第18話 寝室にて
うちの母は、あまり身体の強いほうではなかった。
寝込むことも多かったように記憶している。
かなり地位の高い出自である母が、すでに落ち目もいいところだった父の家に嫁いで来たのも、身体が弱かったせいだと聞いたことがあった。
血筋を絶やさぬよう産めよ増やせよが当たり前な貴族社会の中で、満足に子が産めるかどうかわからない娘というのは冷遇されがちなのだ。
実際、僕に兄弟が居なかった理由も母の身体を配慮してのことだろう。
それほどまでに病弱なのに、よく家のことをしていたのだから驚きだ。
当時は少ないながらも使用人を雇っていたのだけれど、「やってみたい」の一言で仕事を奪ってしまう奥様に、メイドや庭師もさぞ困ったに違いない。
高貴な家からやってきた天真爛漫で世間知らずなお嬢様のたわむれに付き合わされるほうは、たまったものじゃなかっただろう。
そんな若草色のエプロンをつけて動き回る母を、父がハラハラしながら見守っていたのをよく憶えている。跡目争いや社交界とのあつれきとは無縁な貧乏貴族だったのが逆に幸いしたのか、仲の良い両親だった。
二人揃って流行り病にかかり、息子を帰省させる間もなく亡くなったとの手紙を受け取った時、僕はしばらく大学の寮で呆然としたものだった。
けれど、心のどこかで、あの夫婦らしいな、と思いもした。
父は母が心配でついて行ったのではないか、という感傷に満ちた想像が頭から離れなかったのだ。今でもあちらで仲良くやっているんじゃないだろうかと。そう、信じている。
そして、そんな二人の間に生まれた僕も、幼い頃はしょっちゅう体調を崩していた。
風邪を引いては寝室で天井を見上げる日々のなか、母がよくそばについていてくれたものだ。
自分も身体が弱いのに、ベッドのそばに椅子を持ってきては編み物をしながら僕の寝姿を見守っていたことを今でも鮮明に思い出せる。
――そう、例えば今みたいに。
「あら。お目覚めになりましたか」
「…………リカ?」
「あ、すみません。手持ち無沙汰だったもので」
そう言って毛糸と棒針を手にした姿は、どこかしら母によく似ていた。
「どうですか、具合は。何かお持ちしましょうか?」
「ああ、大丈夫。リカの薬はすごいね。一晩寝たら昨日までがウソみたいに良くなった」
「それはなによりです」
満面の笑みを見せるリカ。
それは数日前のこと。どこからもらってきたのか、僕は不覚にもひどい風邪を引いて寝込んでしまっていた。
起き上がれない僕に彼女が「自分で薬を作る」と言い出した時は随分驚いたものだったが、その効果はてきめんだった。
エルフの薬というのは人間からしたら魔法のようにさえ見える、という話を聞いたことがあったが、それはどうやら本当のことのようだ。
僕はひとつ大きな伸びをした。身体が軽い。
外は好天で、雪の照り返しもあってか、窓から差し込む光がまぶしい。
「うん。これなら大丈夫そうだ。寝てばっかりじゃ身体もなまるし、そろそろ起きようかな」
しかし、そう言う僕をリカは慌てて制する。
「まだいけませんっ。風邪というのは、治ったように見えてもまだ身体の奥に邪気が残っているものなのですよっ」
「そ、そうなの?」
「そうですっ。せめて今日一日ぐらいはゆっくり横になっていてください」
「今日一日って……、長いなあ」
横になっているだけ、というのは時間が過ぎるのが遅い。子供の頃にうんざりするほど経験したことだ。
成長して身体もそれなりに丈夫になってからは、皮肉にもベッドが恋しくなるぐらい忙しい日々もあったけれど、それでもやはりずっと寝続けることは出来ないものだ。
「文句は明日に聞きましょう。それより水をお飲みになられたほうがいいですよ。寝起きには水です」
なんだか有無を言わさない剣幕で水差しからコップに注いだ水を渡してくる彼女である。
まあ、それもそうだろう。
僕が倒れた時の彼女の慌てぶりは、これまでに見たことがないほどだった。
