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第25話 旅立ちの前に

 春が深まり汗ばむ時期が続くようになってきた。

 溶けた雪が流れ込み、暴れに暴れた河川もようやく大人しくなり、その出水は冷え枯れた大地を蘇らせる。

 この地方では今からが大事な時期だ。

 たっぷりと雪解け水を含んだ肥沃な土壌を実りに変えるために、(くわ)を振り、種をまく。

 いくら技術が発展しようとも、人は大地の恵みなくしては生きていけない。

 僕の住む屋敷の周辺は農地が少ないが、それでも時折むせかえるような土の香りが匂い立ち、春を感じさせてくれる。

 今も、書斎の窓から暖かい風が吹き込んで、一年ぶりの懐かしい匂いを運んで来ていた。


 そして、春というのは旅立ちに良い季節でもある。


「もう少し待ってもらえたら、アル達が挨拶に来られると思うんですが」


「ふむ。スタインボルグ夫妻に会えないのは残念だが、あまり出発を遅らせると色々なところにしわ寄せが来るものでね。気ままな旅に見えて、これでもいくつかのしがらみがあるのだよ」


 ケット・シーは旅をする種族だ。

 国家を持ち、ちゃんとした領土も存在するが、その気風は自由と孤独を好む。

 ある程度老いて落ち着くまでは一所にとどまらず、根無し草のような生活を続ける。

 僕としては昔語りに出てくる吟遊詩人のような生き方に憧憬を感じていたのだが、そんな彼らがしがらみに縛られているというのもなんだか似合わない話で、それでいて世の中そんなものかなと苦笑してしまう。


「残念ですが仕方ありませんね。せいぜい盛大に見送らせてもらいますよ」


 出発は、明日の朝に決定していた。

 いつも通り書斎の出窓で日に当たりながら、じっと外を見つめているクロキ氏。

 その短めのヒゲが風にそよいでいる。


「ありがとう。――ところで、そのスタインボルグ議員から届いた手紙のことだが」


 こちらを見ずにクロキ氏は問いかける。


「ええ、言いたいことはわかります」


 僕は書斎机の上に置いてあった、見るからに高そうな質の良い紙を手に取った。


「――フィルボア・クリム・フレイ。ダークエルフの里に亡命した旧エルフ王家の第一皇子の名前です。偶然の一致の可能性は捨てきれませんが」


「ダークエルフと婚姻関係にあった〝フィル兄様〟か。偶然の一致にしては少々出来過ぎな気もするね」


 革命によって国を追われた旧王家の皇太子は、ダークエルフの里に落ち延びて、その里の娘と結婚したとされている。

 はっきりとした時期はわからないが、そのせいでエルフとダークエルフが揉めたと言うことまでは、アルウィンから聞いていた。

 

「リン君から聞いた話と、あまりに似ているとしか言えませんね」


 僕は慎重に言葉を選ぶ。


「ふむ。では、しばしの間、仮定の話をしようか」


 いつ聞いてもクロキ氏の声は低く、それでいて良く通る。

 何も知らない者が見たら、窓際で黒猫が日なたぼっこをしている微笑ましい風景にしか見えないだろう。だが、その声はわずかに神妙な色が含まれていた。


「まず、リン殿は知っていると思うかい?」


「知っていて隠している可能性はもちろんあるでしょう。あの日、彼女は色々あって喋りすぎてしまったけれど、大事な一線だけは隠し通した。と考えても不自然ではありません」


「ふむ。知らないとは考えにくいかもね。自分の姉の夫が何者か知らなかったというのは少々不自然ではある」


「ひとつ、そうではない可能性を考えるのならば、まだリン君が生まれていなかった、もしくは物心がついていない時期にフィルボア皇子とネリリさんが結婚した。と考えることも可能ですが」


 エルフやダークエルフの年齢は見た目で判断することは難しい。けれど、少なくともリンはまだ成熟しきった大人のダークエルフだとは考えにくい。

 エルフ達の外見は一定まで成長を続けた後、老い始める前に止まるのだそうだ。

 あくまでも予想に過ぎないがリンはまだ成長途上なのではないか。だとしたらかなり若い可能性もある。


「私から言い出しておいて何だが、そのあたりはまあ、どちらでもかまわないと言えなくない。大事なポイントは、奥方がフィルボア皇子の妹だということだ」


 それはひとつの仮説。

 だが、その仮説に沿って考えれば、多くの物事に納得がいく。

 何故、リカは兄と一緒にダークエルフの里へと行ったのか。

 何故、彼女が命を狙われたのか。

 何故、ハイマン先生がリカについて何も教えずに僕のところに寄越したのか。


「もしリン君が知っていて隠しているのだとしたら、それは僕の師であるハイマン先生にキツく言い含められているからでしょうね。リカがルキウス千年王の娘だと言うならば、その情報は隠されるべきだ」


「ほう。師匠から信用されていないと嘆かないのかい?」


「当然のことだと思いますよ。突然、旧エルフ王家の姫を嫁にしろ、なんて言われたら、僕は随分混乱したことでしょう。もちろん何も教えられずに記憶喪失のエルフを押し付けられた時は腹も立ちましたが、もし最初から彼女の立場を知らされていたら、僕と彼女はまた違った関係になっていた可能性もある」


「ふむ。素直なことだね。では、今はどうなのかね。もし彼女がエルフ王家の血を引く者だとしても、何の問題もないと?」


 僕ははっきりと答える。


「ええ。彼女は記憶を失い、何も知らずにここで幸せになることを望まれている。それに応えるのが僕の役目でしょうし、僕自身もそうありたいと考えています」


「ならば何も言うまい。だが、不安の種は完全に消えたわけではない。それはわかっているね?」


 クロキ氏の緑色の瞳がこちらを見る。明るい日差しに当てられて黒目の部分が随分と細くなっている。

 僕は肯いた。


「フィルボア皇子が、夫婦共々殺された。そしてリカもその命を狙われている」


 それが何者の手によるものなのか、はっきりとはしていない。

 しかし。


「今のエルフ政府は、あまり国民の信を得ていないようです。ルキウス王の治世を懐かしむ者達も多いとか。例えばの話ですが、王家の血を引く者を担ぎ上げようとするエルフがいてもおかしくない」


