第22話 雪解けの来客④
「――――ネーサマのニーサマ、フィルニーサマはもう、この世にはいまセン」
本ぐらいしかない殺風景な書斎に、沈黙が降りる。
予感がないわけではなかった。
リカのただならぬ様子を見る限り、そういうことがあったのだろうと。
そのエルフの兄妹の間に、幸せなことしかなかったのなら、あの涙はこぼれなかったはずだ。
けれど。
やはり実際に知っている者からその言葉を聞かされると、身体の芯に重いものがのしかかる。
「死因については、聞かせてもらえるのかな。よもや天寿を全うしたというわけではあるまい?」
低い声が、出窓のほうから響く。
エルフという種族は、長寿ではあっても不死ではない。
血を流すこともあるし、血が流れ過ぎれば自然と死に至る。
まっとうな生命の営みの中に生きる存在であると、先生が語っていたのを思い出す。
「うすうすは、わかっている、思いマスが…………」
リンはそこで言葉を切る。
嗅ぎ慣れた古い本の匂いが、宿命的にこの書斎にこびりついている。
普段は全く気にならないその匂いが、どこかしら不吉なものに感じられるのは何故なんだろうか。
物音ひとつしないこの部屋で、充分過ぎるほどの沈黙の後、彼女はかすれた声でつぶやいた。
「――――とある者達の、手によって……」
言わせてしまったことを後悔してしまいそうなぐらい、その声は静かな悲痛さに満ちていた。
「そうか……」
「実を言えば、詳しいことは、リンも聞かされていまセン。…………ある日、里にやってきた連中が、フィルニーサマと話がしたいと言って」
そこから先に続くはずの言葉は、そこで途切れた。
「うっく……………ひっ…………あ、の、」
その赤い瞳が溶け出したかのように。
その涙を見て、僕は慌てて彼女を止める。
「すまない、辛いなら無理に思い出さなくていい。悪かった」
しかし、一度流れ出したものは、そう簡単には止められない。
「フィ、……フィルニーザマ……と、ネ、ネリリ、……ネーザマが…………、ぞ、ぞいづらど、い、い、いっじょにでがげでいっで…………ひっく、……ぞのまま…………」
その言葉を聞いて、僕は思わず天を仰いだ。
――――なんということだろう。
この小さな黒いエルフが涙声を隠そうともせず、慣れない人間語を懸命に使って紡ぎ出そうとする、その真実は。
フィルとネリリ、二人とも、もうこの世にいないと告げていた。
肉親を亡くしたのは、リカ一人ではなかったのだ。
「いい。大丈夫だ。僕が悪かった。無理をしなくていいよ」
どんな優しい言葉も、むなしく感じられる。
彼女は、どれほど重い物を背負って、どれほど強い意志を持ってここに来たのだろうか。
姉夫婦を失い、残された義理の姉は自分のことを忘れて、遠く離れた場所で暮らして。
彼女の孤独を想像すれば、それまでの明るい様子すら痛々しく思い出される。
恐らく。
単純にリンはリカに会いたかったのだ。
たとえその記憶が残っていなくとも。
どれほど周囲に反対されても。
彼女がここに来たとき、なんと言った?
――リンのこと忘れてしまっている、わかってマス
――リン、ネーサマに会いたくて来ちゃいマシタ
何故ここに来たのかを問われたとき、なんと言った?
――ネーサマを元気づけてあげたかったからデス
――ネーサマは何も悪くない!
――リンがここに来たのは、それを言うため。
「……………………」
リカと同じ、もしくはそれ以上の孤独を抱えながら。
義理の姉のことを想い、姉をかばうために、姉を元気づけるために。
あらゆる物事を顧みずに、ここにたどり着いたのだ。
音はなかった。
ケット・シーは、足音なく動くことが出来るという。
気づけば、クロキ氏は、リンの膝の上に乗っていた。
「――お嬢さん。辛い思いをさせてしまったね。我々は、人の子のように頭をなでるような真似は出来ない」
そう言って。
「ただ、涙を飲んでやるぐらいは出来る」
その舌でリンの褐色の頬をなめる。
「ク、クロキサマ……」
ペットが、主人に甘えるようなその仕草は、しかし決してそのような甘いばかりのものには見えない。
「ふむ。ダークエルフの涙というのも、ちゃんと塩辛いものなのだね」
ただ、暖かい慰めがそこにあった。
リンはその行為を素直に受け入れる。
ケット・シーは誇り高い種族だ。
猫として自分を偽っている時ですら、自ら進んで人の膝の上に乗ったりはしないだろう。
静かに。
水音すら立てずに、しかし一滴たりとも残さぬように、クロキ氏はその愛撫を続ける。
どれくらい時間が流れただろう。
ほんの少しの間にも思えたし、随分と長い時が過ぎた気もした。
「ありがと、……ございマス。もう大丈夫デス。落ち着きマシタ」
「ふむ。そうか」
優しい声だった。
クロキ氏はそのままリンの膝の上に座り込む。
リンはおそるおそる、クロキ氏の美しい毛並みの上に手をのせる。
普段ならば、撫でられることをあまり好まない猫の姿をした紳士は、柔らかな表情を崩さぬまま彼女の好きなようにさせていた。
「どこまで、話しまシタか……」
「――焦らなくていい。思い出したくないことは思い出さなくていい」
声をかけるぐらいしか出来ていない自分が情けなくさえ思う。
「大丈夫、デス。問題ありまセン」
そこから彼女は、ぽつりぽつりと、時折しゃくりあげるような仕草を見せながらも懸命に人間語で語り続けた。
フィル兄様とネリリ姉様――エルフとダークエルフの夫婦が、(リンも詳しいことはわからないと言う)あるエルフの集団の手にかかり帰らぬ人となったこと。
