第2話 食事
「エルフ語にはロマンがある」
恩師ハイマンがよく口にしていた言葉だ。
学生だった当時、僕はこの言葉の意味をいまいち理解していなかった。
他の言語にはロマンがないのか。僕達人間の言葉にはロマンがないというのか。
何故ハイマン翁が口ぐせのようにそう言っていたのか、今ならよくわかる。
……ロマンというのは、往々にして食えないものなのだ。
僕の通っていた大学では亜人語学が必修となっていて、ドワーフ語かエルフ語のどちらか一つを選択しなければならなかったが、大半の学生は当然のようにドワーフ語を選択し、エルフ語を選択するのはごく一部の変わり者だけだった。
亜人語学を学ぶ者達の間では、「エルフ語は森の言語、ドワーフ語は岩の言語」とよく言われる。
一言で言えば、エルフ語は難解でドワーフ語は簡単だ、という意味だ。
ドワーフ語は彼らの気質を表すかのように、文法も発音も岩を割ったように単純明快ではっきりしている。
それに比べエルフ語は細かい変化が多く、動詞の活用ひとつ取っても、うんざりするほど憶えることがあるのだ。
似たような意味の言葉でも場面によってとても細かく使い分け、逆に似たような字面でも1文字違うだけで全く別の意味に変わる。
エルフ語の森はとても深く広大で、我々人間がそう簡単に踏破できるものではない。
さらに言えば、これは生物学的な問題として、人間にはまともに発音出来ない言葉も一部ではあるが存在する。どれだけ語彙を深め、文法を修めようともこればっかりはどうしようもない。
エルフ語に関してはどうあがいてもネイティブになることは出来ないのだ。
しかし、大半の学生がエルフ語の履修を避ける理由はそれだけではない。
1番の問題は、そんな徒労とも言えるような努力の果てに習得したエルフ語が、
「人間社会で生活する上でほとんど役に立たない」
ということである。
これはもちろんエルフ達が悪いわけではなく単純に人間文明にとって需要があるかどうかの問題だ。
例えば、よく比較されるドワーフ語で書かれた本というのは技術書が多い。
ドワーフ達は採鉱や冶金に関する高い技術を持っていて、それを書き残した文章は数多く存在する。
その外見からは想像もつかないほどドワーフと言うのはまめで器用な人種だ。それは彼らに職人階級が多いことからもわかる。
ドワーフが石墨でビッシリと自分の経験や考えを書き記した文章は、人間にとって利用価値が高い。
それはすなわち翻訳の需要が高いと言うことだ。
一方、エルフ達はそう言ったものを文章に残さない。
決して技術力が低い種族というわけでもないのだが、どうやら彼らはそういった技術の伝承に口伝を多く用いるようなのだ。
ただ、だからと言ってエルフ達が筆無精なのかというと、決してそうではない。
エルフ語で書かれた本というのはそれこそいくらでもある。
だが、彼らが紙というものに書き残すその大半は、「詩」なのだ。
それも難解で壮大で、やたら長い詩が多い。
複雑な言語を駆使して巧緻の限りを尽くしたその詩は確かに美しい。
が、人間社会に置いてはあまり実用性を持たないのも事実だ。
もちろん、翻訳の需要も少ない。
具体的に言えば、「エルフ語の翻訳家」と言う職業では食っていくのが難しいぐらいに。
――そう。食っていくのが難しいのだ。
だから、我慢しなくてはならない。
「……ねえリカ、一つ聞きたいんだけど」
「はい、貴方様。何でしょう」
「エルフというのは、豆が好きなの?」
食卓に並んだ幾つかの皿。
これらは全て僕の屋敷にやって来たエルフのお手製だ。
最初、僕は彼女に料理が出来るとは思っていなかった。何しろ彼女は記憶喪失なのである。
身の回りのことさえどれだけ出来るのか不安だったのだが、そんな僕の心配は杞憂でしかなかった。
リカは家事なら大抵の事は器用にこなしてしまう。
もちろん料理だって例外ではない。
「せっかく立派なかまどがありますから、使わないともったいないです」
と言って、わざわざ自分でパンを焼くのには驚いた。
「パンを焼くのはパン屋」という時代でもないし、昔に比べれば生地を作ることも難しくは無くなったが、それでも自宅でパンを焼く主婦はそれほどいない。せいぜい買ってきたものをあぶるぐらいだ。
これは僕にとってはとても有り難い誤算だった。
文句なんて言えるはずがない。
そう、文句のつもりではないのだ。ちょっと疑問に思っただけで。
「……もしかして、お口に合いませんでしたか?」
神妙な顔になるリカに、僕はすぐさま否定した。
「いや。とても美味しいよ。…………ただ、豆料理が多いな、と」
豆の煮込み、豆のスープ、ゆでた豆のサラダ、豆を潰してペースト状にして焼いたものから、パンにまで豆が入っている。
「ああ、それはですねっ」
リカはそれまでの不安げな表情から一転、目を輝かせる。
「市場で、とても安かったんです!他の作物なんかと比べても随分とお得で、ついつい大量に買ってしまいまして!」