大人しく素焼きのコップを手にして、ゆっくりと喉を潤す。
「ふぅ……」
僕は、寝室にはあまり物を持ち込まないようにしている。
とくにこだわりというほどでもないが、そのほうが眠りにつきやすい。
殺風景な部屋に、僕が横になっているベッドと、リカの座っている椅子と、小さな棚がひとつ。
その小さな棚の上に、見慣れない花瓶が置いてあるのに気付いた。
「そこにあるのは……、薔薇かい?」
「ええ。最近は寒さも緩んできたのか、冬咲きのものがぽつぽつと出始めたので」
薔薇というのは、見栄えが良いだけでなく、とても強い植物だ。
育てやすく、寒さにも負けない品種も多い。観賞用としてだけでなく、香料に使ったり食用にしたりと様々な用途があり、今もさかんに品種改良がなされている。
冬に咲くものもそれほど珍しくはない。少しは強さを見習いたいものだ。
「言われて見れば良い香りがするね」
その昔、教会が「人を惑わす」と言って栽培を禁止したのも理解出来るような、どこかしら妖艶な香り。
しかしそれは悪い意味ではない。教会の力が弱まるにつれ、どんどん王族や貴族の名が付いた品種が開発された歴史がそれを物語っている。
「元々お庭に植えてあったものですが、冬にも楽しめるようなものがちゃんと用意されているというのは、細やかな配慮に感心いたします」
そう言えば母は庭造りに関して、リカが認めるほどの才能があったようだ。
もちろんエルフが人間社会の庭園文化に対して造詣が深いはずはないのだけれど、少なくともお茶や薬を自分で作り〝森の民〟なんて呼ばれるぐらい植物に詳しい民に褒められるというのは、きっとそれなりのものなのだろう。
「それよりもお食事と着替えを済ませてしまわないと――」
「…………うっ」
思わず声が漏れてしまう。
来たか。
リカに看病してもらうのは初めての経験だったのだけれど、はっきり言って最初のうちはそれはそれはひどいものだった。
どのようにひどいかと言うと。
「あ、あのさ。もう、身体を拭くのは自分で出来るから、その間に食事の準備をしてもらっててもいいかな?」
「え、あ、は、はい。……そ、そうですね。そうしましょうか」
わざとらしく席を立つリカ。
……そうなのだ。
風邪を引けば当然熱が出る。熱が上がればどうしても汗をかいてしまう。
ただ着替えるだけでなく、身体を拭く必要があるのだ。
最初に彼女に身体を拭いてもらった時は、お互いに意識してしまってそれはもうなんとも言いがたい空気だった。
特に僕のほうは熱も上がってうまく身体を動かせないような状態で、何がどうなっていたのかほとんど憶えていない。いやむしろ忘れたい。
「こ、こちらにお湯を用意していますので」
用意のいいことに彼女の足下には桶と布が置かれている。
「そ、それではお食事の用意をしてまいりますねっ」
目を合わさないようにそそくさと部屋を出て行くリカである。
あの時のことを思い出しているのかも知れない。
たまたま様子を見に来たクロキ氏が、からかうことすらせず気まずそうに「ま、まあゆっくり養生したまえ」と言って出て行く有様だったのだから仕方の無いことだろう。
「ふぅ…………」
上着を脱いで、お湯に浸した布を身体にあてる。
少し湯気の出ている布の感触が寝起きの身体に心地よい。
「しかし、もう少し慣れないとなぁ」
例えば、これが逆の立場になった時、僕は同じように彼女の面倒を見ることが出来るだろうか。
誰もがやっていることのはずなのに、男女が一つ屋根の下で暮らすというのは、意外と簡単な話ではない。
それこそ主従関係のような、事務的な間柄なら気が楽なのかも知れないが、そうもいかないのだ。
少なくとも彼女は、「嫁として」我が家で暮らしている。
まあ実際のところ本当の夫婦と呼べるような状況ではないけれど、かといって今のリカに他に行くあてはない。
このままいつまでも曖昧な関係を続けるわけにはいかないだろう。
それに――――。
お互いに、お互いのことを、憎からず思っていると、そう思いたい。