それによってエルフとダークエルフの間にいくつかのもめ事が起こったこと。
その連中は、リカをも狙っていたこと。
事情によりダークエルフの里を訪れていたハイマン先生が、リカを逃がそうと提案したこと。
リカは、記憶の封印を受け入れ、人間の国へと旅立っていったこと――――
「あのままだと、ネーサマも危なカッタ。里の仲間達と、ハイマン達と協力して、ネーサマ逃がしマシタ。記憶、封印して、周囲には、死んだことにして……」
「なるほど。つまり、エルフの国では奥方は亡くなったと思われているわけか。それで、全てを忘れてこの国で新しい人生を歩むことになったと」
「みんな、表面上はそれで納得しまシタ。争い事ひとまず収まる、大事だった。……もちろん、人死にが出ていマス。連中に恨み持ってる仲間多い。リンも奴らを許したくない。けど、里のエラい人達が交渉して、今のところ、落ち着いた」
リンの膝の上で低い声がする。
「ふむ。なかなか血なまぐさい話だね。しかし……」
何かを考え込むようにクロキ氏の言葉は途切れた。
「里の仲間達、仕方ないと言ってた。ネーサマ、ここに居るより、全て忘れて新しい場所で幸せになって欲しいって。けど、リンは納得いかなかったデス。知らない土地で、思い出無くして、知らないニンゲンと幸せになれる、とても思えなかった――」
リンは、そこで言葉を切り、顔を上げた。
「けど、ほんの少し、安心した。ダンナサマ、ネーサマのことちゃんと好き。ネーサマのために怒ることの出来るひと。怒鳴られてビックリしたけど、ネーサマが大事だって、リンに伝わった」
まだ腫れぼったい目を細め、こちらに微笑みかけるリン。
突然の指摘に思わず顔が熱くなってしまう。
「ふむ。そこは安心したまえ。私が保証しよう。何しろ、この二人と来たら毎日毎日飽きることなくイチャイチャと……」
「クロキさんっ」
「あー、リン、それ聞きたいデス。ネーサマがどれくらい幸せなのか聞かせてもらえたら、リンも安心して里に帰ること出来る」
「いや、それは、その……」
「いいじゃないかね。のろけ話で人助けが出来る機会なんぞ、そうそうあるものではないだろう?」
言葉に詰まる。
リンの赤い瞳が期待を込めた色をしてこちらを見つめている。
今までの表情とは全く違う、明るい好奇心に満ちた顔は、まだ幼い見た目の彼女によく似合っていた。
本来の彼女は、さっきの食堂で見せた時のような無邪気な性格なのだろう。
しかし。
その時、クロキ氏のとがった耳がピクリと動いた。
「……ふむ。少し惜しいがどうやらその話は後回しのようだな」
その言葉を聞いて、僕は顔を跳ね上げた。
視線の先は当然、書斎のドアだ。
「どうしまシタか?」
リンだけが、よくわかっていないという顔で、僕とクロキ氏を交互に見る。
と、同時に。
ゆっくりと、その扉が開く。
僕はもういてもたってもいられずに立ち上がった。
「――リカっ!?」
古ぼけたドアの向こうに、彼女が立っていた。
いつもの、穏やかな顔で。
視線の先に僕を認めて、ほんの少し目を細める彼女。
「ネーサマッ!」
少し遅れてリンが反応する。
それに呼応するようにクロキ氏がリンの膝から降りる。
「……ご心配をおかけいたしました」
僕らが書斎のドアの前に駆け寄ると、リカは小さく頭を下げた。
「何を言ってるんだ。まだ寝ていなくて大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで、特に身体に異常があるわけではありませんし」
声はしっかりしている。
すこし厚めの一枚布の寝間着を身につけた彼女は、どこにも手をかけることなく、自分の足だけで立っていた。
それだけでも、少し安心できる。
お互いの目と目が、言葉にならぬものを伝え合う。
僕は彼女を抱きしめてやりたい衝動にかられるが、それは自重した。
それよりも先に、大事なことがある。
「ネーサマ……」
「…………リン」
リカが。
妹を愛称で呼んだ。
それだけで、そのダークエルフの妹は目に涙を溜める。
「ネーサマ、ごめんなさい……リンは、リンは…………」
「何も言わないでいいわ、リン」
リカは、そっと腰を落として、目線を妹に合わせる。
「――私には、兄が居たのね」
ポツリとつぶやいた言葉は、驚きを持って迎えられた。
「まさか…………!?」
「いえ、記憶を取り戻したわけではありません」
ゆっくりと、リカは言葉を続ける。
「ただ、納得したのです。ああ、私には兄が居たんだな、と。自然にそれを受け入れられたのです」
先ほどの混乱は、もう彼女から過ぎ去っているようだ。
穏やかな笑みのまま。
「そして…………」
続く言葉に、リンの赤い瞳は、再び決壊した。
「――――こんなに可愛らしい妹が、居たのですね」
「ひっ…………うっ…………、ネ、ネーザマあああああああああああああっ!!」
クロキ氏に丹念に舐めてもらった顔を、もう一度グシャグシャにして。
妹は、姉の胸の中へ飛び込む。
やっと、この姉妹は再会出来たのだろう。
種族は違うかもしれない。
血のつながりはないのかもしれない。
姉は、妹の記憶をなくしている。
それでも。
この姉妹は、祝福されるべき再会を果たしたのだ。
「リン、ありがとう。会いに来てくれて」
嗚咽の混じる泣き声の中、リカの声も震えていた。
幾分背の低い妹を抱きしめる、彼女の瞳にも光るものがあった。
クロキ氏と、軽く目が合う。
――無粋な真似はやめておこう、と。
男二人は、静かにうなずきあったのだった。