我慢しようと思っても苦笑いが漏れてしまう。
悪びれているのか、自分の目利きを自慢したいのかわからない。
最近になって彼女は「買い物」を憶えた。
いくら記憶喪失だと言っても日常生活は送らなければならない。
エルフの里ではどうか知らないが、人間社会で日常生活を送るには、やはり貨幣経済に馴染む必要がある。
僕は彼女に通貨の種類を教え、一般的な商品の価値を市場で教えた。
エルフであることを知られると少々面倒な事になる可能性もあるので、その特徴的な耳だけは頭巾や帽子で隠させ、まるで本当の夫婦であるかのように装いながら何度も二人で街の市場に出かけた。
最初は不安と緊張が勝っていた彼女も、いつの間にか臆することなく一人で買い物に行くようになり、今となってはこうしてお買い得自慢をするまでになったというわけだ。
「まだまだ豆はありますから、たくさん召し上がって下さいねっ」
若草色のエプロンを椅子の背もたれに掛け、嬉しそうに食卓に着く彼女は、知らない者から見れば幸せな新妻そのものだろう。
「ああ、一緒に食べようか」
一足先に席に着いていた僕は、さりげなくパンに入っている豆を取り除きながら笑顔で答えた。
「……?」
スプーンを手にして、「どの皿からいただこうかしら」と呟く彼女の目が、僕のそんな仕草で止まる。
良くない兆候だ。
「あの……」
「ん?なんだい?リカ」
僕は誤魔化すように笑顔で彼女を見る。
「もしかして……」
「美味しいよ。さっきも言っただろう?」
こういうときは先回りするに限る。
「ですけど、そのパン……」
食い下がってきたか。まずいな。
「特にこの煮込みは良い味だ。香草の香りが効いている。これも庭に生えていたのかな?」
「えっ、ええ。……ここのお庭は素晴らしいですね。何年も手入れされていなかったとは思えません。土も良いですし、虫も鳥も己をわきまえています。以前手入れされていた方はとても才能があったのでしょう。むしろなるべく手を入れずに自然の姿が循環するよう考えられていたのではないかしら」
よし。いいぞ。リカは庭について話し始めると止まらなくなる。
亡き母がそれほど庭造りの才能があったとは知らなかったが、とにかく話を逸らすことには成功したようだ。
「――で、ですね、そのパンのことなのですが」
「…………」
むう。
やはり無理だったか。
食卓の空気に耐えられず、僕は水から顔を上げるように言葉を吐き出した。
「口に合わないわけじゃないんだ」
彼女は恨むような困ったような怯えるような、なんとも言えない目線で僕を睨む。
「豆は好きだよ。パンももちろん大好きだ。特にリカの焼くパンはとても美味しい」
「ならどうして……!」
「でもね、豆の入ったパンだけは無理なんだ。それぞれが好きかどうかは問題じゃない。二つを合わせるとダメになる。食感が気持ち悪い。口の中で味がにごる」
有無を言わさぬ口調で告げるが、それでも彼女は納得がいかないらしい。
わずかに口を尖らせて眉をハの字にした上目づかい。エルフの女性らしからぬ、子供っぽい表情だ。
「ごめんよ。先に言っておけばよかったね」
普段はとても温厚で臆病な彼女が、唯一怖じずに僕に主張してくるのがこれだ。
リカは僕の好き嫌いに関してとても厳しい。
食事は彼女にとって大事な意味を持つことであるらしいのだ。
これがエルフ共通のものなのか、それとも彼女特有のポリシーなのかは僕には確かめる術がない。
もちろん食事を大事にしない種族などいるわけがないのだが、彼女の場合は少々行き過ぎているように感じられる。食欲が無くて少しパンを残しただけで、まるで肺病を宣告されたかのような悲壮な顔になるのだから、偏食の気がある僕としては正直勘弁してもらいたい。
「……わかりました。むしろ私がいたらなかったのだと思います。もっと貴方様の好みに注意深くなるべきでした」
「それは違うよ。僕の好き嫌いの問題でリカのせいじゃない」
「ですが、先日のマッシュルームの件だって」
「あ、あれは仕方ないよ。人間と言う種族は文化的にあまりマッシュルームを食べないものなんだ」
「え……?では何故あれほど大量に市場に売られているのでしょう?」
「――っ。あ~、え~と。そ、そうだ。家畜。家畜の餌に使うんだよ」
「それにしては随分と値段がするような……」
「ま、まあとにかく。リカが料理を作ってくれるだけで僕は随分と助かってるんだ。もしかすると嫌いなものも出てくるかも知れないけれど、その時はその時さ」
マッシュルームの件に関しては、正直思い出したくもない。
「そう、ですか……」
長く尖った耳が、どことなくしおれているように見えたのもつかの間。
彼女は一つため息をついて顔を上げた。
こういう時の切り替えは随分と早い。いつまでもグジグジとしないのがこのエルフの良いところだ。
「では、今度からは豆を潰して生地に混ぜてみましょうか。でも上手く膨らむかしら?」
「ん?ああ、まあそれなら食べられるかもしれないけど。でも、そこまでして豆にこだわらなくてもいいんじゃない?」
