
確かにこのままリカとぎくしゃくとした関係を続けるわけにもいかない。
そう思い始めていると、それに呼応するかのようにリンが詰め寄ってきた。
「実を言えばリン、今度ネーサマに裏の森に野いちごを摘みに行こうと誘われていマス」
リンはその大きな赤い瞳をいっそう大きく見開いて、僕ににじり寄ってくる。
僕たちの住む屋敷は郊外にあり、裏には小さな森が広がっていて、時折散歩や食料の調達などに使っていた。
「そ、それが?」
「リンの代わりに、ダンナサマ、行く。二人っきりでイチゴ摘む。これで解決デス」
無邪気に、にっこりと笑うリン。
「え、いや、え?」
一体何が解決するというのだ。
「ネーサマがダンナサマ避けてる、必ず理由があるはず。リンが居たら気を使ってネーサマは何もしない。静かな森で二人っきりになれば、ネーサマもきっと本心を打ち明けてくれマス!」
うーん。
そんな短絡的なものだろうか。
しかし、結局僕はこの小さな黒いエルフの剣幕に押されるかのように、リカと野いちご摘みに出かけることを承諾したのだった。
せいぞんほーこくー。やっぱり、一度止まると再び回り出すのには力が要るものですね。