 王政の復権。革命後の混乱期はそのような夢を見る者も少なくない。

 人間の国では革命自体が穏やかなもので、王家も権力を失っただけでまだ存続しているため、それほど大きな事件はなかったが、それでも剣呑な話はいくつかあったらしい。


「ふむ。逆に言えば、だ。今の政府にとって、ルキウス王の血を引いた者は目障りなわけだ。たとえそれが亡命した者であっても」


「あくまで想像に過ぎませんが。そもそもリンの言う〝フィル兄様〟がフィルボア皇子だと断定することすら出来ないのですから」


 僕の言い回しに、少しだけ興が冷めたような顔をするクロキ氏。


「仮定の話と言っただろう?――で、君はもしその仮定が当たっているとしたら、どうするつもりだい」


「どうもしませんよ。仮に、リカが旧エルフ王家のお姫様だったとしましょう。そして現エルフ政府が、その存在を消してしまいたいほど厄介に思っていたとしても。僕になにが出来るというのですか。話が大きすぎる。人間の没落貴族一人が手に負えるような話じゃない」


 ほんの少し、自虐の意味もこめて僕は続けた。


「僕は今まで通り、彼女と一緒にこの屋敷に住むつもりです。先ほども言った通り、彼女はここで新しい人生を送ることを望まれている。リカの存在は隠し続ける必要があるでしょうが、出来うる限りの事はするつもりです」


「まあそれしかないだろうね。しかし、わかっているとは思うが、()()()()()それが通用するとは思わないほうがいい」


「もちろん。リカは少なくとも街に買い物に出ています。いくら耳を隠していても顔は覚えられる。得意先として認識されている店もいくつかあるでしょう。しばらくは大丈夫でしょうが、何年経っても老いることなく姿形が変わらない娘を怪しむ者が出て来るのは間違いない」


「ふむ。そうだね。しかも、それだけではない」


 僕はゆっくりと頷く。


「寿命、という問題があります。死んでしまえば、彼女を守ってやることは出来ない」


「どうするつもりだい?」


 その問いは、ひどく冷たいものにも思えた。

 しかし、そう感じること自体が甘えなのかも知れない。

 どうしたってそれは向き合わなければならない問題だ。


「わかりません。一番可能性が高い選択肢は、ダークエルフの里へ帰すことでしょうね。今は無理でも、何十年後かには情勢が変化しているかもしれない。彼女の命が狙われることはないかも知れない」


「ふむ。もしくは人間の国とエルフの国の関係が良化しているかも知れない。奥方はその身を隠すことなく堂々とこの屋敷の女主人として生きていくことも出来るかもしれない」


 わざと明るい未来だけについて語っているのだろうか。

 だとしたら相変わらず食えない人だ。

 仕方なく僕はあえてそれを口にする。


「……もちろんその逆の可能性もあり得ます。エルフと人間の関係は変わらず、あるいは悪化して、リカはこの国には居られない。その上、ダークエルフの里に帰ることも拒まれる可能性だってある」


「ふむ。あまり考えたくもないな。これでも世話になった身だ。願うことしか出来ないが、不幸なことだけにはなって欲しくないと思うよ」


 沈黙が書斎を支配する。

 僕が生きている間。その間だけは彼女を守り通してやりたい。そのためならどんな努力でもしよう。

 しかし、寿命だけは変えることが出来ない。

 ルキウス王は千年生きた。人間の身からすれば、ふざけた話だ。

 リカは、後どれくらい生きるのだろうか。


「……考え続けるしか、最善と思える選択肢を取り続けるしかないのでしょうね。どうすれば彼女を幸せにしてあげられるのか。あまり臭いことは言いたくありませんが」


「いや、それでいいんじゃないかね?それがあるべき夫婦の形だろう」


 クロキ氏は少しおどけたような仕草で、前足で顔を洗う。

 風が強く吹いて、書斎に詰んであるいくつかの本がバサバサと音を立てた。

 さりげなく。

 何でもないことのように。

 無邪気に僕は、問うた。


「――もし、式を挙げる日が来たら、呼んでもかまわないでしょうか?」


 珍しく、クロキ氏は目を見開いた。


「クッ……クックック。君も気の利いたことが言えるようになったじゃないか」


 あらゆる不安を蹴散らしながら。

 僕とクロキ氏は笑いあった。


「初めて見た時は随分と頼りない家主だと思ったが。しばらくつついてやった甲斐があると言うものだ」


 昔、この屋敷に逗留していたケット・シーがいた。

 僕のチェスの師匠であるその亜人は、今や()の国で宰相をやっているらしい。

 クロキ氏の笑みを見ていると、ふとそれが懐かしく思い出された。

 

「これで私も安心して旅に戻ることが出来るというものだ。式には是非呼んでくれたまえ。世界の果てにいても駆けつけてみせよう」


 ……これが、僕とこの亜人の小さな別れの挨拶だった。


「今夜はご馳走を用意するとリカが言っていますし、リン君も手伝っているみたいです。楽しみにしててください」


「ふむ。ご馳走は楽しみだが、あの二人にはあまり泣かれたくないな。なるべく明るいパーティになればいいが」


「それは難しいかも知れませんね。どうもあの姉妹は涙もろいところがあるようですから」


 僕たちはそう言って苦笑しあったのだった。


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