彼女の試みはわからなくもない。僕の偏食を少しでも直そうと考えているのだろう。
が、しかしこれは少し方向性が違う気もする。
僕は豆パンの食感が嫌いなだけで、豆もパンも食べられるのだ。
嫌いなものを好きなものに混ぜるのはわかるが、この場合はあまり意味がないように思える。
しかしこの質問に彼女は不思議な反応を見せた。
「い、いや、豆にこだわっているわけではないのですが……」
「?」
一体どうしたというのか。
いつもは透き通るような白い肌にはっきりと赤みが差している。
何か恥ずかしいことなのだろうか。
長い耳をピクピクとさせ所在なさげにもじもじとうつむいている姿はどことなく扇情的で、もうしばらく見ていたいと思わせるけれど、たかがパンのことでここまで恥ずかしがる理由にも興味があった。
無言で続きを促すと、彼女は小さな声で白状する。
「こ、小麦は少々値がはるので、少しでもかさを減らしたいな、と……」
「……あ」
そういうことか。
確かにそうかもしれない。今年は例年になく麦が不作らしく、普段より遙かに高い値段で取引されているようだ。
「あ、ああ、それは、ごめん」
「い、いえ。貴方様が謝ることではありません。……たぶん、いや、きっと私が買い物下手なのがいけないのです」
自分の甲斐性なし具合にため息が漏れる。
僕がリカに預けている程度の生活費では、それほど高価なものは買えないはずだ。
そもそも使える金額が小さいなら買い物の上手い下手でどうにかなる余地など少ない。
「僕の稼ぎが少ないのが悪いんだよ。もう少し渡してあげられればいいんだけど」
「そんな滅相もない!貴方様は毎日、机に向かってお仕事をしてらっしゃるではないですか!」
うーん。毎日机に向かっていれば儲かるってものでもないんだけどな。
それならもっと世の中の人は勤勉なはずだ。
「まあエルフ語の翻訳なんてそれほど稼げる仕事じゃあないからね」
「そういうものなのですか……」
その事実に、エルフであるリカは大きく肩を落としてしまう。
「あ、ああ、いやエルフが悪いわけじゃないんだ。今の人間があまり詩を読まなくなったというだけのことさ。僕のやってることは、いささか時代遅れなんだよ」
これでも昔は、エルフ語を読めることに価値がある時代があったのだ。
貴族達が隆盛を極め、資本家なる人種が登場していない遠い昔。
彼らの社交界では、エルフの詩を引用して恋文を出すことが大流行した時期があったらしい。
エルフ詩はこぞって翻訳され、エルフ語を読めるというのは一つの教養として価値を持っていた。
格好のパトロンとなった彼らに後押しされる形でエルフ語学はその地位を大きく高め、エルフ語を学びたいと言う人間は後を絶たなかったと言う。
今でも大学で亜人語学の選択肢の一つとして学ぶことが出来るのはその頃の名残りでもある。
けれど。
「今の時代、誰も詩なんて読まない。貴族は没落し、資本家は哲学書を読み、大衆は歌劇を観る。どこにも需要が無い。お情けで訳詩集を出してくれる出版社もあるけれどね。これがほとんど売れない」
「そんな……」
もちろん訳詩以外の仕事もあるにはある。
例えば、エルフ達は高い医療技術を持っているとされる。本物かどうかは置いておくとして「エルフ秘伝」という売り文句の薬はそこかしこで見られる。
もし、彼らが残した医術書などが手に入れば、その価値は計り知れない。
一山いくらの詩集とはケタが違う金額が動くだろう。
けれど、そういったものは数が少ないし、あったとしても自分みたいな若輩にはそんな仕事はまず回ってこない。
「ま、だからエルフ語の翻訳家というのは、売れない詩を訳し続けて実績を積んでいくしかないのさ」
僕は自嘲気味にそう言って豆のスープをスプーンですくう。
「さしでがましいことを聞くようですが……」
「ん?」
「何故、エルフの言葉を仕事にしようと思われたのですか?」
「それに答えるのはなかなか難しい。何故エルフ語を学び始めたのか、から説明しないといけないしね」
僕はスプーンを手にしたまま、次の言葉を言おうとして、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「――――エルフ語には、ロマンがある」
おそらく恩師ハイマンもこんな気持ちだったのだろう。
「ロマン、ですか……?」
「まあ、要するに。僕はエルフの言葉が好きなんだよ」
難しい活用も、その言葉で描かれた美しい詩も。
たとえそれが少々時代遅れだったとしても。
新しい未訳の詩を前にした時、これが僕にどんな世界を見せてくれるのだろうと胸躍るのだ。
「そう、ですか」
僕の言葉を聞いた彼女は、それまでの表情が嘘だったかのように、にっこりと微笑んだ。
「私はエルフとしての記憶はありませんが、その言葉は、その、とても嬉しいです」
その笑顔を見て僕は、この仕事を選んで良かったと、そう思ったのだった。