例えば。
僕の両親のような関係を、リカと築いていくことが出来るのだろうか。
この小さな屋敷で、つつましくも幸せな時間を二人で過ごすことが。
家庭と呼べるものを作りあげることが。
あの、かわいらしいエルフの女性と。
「――――って、何を考えてるんだ」
布を固くしぼりながら、ちょっとした夢想を追い払う。
やっぱりまだ風邪の邪気が残っているのかもしれない。
少しだけ火照った身体を清潔な衣服に通して、窓を開けた。
冷たくも澄みきった外気が勢いよく入って来る。
すうっと息を吸い込むと、雪が溶け始めているのか、ほんの少し湿り気があった。
が、ゆっくりと吐く息は白い。冬咲きの薔薇が咲いたとは言え、まだまだ寒い時期は続きそうだ。
クロキ氏はいつ頃ここを発つのだろうか。雪が溶けきってからだろうか。
あの皮肉屋のケット・シーが旅に戻れば、また二人きりの生活が始まる。
それは以前のような、お互いの距離感がつかめない男女の不器用な共同生活とはいかないだろう。
少しづつではあるけれども、進展しているのだ。
過去の記憶がなく種族も違う女性を、女性として意識している自分に向き合わなくてはならないのだ。
障害は少なくないだろう。
祝福もされないだろう。
けれど。
「――空気を入れ換えるのは良いですけれど、あまり風に当たるとまたぶり返しますよ」
気付けば後ろに湯気の立つ小鍋を持った彼女が立っていた。
その顔は窓からの陽光に照らされて、輝いて見えた。
彼女はいつの間にか僕の大事な部分を占める存在になっている。
ゆっくりと窓を閉じて、その女性に向き直る。
「そうだね。今日一日ぐらいは、のんびりとリカと一緒の時間を過ごそうか」
そんな他愛ない言葉ひとつでわかりやすく頬を染める彼女に、自然と頬がゆるむのを止められない自分は、まだ病にかかっている最中なのかも知れない。
◆◇◆◇◆
――前言撤回、というわけではない。
しかし、もう少し慣れるまで時間が欲しいというのが本音だ。
「貴方様?どうしたのです?やはりまだ食欲が無いのですか?」
「い、いやそういうわけでは……」
「では早く口をお開けくださいな。冷めてしまいますよ?」
「あ、あのさ。さすがにもう自分で食べられるから……」
「だ、ダメですっ。安静にしていて下さいっ」
……リカさん、ちょっと鼻息があらい気がするのですが。
「早く、ほら、あーん」
「……あ、あーん」
暖めたチーズとミルクの香り。
柔らかく煮られたパンの溶けるような食感。
わずかに爽やかな香草の風味が効かせてあるパンがゆは、病み上がりにはこの上ないごちそうのはずなのに、あまり味がしない。
口に含むと、ゆっくりと匙が引き抜かれる。
我が家の少ない銀食器のひとつが、小鍋の中に差し込まれ。
そして。
「ふー、ふー」
リカの唇が、次の一匙を優しく冷ます。
「はい、あーん」
なんだろう。この追い詰められているような感覚は。
いや、まあ、もちろん、年頃の男性ならば、石が飛んできてもおかしくないぐらい羨ましがられるような状況というのはわかるよ?
けれど、実際にこういう立場になってみるとなかなか心から楽しめるものでもないのだ。
リカはもう、恥ずかしいという感覚はとっくに脱ぎ捨てて、むしろ嬉々として母鳥がひなに餌をやるような行為に没頭していた。
ちょっと興奮しているようにさえ見える。
身体を拭くのは恥ずかしいのに、ご飯を食べさせるのは喜ぶのだから女心はわからない。
……恥ずかしがっているのは僕ばかりだ。
「あ、あーん……」
「どうです?美味しいですか?」
「う、うん」
仕方なくうなずくと、にっこりと笑顔を見せるのだからまたタチが悪い。
……まだまだ、夫婦の真似事は僕には早かったようだ。
パンがゆのかぐわしい匂いの中、妖しげな薔薇の香りが僕をからかっているように思えたのは、きっと考え過ぎなのだろう。
特に何も起こらない箸休め的な回……と思ったけど、この作品そんな話ばっかだな。




